#13. REAL FIRE
気がつくと、はベッドの上に仰向けになっていた。どうやって帰宅したのかは覚えていない。ひたすらに考えごとをしていたらしい。もどかしさや腹立たしさ、後悔、やり場のない黒々とした感情などに完全にとらわれていた。しっかりしなきゃとようやく気力を取り戻してきた頃には、帰宅して既に数時間が経っていた。
これでヴァージルの機嫌を完全に損ね、かろうじてあった信用も失ってしまった。彼に本格的に目の敵にされてしまったら、鑑定界では仕事ができない。あそこで口を出してしまったのは軽率だった。今まで積み重ねてきたものが全部水の泡になってしまった。
でも。間違ったことは、言っていない。
あのゴヤンは本物。他の鑑定士だって、あの絵の持つ力は感じているはず。それなのに、ヴァージルへの遠慮からか、己の保身からか、意見を言わなかったのだ。
堕ちてしまった鑑定界。容易に抗えるものではないからこそ、余計に歯がゆかった。
ひとつだけ道が残されているとしたら、クロフォード伯爵
伯爵にヴァージルとの間に入ってもらうなり、後ろ盾になってもらうなりすれば、まだ鑑定士としてやっていけるチャンスはあるかもしれない。
けれど、今回のことで、伯爵もを見限っただろうか。
伯爵がヴァージルに対して見せた、一瞬の暗い陰。それを当てにするしかない。
しかし、伯爵の後ろ盾を得るということは、ヴァージルと同じ道を歩むということ。当のヴァージルを蹴落として、彼と同じ道へ、……。
ジリリリ、とドアベルの鳴る音に、ははたと思考を止めた。
時計を見る。夜八時だった。いったい、誰だろうか。
身体を起こすと、もう一度ベルが鳴った。
玄関まで向かい、そっと覗き穴を見て、息を呑む。
レンズの奥にいた人物は、ここ数時間の思考の中心にいた人物。
ヴァージルだった。
何をしに来たのだろう。いい話ではないことは確かだ。でも、いい機会かもしれない。彼とじっくり話し合って、信用を取り戻せるかもしれない。ヴァージルとの会話は、避けて通れない道。
は決心して鍵を外し、戸を開けた。
ヴァージルは挨拶も会釈もせず、無表情で「話がある」と言った。は無言で彼を部屋に招き入れる。
「先生がうちに来るなんてはじめてですね」
愛想よく言うが、ヴァージルの表情も口調も厳しかった。
「二人きりで話がしたくてな」
「
はキッチンへ向かおうと足を伸ばすが、ヴァージルは「いや、いい」と断った。
「長居をするつもりはない」
言葉通り、ヴァージルは立ち尽くしたままコートも脱ごうとしない。
私、クビかな。
あくまで厳格な様子のヴァージルに、は覚悟した。
「。おまえはどういうつもりなんだ?私を蹴落とそうとでもしたのか?」
いずれは彼のポジションを手に入れたかったとはいえ、あのときはそんなつもりはなかった。は「いいえ」と首を横に振る。
「自分の考えを言っただけです……好きな作家の作品でしたので、つい」
「鑑定会では意見するなと言ったはずだ。ましてや、あのときの口振りだと、私よりもおまえのほうが鑑定士として優れている、と述べているようなものだぞ」
「そんなつもりはありません」
はきっぱりと否定するが、ヴァージルは納得しなかった。
「近頃のおまえの態度は目に余るな。先日の鑑定会といい、今日といい、クロフォードの
「伯爵の件はまだお受けしていません。先生に意見を聞いてからと、」
「私が何と言おうが受けるつもりだっただろう?」
ヴァージルは嘲笑するように言う。
「おまえと出会った頃は謙虚で献身的な娘だと思っていたのに。近頃もてはやされていい気になってはいないか」
ヴァージルの声音に次第に熱が帯びてくる。 もう何を言っても無駄。そんな雰囲気があった。どうせ助手をクビにされるのだろう。
今まで彼の機嫌を損ねないよう、可能な限り穏やかに話をしてきたが、の中で何かがプツンと切れたような気がした。
「
ヴァージルはぴくりと額にしわを寄せる。
「ミスだと?私が?誰も私の鑑定結果に反論しないではないか。科学的にも証明されている」
「反論できないだけでしょう。先生に嫌われて鑑定界から弾き出されるのを恐れているんです」
「私よりもおまえの鑑定結果のほうが正しいと言うのか?」
静かながらも、ヴァージルの声は怒りに震えていた。
は一瞬だけ躊躇って、頷く。ヴァージルはじっとを睨みつけた。
「
は胸が痛んだが、ここまで言ってしまったのだからと気後れせずに返した。
「まわりの鑑定士よりは、知識も勘も判断力もあるという自負ならあります。それだけ努力をしましたし、それだけ絵を愛しています」
