、ぼくとけっこんしよう」

 

 

目が覚めたとき感じたのは、身体中が震えるような幸福感だった。しばらく瞬きをして灰色の天井を見ているうちに、その幸福感は去って、代わりに泣きたくなるような絶望感がやってきた。
また、あの夢だ。
何度も何度も繰り返し見る夢。失われてしまった約束。
あの頃に戻れたらいいのに。

カーテンの隙間からうっすら光が射している。辺りに漂う空気は静まりかえっているので、まだ早朝なのだろう。
は布団を頭までかぶり、もう一度寝ようと試みた。あの夢を消すために。けれどもすっかり目が冴えてしまって、ホグワーツの朝が動き出すまで空しさに苛まれた。

 

「おはよう!リリー、

爽やかに手を上げながら、眼鏡をかけた背の高い少年がやってくる。毎度毎度のこととはいえ、は内心で顔をしかめた。彼はいつもリリーを先に呼ぶ。
リリーと呼ばれた隣の少女はしかめっ面を隠さなかった。

「おはよう、ポッター」

何の感情も込めずに返すリリーに怯まず、ジェームズ・ポッターは笑顔を見せた。

「いやだなあ、よそよそしい。君と僕の仲じゃないか。ジェームズって呼んでよ」
「どんな仲なのよ」

リリーはまるで取り合わなかったが、はジェームズの一言一言が胸に突き刺さった。


ホグワーツの上級生になってから、ジェームズは変わった。それまではよくを誘って一緒に遊んでいたのに、男の子の友達とだけつるむようになった。そして、リリーを好きになった。

(私との約束なんて、すっかり忘れちゃったみたい)

当然かもしれない。ジェームズとあの約束を交わしたのは、もう10年近く前のことなのだから。

(あんなの、子供心に大人の真似をしたかっただけなんだよね…)

それでも、の心は幼いころからずっと変わらなかった。変えられなかった。たとえジェームズが自分以外の女の子に心を動かされていても。
   でも。こうやって毎日毎日、ジェームズがリリーへ思いを寄せる姿を見ているのはほんとうに身を切られるような思いだった。

(もうそろそろ、限界かも)

ジェームズへの思いを断ち切るときが違いのかもしれない。軽い足取りで去っていくジェームズの背中を見ながら、は思った。

 

「リリーは、どうしてジェームズと付き合わないの?」

ある夜、談話室で訊いてみた。あんな風にジェームズに好意を表されているのに、リリーは一向に振り向こうとしない。はずっと疑問に思っていたけれど、尋ねることが怖かった。「ジェームズはリリーのことが好き」と自分の声に出したくなかった。でも、ふたりが付き合ってくれた方がいっそ楽になるかもしれない、と思いはじめていた。

「どうして、って」

リリーは手元の本から顔を上げ、形の整った緑色の目をに向けた。

「彼、本気じゃないもの」
「本気だよ…見ていてわかるじゃない」

泣きそうな声を出してしまったに、リリーは大きく息を吐く。

「どうかしらね」

それきりリリーはぷいと身体を背けて、また手元の本に視線を落としてしまった。

 

その日、は図書館でぼんやりと本を読んでいた。けれども内容がちっとも頭に入ってこない。
ジェームズへの想いを吹っ切るべき。でも幼い頃から当たり前のことのように想い続けてきた彼への気持ちを断ち切るのは、簡単なことではなかった。
けれどもこのまま彼を想い続けても何もない。ほんとうに、なにも。

ふと、背後の書棚からひそひそと漏れてくる声に気が付いた。

「うわ、これか……すっごいなあ」
「だろ?」

ジェームズと、彼の友人のシリウス・ブラックの声だった。興奮しているのか、彼らの声が次第に大きくなっていく。

「僕のおじさんが持ってるから、今度の夏休みに見に行こう」
「本当かよ!約束だからな!」
「ああ。もちろん。約束だ」

やくそく。その言葉が、幼いジェームズの声と重なった。

、ぼくとけっこんしよう」
「ほんと?私、ジェームズのおよめさんになれるの?」
「うん!」
「でも……けっこんって、16さいにならないとできないんだよ…」
「それなら、16さいになったらすぐにけっこんしよう」
「ほんとう?やくそくだよ!」
「うん、やくそくだ」

