二章:a little closer...14





 ヴィクトリア号の屋上デッキは、最上階席のディナーを予約したゲストにだけ解放されているらしい。豪華客船のクイーンヴィクトリアのなかでも、恐らく一番高価な席なのだと思う。フロアにいた人も、このデッキにいる人たちからも、ただならぬお金持ちのにおいがぷんぷんする。私は明らかに場違いに映っているんじゃないかなあ。大丈夫かなあ。
さらに今は、屋上デッキにいる私以外の人たちはみんな男女のカップルどうしだという居心地の悪さがあった。私は小さくなりながら、隅っこの手すりにしがみついていた。なるべく目立たないように、肩を縮込ませながら。

 船はゆっくりとシドニー湾を進んでいく。私は、船の進行方向に身を向け、前方をぼんやりと眺めた。オペラハウス、それからゴールデンゲートブリッジが見える。ライトアップされた白のオペラハウスとブリッジは美しく、海面に反射した光がきらめいていた。
 シドニーの夜景を海から眺めたのははじめて。
 フィレンツェのようなしっとりとした雰囲気ではなくて、きらびやかな夜の街。現代的な建築物がはっきりとした光を放っていて、存在感がある。フィレンツェの落ち着いた夜景も好きだったけれど、シドニーの夜景もとてもきれいだった。

    それにしても。ルパンはいったい何をしてるんだろう。遅いなあ。トイレにこんなに時間がかかる?もう10分以上は経っている気がする。まさか本当に女の人を口説いてるわけじゃないよね、……。
 今日はルパンがずっと近くにいた。でも、いなくなってしまうと、今までのことが全部夢だったような気がしてきてしまう。いずれルパンは戻ってきてくれるのだろうけど、今日という一日が終わってしまったら、この日あったことはすべて夢のなかの   思い出のなかの出来事に変わってしまう。
 タイムマシンがあったら、ずっとずっと今日を繰り返すのになあ。そんな叶いっこない願いは虚しく、シドニーの夜の景色と共に流れていった。無情にも時間は流れていく。この船が海を進むのと同じ。

 頬を撫でる夜風が冷たい。夏とはいえ、海の上は風が涼しかった。ボレロをぎゅっと手繰り寄せても、まだ寒い。身を寄せて腕を抱いた。もう少し待ってルパンが来なかったら、船の中に戻ろうかな   そう思ったときだった。
 後ろからふわり、と肩に何かがかかる心地。かすかに煙草の香り。

「ごーめんごめん、待たせっちまって」

 ルパンがそう言いながら私の隣に並ぶ。赤いシャツに薄い色のタイ。ルパンが着ていたジャケットは、私の肩にかかっていた。

「寒いだろ?」
「う、うん……ありがとう」

 ジャケットにはルパンの温もりが残っていて、暖かかった。いつもの煙草の匂い。寒さに震えるふりをして、そっとジャケットを引き寄せた。そのまま浸ってしまいそうになるのを堪えるために、私は訊いた。

「ずいぶんと長いトイレだったね?」

 ルパンは「ああ」と苦笑する。本来の要件はトイレじゃなかったんだろうなと感じていたけれど、ルパンは真実を話してくれない気がした。素敵な女の人を見つけたのか、盗みのアイデアでも思いついたのか、私には立ち入れない領域のような気がして。
   でも。ルパンは私にピタリと身を寄せてきて、私の耳元で小さく言った。

「ジュディ・ミラー   知ってるか?」

 耳にかかるルパンの吐息に、心臓が跳ね上がる。反応してしまわないように精いっぱいになっていた私は、ルパンの言葉の内容を理解できなかった。ただおうむ返しで手いっぱい。

「ジュディ……ミラー?」

 女の人の名前ということはわかった。突然何なんだろう。頭を働かせたかったけれど、今はルパンとの近すぎる距離に考える余裕がなかった。頭のなかがパンクしそう。

「そ。ベルモンドホテルグループの女副社長さま。次期社長は確実って話だ」

 ベルモンド   。オーストラリア国内で、『ペルーズ』という名前の一流ホテルを多数展開しているホテルグループ。最近では世界の主要都市にもブランドホテルをオープンさせた、という話を聞いたことがある。考えを巡らせていると、少しずつ思考ができるようになっていった。そういえば、その副社長がやり手の女性だって、雑誌か何かで読んだ気がする。

「今、この船に乗ってるんだよ。その副社長が。ほうら、あそこ」

 ルパンがちらりと横目で視線を投げる。私もその方向をそっと見た。薄暗いなかだったので、きちんと姿かたちは見て取れなかったけれど、ショートカットでパープルのロングドレスを着こなしている後姿が見えた。隣には背の高い男性の姿。

「バースデークルーズなんだと」
「へえ……それで、その人が、何か?」

 ひそひそと顔を近づけあって語り合う私たちは、傍からどう見えるのかな。なんて甘い妄想を広げようとしていたところで、すぐに現実に引き戻された。

「あの女副社長が持つダイヤのブローチがな、世界最高の評価がされたピンクダイヤなんだと。アラブの石油王からプレゼントされたシロモノだって話だ。それを不二子が狙っててな」

 “不二子”。突如ルパンの口からこぼれた名前に、私の胸中は一気に冷え切った。峰不二子さん。ルパンと深い関係にある女性、……。私はざわざわと落ち着かない切なさを抱えながら、口先だけで訊いていた。

「それで……盗んできたの?」
「まっさか!」

 ルパンは身を反らせて、首を大きく横に振る。

ちゃんとのデートの最中にそぉんなことしませんよ」

 言葉の内容は嬉しいものなのに、素直に喜べない。

「でも、“何か”はしてきたんでしょ?」
「まあ   少々指紋を頂きに」

 ルパンは苦々しく笑う。
 そうか。いくら誕生日だからといって、彼女   ミラー氏が、世界最高のダイヤとやらを身につけてくるはずはない。どこかに保管してあって、その場所を開けるのに、ミラー副社長の指紋が必要なのだろう。

