言葉にできない想いは、せめて白と黒の調べにのせて。
届いて欲しいなんて思わない。
ただ、この演奏が、あなたの耳に届けば、それでいい。

 

お客さんのなかに赤いジャケットと帽子のふたりを見つけると心が躍った。いつもよりも引き締まる思いで、いつもよりも丁寧に、鍵盤に指を滑らせる。背筋が緊張した。
そういうとき、マスターからは「今日の演奏は冴えてるな。あいつがいるからか?」なんて冷やかされる。
マスターは私の演奏を365日聴いているから、細やかな違いにすぐ気づくらしい。

でも今日は、違った。バーのなかにいつものふたりを見つけても、晴れやかな気持ちにならない。音にもいまひとつ乗れなかった。視界がワントーン、暗い。
だって、見てしまったんだもの。日中、彼が金髪の美人と腕を組んで歩いているところを。

 

ルパンと次元は、うちのバーの顔馴染みだった。マスターともともと知り合いだったらしい。そこでピアニスト兼ウエイトレスとして働いていた私も、彼らと少し親しくなった。
ふたりの正体は、知っている。泥棒とガンマン。でもふたりとも犯罪者のような雰囲気はまるでなく、むしろ『職業』としてそれらを楽しんでもいるようで。そんな彼らに、恐怖心はまるで湧いてこなかった。むしろふたりと話をしていると楽しかった。

演奏を終えて、今日はふたりに話しかけるのは止そうと、店の奥に行こうとしたところだった。

ちゃーん、こっちで飲もうぜ」

赤いジャケット   ルパンが声をかけてくる。私がピアノの演奏を終えると、ルパンたちと一緒にお酒を飲むことはひとつのパターンになっていた。私はどうしようか迷ったけれど、好奇心が勝った。あの美女のことを聞き出せるかもしれない。

「『Blue In Green』か   いいねえ」

私が席に着くなり、ルパンは言う。私は驚いた。

「よく知ってるね、ルパン」
「俺様博識でねー」

得意気に笑うルパン。これは自惚れではなくって本当だった。ルパンは、私が弾く曲の名前を大抵知っている。ここで弾くのはジャズ主にジャズが多いのだけど、今回も『Blue In Green』、ビル・エヴァンスが弾いたその曲を、難なく言い当てた。ルパンは色んなことを知っているんだなあというのは、ルパンとの会話で感じていたけれど、音楽にまで通じているとは驚きだった。

私はマスターにスコッチウィスキーのハーフロックを頼んだ。次元とルパンはバーボンを飲んでいる。こうして店番をさぼってお客さんと話すことを、マスターは了解してくれていた。

3人で、グラスを合わせる。カランという乾いた音が、周りの雑踏にかき消されずに響き渡る。私はウィスキーをぐいっと喉に押し込んだ。次元の様子がいつもと違うような気がしてならなかった。あの美人と何かあったのだろうか。喧嘩をしたとか……?そんな妄想を膨らませてしまう。

ルパンは話がうまい。いつも笑わせてくれる。3人で主に話をするのはルパンだった。けれども適当に次元に話を振ったり、私にも投げかけたりしてくれる。次元とルパンがああでもないこうでもないと言いあうのは、微笑ましかったりもする。
この日も色々と話をした後、ルパンはおもむろに立ち上がった。

「じゃ、俺はこの辺で。この後デートなもんでね」
「ええっ、もう?」

私が声を上げると、ルパンはにやりと笑った。

「なんだあ、そんなに俺と一緒にいたいのか?それとも焼きもち?」
「ちがう」

いつもならもうちょっと長居をしていくのになあ。もう行っちゃうのか。そう思っただけ。でも出て行くのはルパンだけらしい。ルパンのグラスは空。次元のグラスにはまだバーボンが残っていた。
   たぶんルパンは私の気持ちに気づいてる。私に気を遣ってくれた、ような気がする。本当にデートなのかどうかは分からないけれど。
ルパンが立ち去った後、残された次元と私はぽつりぽつりと会話をはじめた。ふたりきりで話す機会はそう多くない。次元は口数が多い方ではないから、あまり会話に花が咲くというほどではないけれど、つまらない様子ではなさそうだった。退屈はしていない   と思う。思いたい。
でもこの日はちょっと上の空、のような気がした。

あの女の人、だれ?