わたし、もう16歳過ぎてるよ、ジェームズ   

「僕が約束を守らなかったことがあるかい?」

現実のジェームズの声にはっと我に返る。その一言で、何かがぷちんと音を立て切れた。気が付いたら立ち上がって、ジェームズとシリウスの前に立っていた。

「うそつき」
「えっ……、どうしたの?」
「約束、守らなかったことあるくせに!!うそつき!!」

涙が溢れ出てきて、止められなかった。さぞ醜い顔をしていることだろう。ジェームズもシリウスも唖然としている。でもどうでもよかった。もう止まらなかった。

「ジェームズなんて、だいっきらい!!」

思い切り言い放って、は駆け出した。静かな図書館に響いたの声に、近くにいた生徒たちはぎょっとしてこちらを見ている。
羞恥心は、なかった。ただただ悲しくて虚しくてやるせなくて、ひたすら駆けた。
涙が止めどなく溢れてくる。ぜんぶ、洗い流してしまえばいい。ジェームズとの約束も。彼への想いも。ぜんぶ。

 



ようやく心が落ち着いてきて、涙が止まり鼻をすすっていたとき、背中に声をかけられた。ホグワーツの庭が見渡せる小さなテラス。手すりに額を押し付けたまま、は振り向かなかった。泣き腫らして酷いことになっているであろう顔を見られたくなかった。



もう一度、優しい声で呼ばれた。遠慮がちな足音が近づいてくる。

   ほっといてよ」
「そうはいかないよ」

ジェームズの声が隣から聞こえた。は顔を伏せたままでいようかと思ったが、顔を隠したままでいるより彼にはっきりと向き合った方がいいと思い直して、頭を上げた。

「僕が嘘つきってどういうこと?」

は目線を上げジェームズを見つめた。予想よりも彼の顔は高い位置にあった。背がだいぶ伸びたんだ   

「もう、いいよ……なんでもないから」
「なんでもなくないよ。約束を守らなかった、ってどういうこと?」
「ほんとに……なんでもないから」
「ねえ、。もしかして昔の約束のこと?」
「まさか   覚えてるの?」

あんなに他愛のない、子供のころの約束のことを?

「覚えてるよ」

ジェームズの言葉に、は嬉しさで再び目頭が熱くなった。覚えていてくれた。いや、でも、それならば、なぜ。リリーの存在を思い出して、は再度どん底の悲しみの淵に落とされた。

は……僕が約束を守らなかったと思ってるの?」
「だって!   ジェームズは……他に好きな子がいるじゃない」
「先に僕を振ったのは君だろ!」

えっ。寝耳に水の話だったので、は思い切り顔をしかめた。

「どういうこと、それ……そんなわけないよ」
「ロバートと君、付き合ってたんだろ?今も付き合ってるのか?」
「ロバートって……?」

ジェームズは傷ついたようにハシバミ色の瞳を揺らした。

「ハッフルパフの男だよ。あいつが言いふらしてたよ。と……キスしたって」
「なにそれ!私、全然知らないよ……話したこともほとんどないのに……あっ」

思い出した。1年か2年か、もう忘れてしまったけれどそれくらい前に、ロバートという男の子に呼び出されたことがあった。そして告白された。顔はハンサムなほう   だったと思う。ナルシストのような態度が鼻についたし、それ以上にジェームズのことが好きだったこともあって、断ったのだった。

「告白はされたけど   私、断ったんだよ」
「まさか……だから、腹いせに嘘を言いふらしたのか?」

ジェームズは唇を噛んだ。

「くそー!僕はあのときに振られたと思ってめちゃくちゃ傷ついたのに。あの約束は、所詮子供の頃のお遊びの約束だったんだ、って……信じてた僕が馬鹿だった、って」

そういえば、ある日ふとジェームズが素っ気なくなったことがあった。よくよく思い返すと、そのロバートから告白をされてしばらく経った頃だと思う。それからジェームズは以前のように気さくには話しかけてくれなくなった。以前は他愛のないことでも笑いあったり、一緒にお昼を食べたり、ホグズミードへ遊びに行ったりしていたのに。
それはてっきりリリーのことを好きになったからだと思っていた。