「そっか……ヴィクトリア号のディナーに誘ってくれたのは、そういうわけだったんだ」

 つい意地の悪い言い方になってしまう。ルパンは慌てた様子でぶんぶんと首を横に振る。

「ちがうちがう!逆だよ。ヴィクトリアの“ついで”に指紋を頂戴したんだって」
「いいよ、べつに。美味しいディナーを食べられたんだもの」
「いやぁ誤解だって。修復のお礼にちゃあんと美味いもん食わせてやるって言ったろ?」

 修復のお礼に、ね、……。
 ルパンがわざわざデートに誘ってくれたのだと思っていたけれど、そうではなかったみたい。修復のお礼なのか、ダイヤを探るついでなのか。でもいいよ、なんでもいいよ。ルパンと過ごせたんだもの。そう納得しようとしたけれど、やっぱり少し寂しい。

「でも、せっかく盗みのターゲットが来るってわかってるなら、不二子さんと来れば良かったのに。そのほうがスムーズだったんじゃない?」

 不二子さんがいれば、直接盗むことだってできたかもしれない。もっと大きな手掛かりを得られたりしたかもしれないのに。私なんかと一緒にいるよりは、ずっと有意義な時間を過ごせたんじゃないの。
    ああ、可愛くないなあ、私ってば。どうしてこんな言い方をしてしまうんだろう。
 ルパンが私をデートに誘ってくれて、今日はずっとルパンと一緒にいて。今日だけは、ルパンは私を見ていてくれてる   だなんて錯覚してしまっていた。そんなことあるわけがないのに。
 だから、実際は私との外食は何かのついでだったんだと分かって、落差が大きいんだ。

「だ・か・らぁ、ピンクダイヤの件はついでなんだって。それに不二子のやつは今ごろどっかの金持ちの坊ちゃんと一緒にいるだろうよ」

 お金持ちの男性と不二子さんが一緒にいる?大事な不二子さんが、他の男の人と一緒にいる。それをしれっと言うルパン。それを許すルパン。

「ルパンは   それで……いいの?」
「なにが?」

 ルパンの問いに答えようと口を開いて、でもこれ以上何かをしゃべったらどんどん嫌な自分になっていく気がして、言葉を失ってしまった。
 そのとき、ドン、と地響きのような音が聞こえてきて、息を呑んだ。一瞬の間の後、前方の夜空にぱっと光の花が咲いた。ドン、ドン、ドン、という重低音と、パン、パン、という乾いた音。赤、青、黄色、緑、色とりどりの光の大輪。海面に映し出されるカラフルな影。
 ハーバーブリッジの上に、たくさんの花火が打ちあがっていた。

 きれい   

 今日は花火大会の予定なんてなかった気がする。いったいどうしたんだろう。そんな疑問が頭を過ったけれど、海上から見上げる光の花々は美しく、言葉が出なかった。ちらっとルパンを横目で見上げると、ルパンも興奮気味に夜空を見上げている。ルパンの横顔にカラフルな光が写り込んでいた。その光景に見惚れて、思わず目を細めてしまう。ルパンに気がつかれる前に視線を元に戻して、夏の風物詩を楽しんだ。

 花火が打ち上がっていたのはほんの数分だった。なんだったんだろうと内心で首をかしげていると、ルパンが言った。

「ミラー女史へのバースデープレゼント、らしいぜ。元プロテニスプレーヤーの恋人だってよ」

 ミラー女史。一瞬誰だっけと思ってしまったけれど、そうだ、さっき話に出たベルモンドホテルの副社長だ。ということは、彼女の隣にいるのがそのテニスプレーヤーの恋人なのだろうか。ちらっと彼女のほうに視線を向けると、わあ素敵、という歓声が上がっていた。

「さすが……お金持ちはやることが違うね……あれ?でもダイヤをプレゼントした石油王は?」
「副社長はたいそうおモテになるようで。石油王に不動産王なんてのも恋人だったらしい」

 ルパンは呆れたように笑う。

「っていうことは、独身なんだ?」
「ああ。バリバリの営業ウーマンで、仕事一筋、自力で副社長の座に登りつめたんだと」
「へえ……」

 今度雑誌記事をきちんと読んでみよう。さぞかし綺麗な人なのかな。きちんと見てみたい気もするけれど、彼女の姿はいつの間にかなくなっていた。

 いつの間にかオペラハウスが近づいていて、船旅の終わりがやってきた。シドニーの街並みを眺めながら、あそこがランチした公園だとか、さっき登ったタワーだとか言い合っていたら、あっという間に船はもとの桟橋に着いてしまった。さっき不二子さんについて言いかけた言葉は、いつの間にかうやむやになっていた。
 重い足取りで、私はルパンとヴィクトリア号を後にする。たぶん、もう乗る機会はないだろうなあ。

 楽しかった一日が終わってしまう。遠足終わりの子供だってこんな絶望的な気分にはならないと思う。切なさに顔を歪めてしまいそうになるのを必死で堪えながら、ルパンの隣を歩いた。
 「じゃあ帰るか」というルパンの言葉が怖くて、耳を塞ぎたかった。
 でも。

「もう一杯くらい飲んでくか」

 ルパンはそう言った。私は驚いて、ルパンを見上げた。もう一杯   ルパンはそう言った。
 けれど、ルパンは私を見返すことなく、前方に目を凝らしていた。どうしたんだろうと私も視線の先を追う。建物の隙間に、人影があった。私も見覚えのある人の姿   五エ門だった。

 

(16.4.6)