「この曲、聴いたことがある。もしかして、ベートーヴェンの……なんだっけ」
「『悲愴』」
「ああ、それ」

『悲愴』。その名通りの単に悲しく辛い感情ではなく、この曲は、切なさや誰かを想う愛おしさも幻想的に歌っているような気がした。は、その旋律を撫でるように、丁寧に鍵盤を叩いていく。リーマスは目を閉じ、その美しくももの哀しい曲に聴き入った。

は、いつピアノを始めたの?」
「ええと……ホグワーツに入る前にははじめてだいぶ時間が経ってたから……」
「ホグワーツ?やっぱりここの生徒なの?」
「え?あ、ええと、……ともかく、3歳くらいの頃かな。伯父さんの影響で」
「将来は、やっぱりピアニスト?」
「まさか。もっと上手い人はたくさんいるし、私はこうやって演奏ができるだけですごく幸せだから」
「充分上手いのに。もったいない」
「ありがとう。でも、いろんな人の演奏を聴いてみるといいよ。それぞれの人によって、演奏が違うから」
「うん。今度、絶対、レコードプレーヤーを手に入れるよ」

将来、最高の演奏家の演奏を耳にすることになるよ。はその言葉を、胸の中だけで呟いた。

 

、随分待たせてしもうたのう。もとの時間に戻れるよ」
「本当ですか?」
「ああ。調べていったら、やはり今回のケースと同じように、タイムターナーの不具合で、何十年もの時を遡ってしまった者がいたんじゃ。魔法省内にある、時の間から帰ることができる。ただ、できるだけこの時代の人間との接触は避けるようにした方がいいので、こっそり忍び込むかたちになるじゃろうが。ああ、心配はいらん。わしも同行するから」
「先生も来て下さるんですか?」

ダンブルドアは大きく頷いた。彼がいてくれるなんて、それは心強い。
けれど、ようやく帰れるんだという思いもあったが、この時代のリーマスとの別れが寂しくもあった。

「急な話で申し訳ないが、明日の夜でも大丈夫かの?魔法省の見回りが少なくなるそうじゃから」
「え?ええ、はい……準備しておきます」

では、明日の夜、日付けが変わる頃にまた来よう。
ダンブルドアはそう言い残し、去って行った。

 

そうだ。リーマスと接触してしまったことを、言うのを忘れていた。明日、言わなければ。
そう。リーマスの記憶は消されてしまう。消してもらわなければならない。
夜の演奏会。夜の小さなティーパーティ。音楽の勉強会。リーマスはぜんぶ、忘れてしまう。
そのことが、の心を暗くさせたが、仕方のないことだと自分に言い聞かせた。本来ならば触れられないリーマスの過去に触れることができただけでも、良かったのだ。
どうにもならないと解っている。でも、最後に別れは告げておきたかった。
残っていた透明薬を飲み干し、ダンブルドアが来るであろう時刻の前に、は夜のホグワーツに飛び出した。

 

男子寮に忍び込むなんて、と思ったけれど、今はあれこれを考えている時間がなかった。一部屋一部屋探していくのは大変だったが、どうにかベッドの中に収まるリーマスを発見し、そっとその肩を揺すった。
彼は薄っすらと目を開け、の姿に驚愕した。

「どうしたの……!?」
「しーっ」

上半身を起こすリーマスに、は人差し指を立て辺りを窺うが、幸い誰も起きた気配はなかった。

「お別れを言いに来たの」
「えっ?」
「私……今夜、ここを発つから」
「そんな、急に……どこへ行くの?」

どうせ消されてしまう記憶だ。ぜんぶ、話してしまおう。

「私、未来から来たの」
「ええっ?」
「魔法省の中には、時間を越えられるアイテムがあるの。それが故障してしまったせいで、私は過去に来てしまったの」
「そんな、まさか」
「だから、迂闊に過去の人たちと触れ合うわけにはいかなかった。だから……あとで、ダンブルドアから薬をもらって、私の記憶は消してもらってね。ダンブルドアには話しておくから」
「待ってよ、そんな。ぜんぶ忘れろって?音楽のことも?」
「音楽のことは……大丈夫だよ、きっと。レコードがあるでしょう?それを聴いて。聴けばきっと、音楽を好きな気持ちは思い出せると思うから」
、……」
「ごめんね。勝手だよね……私が勝手にリーマスにかかわっておいて」