「私……忘れたことなんて、なかったよ……ジェームズとの約束、忘れたことなんて……一度も」

唇が震えた。ささいなすれ違いで、彼の想いが離れていってしまったなんて。胸が張り裂けそうだった。

「私は   ジェームズのこと……昔からずっと…だいすきだったのに」

言ってしまってから、想いが涙になって溢れてきた。もっと早くに、彼とこうして話をするべきだった。彼の心が離れてしまう前に。涙で視界が歪んで、ジェームズの姿がおぼろげになった。

「ロバートが……噂を流す前に戻れたら……何か変わっていたかなあ…?ジェームズと、話をしていたら…?」

彼がリリーのことを好きになる以前に戻ることができたら。ロバートが嘘の噂を言いふらしていることに気づくことができたら。後悔のかたまりが黒い波のように押し寄せてきて、を絶望的な気持ちに変えた。
ジェームズは、約束を覚えていてくれた。それなのに。
いや、それでも。それでもジェームズは、リリーのことを好きになっていたかもしれない。

「それでもジェームズは……変わらずリリーのことを好きになっていたかなあ……」
、泣かないで」

ジェームズは優しく言った。

「僕の気持ちは、変わらない   変わらず君のことが好きだよ、

夢の続きだ、と思った。たびたび見る夢の続き。ジェームズが「けっこんしよう」と言ってくれた、あの甘い夢の続き。
どうか夢なら、覚めないで。

「実は、少し前にエバンズに告白したんだ」
「えっ」
「で、フラれた。『私のこと本気じゃないでしょ』って。平手打ちされたような気持ちになって   実際されたんだけど   必死に自分の気持ちを誤魔化そうとしていることに気付いた。エバンズのことは好きだ。けど、どうしても君のことが忘れられなくて……心に引っかかっていて……もう一度君と話をしようと思っていたところだった」

頬に熱いものが流れてきて、ああ、私、また泣いてる、と頭の隅で思った。でも心はすっと離れていて、上から自分を見下ろしているような感じ。とにかく今の状況に実感が持てなかった。

「シリウスたちと遊んでいても物足りないときがあるんだ。いつも僕の隣にいて、めいっぱいの笑顔を浮かべてくれる女の子がいなくて…。本当は、君が他の男と話をしているのを見ると気分が悪くなった。でも君はロバートと付き合っていると考えると、どうしようもなく哀しくなって……エバンズを好きになりかけていた」

ジェームズは苦笑して続けた。

「でもエバンズには見破られていたね。僕は臆病で、他の男から君をかっさらうくらいのことをすれば良かったのに。傷つくのが怖くて、逃げた。結果的に君を傷つけてしまった」

は首を振った。それしかできなかった。

「こんな僕でも、いいかな?」

もちろん、と声を発したつもりが詰まってしまって言葉が出なかった。涙が、今度は嬉しさの涙が溢れてきて止まらなかった。は何度も頷いた。
ジェームズがを抱き寄せる。ぎゅっと、力を込めて。懐かしいジェームズのにおい。子供のころから変わらない、お日さまのにおい。思い切り吸い込むと、とても落ち着いた。身体の中にすとんと馴染む心地がする。ようやく涙が止まって、今の幸せをじっくり噛み締めることができた。
遠い日の約束から時が流れて、2人の道は別々になってしまった。もう二度と交わることはないと思っていた。けれどもまたこうして、2人で歩いてゆくことができる。同じ道を、2人で。

「大好きだよ、

ジェームズの声が頭から降ってくる。私も、とようやく言葉を発することができた。

「私も大好きだよ」

顔を上げると、ジェームズは笑顔を浮かべていた。も笑う。

「ずっと一緒にいよう。もう君を泣かせない。今度は本当に、約束するよ」

ジェームズはの顔を引き寄せ、頬にそっとキスを落とした。涙の痕に。

 

fin.
たまにはジェームズと結ばれるのもいいかな…と。
(15.4.11)