「大した自尊心だな。哀れだよ。その若さで自分の能力を過信し、間違いを反省できないなんて」
ヴァージルは冷笑する。
「間違いを犯さないと言っているんじゃありません。間違いだとわかれば省みもします。でも今回の鑑定は、先生のミスだと私は思います。アルノワールもゴヤンも、私はどちらの絵も知り尽くしていますし
「ふん。体裁のいい文句をならべおって」
「体裁がいいのは先生じゃないですか。先生の
「私の何を知っているというんだ!」
ヴァージルは声を張り上げる。
「おまえには幻滅した。他の助手たちの不信感も高まっている。助手を辞めてもらおう。今すぐにだ。明日からはもう事務所に来るな」
やはり、そうか。
は目の前が真っ暗になるのを感じた。
ヴァージルの信用を失う。それどころか怒らせてもいる。もう鑑定界で
絵のことにしか才能がない私は、どこにも居場所がなくなる、……。
はしばらく押し黙ったあと、静かに口を開いた。
ヴァージルに真実を話せば、あるいは
「
ヴァージルは目を見開く。
「どこで……その名を」
「私の父です」
「なんだって!?」
ヴァージルは驚愕し、一歩後ずさった。
「まさか、そんな……あいつに娘など……家族などいたのか。しかし、おまえの姓は、」
「は、母の姓です」
「な……んだと……
「復讐なんかじゃありません」
は首をゆっくり横に振る。
「先生のもとに来たのは、ただ鑑定のことを学びたかったんです。父のことは何とも思っていません」
「うそだ……まさか……」
「先生と伯爵がなさっていたこと
ヴァージルは唇を噛み、だらりと垂らした拳を握りしめる。
「伯爵は、もしかすると簡単に人を切り捨てられる人かもしれない。伯爵の目的に沿わなかったら、いくらヴァージル先生とはいえ、……。そのことは、先生も薄々感じているのではありませんか?」
なんとかヴァージルを説得できないものかと、は口調に熱を込めて問いかけた。
「う……うるさい、黙れ!今更そんな話を持ちだしてどうするつもりだ!」
不安の色を押し隠すように、ヴァージルは怒鳴る。
「この話をネタに私を揺するつもりか?この話をばらされたくなければ、解雇はするなと」
「いえ……そんなつもりは。ただ先生に伯爵のことで警告をと思っただけで……でも、突き詰めて言うと、そういう気持ちがないわけではありません」
「なんだと…!」
「私のことがお嫌いなら助手にして頂かなくても構いません。でも、鑑定界からは追放しないで頂きたいです」
ヴァージルははっ、と吐き捨てるように笑う。
「なぜそこまで鑑定士にしがみつく?」
「絵が好きだからです」
「それだけで?」
「真作の絵が贋作に埋もれてしまっているのが心苦しいから」
「綺麗ごとだな。おまえひとりが粋がったところで、鑑定界は変えられん」
「それでも、何もしないよりはましです」
「そうか」、とヴァージルは目を伏せる。しばらく考えているようだった。
応じてくれたのだろうか。
ヴァージルはゆっくりとに近づいて来る。彼の顔色からは怒りが消えていたので、は緊張を解こうとした。
けれども。ヴァージルは素早く右手をポケットに入れ、何かを取り出しの首元に振りかざした。
ばちん
火花が弾けたような音とともに、の首筋に鋭い痛みが走る。激しい衝撃が脳をぐらりと揺らした。
の意識は一瞬で闇に引きずり込まれる。倒れ込む間際に、ヴァージルの右手にスタンガンが見えた。
「
息苦しさに目を開けると、視界は真っ赤だった。
床に寝転がっていたは即座に覚醒した。頭がくらくらしたが、それどころではない。
周りは火の海。部屋が燃えていた。立ち上がる炎。倒れゆく柱や家具。もうもうと湧き出す灰色の煙。
誰がこんなことを。
まさかあのあと、ヴァージルが?
とにかく逃げないと。
立ち上がろうとしたが、くらりと視界が揺れた。足元がおぼつかず、倒れた。四つん這いになりながらも必死で這おうとするが、息が苦しい。煙を吸ったせいだろうか。
私、死ぬの?
呼吸ができない。肺が焼けるよう。
は胸を抑えた。身体が動かない。視界も煙に巻かれ、見えなくなっていく。
だめ
「!」
おぼろげな意識の片隅に、聞き覚えのある声が鳴り響く。
ああ、とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまった。
でも、どうして最期に聞こえるのが、この声なんだろう。
「、しっかりしろ!」
すぐ近くで降ってくる声に、薄っすらと目を開ける。ルパンだった。
どうして最期に見る幻が、彼なんだろう。
でも
の意識は、そこで完全に途切れた。