そんなことはないよ、とリーマスは首を横に振った。

「楽しかったよ。ありがとう」
「私も、    楽しかった。とっても」
「ねえ。未来で、僕と君はまた会える?」

その問いには答えずに、は腰を上げた。

「さよなら、リーマス。ありがとう」
「ええっ、ちょっと、」

にしてみれば、また彼に会えるというのに。
しかし、どうしてか胸を熱くさせるものがあって、は急いでその場を後にした。流れる涙を拭いながら。けれども、この胸の感情だけはここに置き棄てることのないよう、必死に包み込むようにしながら。

 

校長室の暖炉からロンドンへと飛び、魔法省を目指した。あの時と同じように、ダンブルドアは透明の呪文をかけ、2人は夜の魔法省を進んだ。 警備の者が何人かいたが、彼らは欠伸をするだけで、2人のことにはまるで気がつかなかった。
神秘部へと向かうエレベーターの中    エレベーターが動いていないように見せかける魔法をダンブルドアがかけたので、外からは気づかれないということだ    は、リーマスのことを話した。

「先生……あの、私、リーマス・ルーピンという生徒と接触してしまったんです。彼の記憶を……よろしくお願いします」
「ああ、分かった。そうじゃ。もとの時代に戻って、その時代の『わし』と会ったとしても、このことは忘れておろうから、言っても無駄じゃよ」

ぱちん、とダンブルドアは目を瞑った。
そうだ。誰も、私が過去を見てきたことは知らない。本来いてはならない存在とはいえ、私がこの時代に存在していたことは、私以外、誰も知らない。
そのことが少しばかり、寂しかった。
私のこの時間旅行の小さな冒険は、私の中だけの思い出。でも、たとえ皆憶えていなくとも、ずっとずっと私の中に大切にしまっておこう。

時の間に辿り着く。薄暗い部屋、たくさんの時計に囲まれた通路を、ダンブルドアは進んで行き、はその後を追った。

「ここじゃったかのう」

ダンブルドアは立ち止まり、ひとつの棚を調べはじめた。すると、その棚がずずずと奥に退き、通路が現れる。そこをくぐると、小さな丸い部屋の中に出た。床には時計の文字盤が大きく描かれており、壁はクリスタルのような不思議な色を放っている。奇妙な空気の流れる部屋だった。居心地は良くなかった。

「ここはのう、そのタイムターナーの故障で、本来あるべき時ではない時にやって来てしまった者が、帰還する部屋じゃ」

ダンブルドアは手招きをし、を部屋の中央に立たせた。

「君は、本当はこの時間にいるべき者ではない。ゆえに、そこに僅かに時間的な反発の力が働く。それを利用し、帰るのじゃ。ああ、そうそう。このタイムターナーも返しておかねば。修理はしてあるから、そのまま使えるよ」
「ありがとうございます、本当に」
「いやいや。わしも、夜の散歩は楽しかった。わくわくするのう」

ダンブルドアはにこりと笑い、『12』と書かれている床の部分を杖で撫でた。すると、その12という数字が輝きはじめ、1、2、3、とすべての文字が輝き出す。周囲の壁もそれに反応するように光を放ち出す。

「ああ、そうじゃった。君がこちらに来てしまった時間と同じ時刻に帰ることができるが、場所はこの場所じゃ。透明になる魔法をまたかけよう    それが切れてしまう前に、魔法省を脱出するんじゃよ」
「はい」

次第に、光の強さにダンブルドアの姿が見えなくなっていった。

「ありがとうございました!」
「未来のわしにもよろしく    といっても、覚えていないんじゃったな。Good Luck!」

そうして、光の海の中に投げ込まれた。真っ白の世界。何も見えなかった。身体が何かに抓られているような、歪んでいるような、奇妙な感覚だった。頭がぼんやりしてきて、意識を保ち続ける余裕がなくなりかけた時、すうっと光は消え去った。辺りはもとの薄暗闇だった。

 

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07.11.6
♪『ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 『悲愴』 第2楽章 ベートーヴェン』