何度もその言葉が喉から出かかる。でも訊けない。だって私は次元の何者でもないもの。ただの行きつけのバーのピアニストだもの。きっとこの先も、進展がない。私の想いは日常のなかに紛れて、消えてゆく。
でも。なんだか悔しくて、歯がゆくて、もやもやしてきて、お酒をたくさん飲んだ。次元は「おいそんなに飲んで大丈夫か」と言ったけれど、聞かずに飲んだ。気がついたら、意識をなくしていた。

 


「次元、悪いがをこいつのアパートまで送っていってくれるか?」

ぼんやりと目が覚めたとき、マスターの声が聞こえた。

「俺が?冗談だろ」

次元の声。私は机の上に突っ伏しながら、その会話を聞いていた。

「そう言うなって。ウチの大事なピアニストなんだ」
「あんたが送ってきゃいいだろ」
「俺は片付けがあるんだよ」

次元は答えない。マスターが続けた。

「先月、お前らがここでドンパチやっただろ?あの後しばらく営業できなかったんだ。その間のツケを払ってくれてもいいんだぞ」
「あれは俺じゃない、ルパンのせいだ。それに詫び賃は払ったろうに」
「あれは物損に対する詫びだろ?精神的損傷に対する詫び賃はもらってない」
「なんが精神的損傷だ」

次元は吐き捨てる。でも笑いも含まれているように聞こえた。
やがて、足音が近づいてくる。

「おい、起きろ」

次元の声が降ってきた。ここで寝たふりでもしていたら、どうなるだろう。お姫様抱っこでもして連れて行ってくれるかなあ。なんてぼんやりと想像している間に、もう一度ふと意識が途切れた。














「次元、送り狼になるなよ」
「なるかよ」













気がつくと、身体が揺れていた。心地のいいリズムで。
あったかい。ずっとこのままでいたい。

   煙草のにおい。

私は、瞬時に覚醒した。状況を悟って、はっと息を呑む。あやうく大声を出しそうになって、すぐそばに耳があることに気がついて、すんでのところで踏みとどまった。
わずかな街灯と煌々とした月明かりが、私を   私たちを背後から照らす。影が、ひとつになっていた。

   次元」

私はそっと呼びかける。前方に回していた腕に緊張が走る。
次元の髪に、肩に、私の顎が触れる。

「やっっと起きたか。歩け、重い」

しまった。しばらく寝たふりをしておくんだった。私は心の底から後悔して、渋々次元の背中から降りた。

「………ごめん」

どんな経緯でこういうことになったのか、全然覚えていない。ただたくさんお酒を飲んで、睡魔に襲われて、意識を失くして。気がついたら、次元の背中にいた。
次元は不機嫌そうに答える。

「なんだってあんなに飲んだんだよ」
「………べつに」

次元と私は並んで歩く。影がふたつになる。
次元の宿が私のアパートの近くで、『仕方なく』送ってくれたらしい。
私は思いがけない接近にどきまぎして、酔いもすっかり醒めたというのに、次元はなんてことない顔をしている。悔しいなあ。心臓が割れそうなくらい大きな音を立てているのは、私だけなのだろうか。
無言で歩いていると、次元はそっと口を開いた。

   何かあったのか?」

次元は煙草に火をつけながら訊いた。私は横を歩く次元を見上げる。

「何か?」
「ルパンのやつが言ってたんだよ。今日のお前のピアノが冴えない、ってな」

いつの間にそんなやり取りをしていたんだろう。それにしても、ルパンってばすごいな。耳がいいのか勘がいいのか。

「べつに」
「男にでも振られたか」

かちん。こういう勘は次元も鋭いのか、私のことなんてどうでもいいのか、なんなのよ。

「そうね、そんな感じ」

額が熱い。頬が火照る。酔いのせいか、自棄なのか、たぶん両方なんだろうけれど、私は勇み足になっていた。

「次元は、恋人がいたんだね」
「……なんのことだ?」
「昼間。金髪美人と歩いてるところ見ちゃった」

次元は煙草を吹かしながら、あぁと低く唸った。何か言いかけたようだったけれど、口を閉ざす。私は絶望の淵に叩き落とされたような気分になった。ああもう否定してよ…。
沈黙が流れる。どこか遠いところで、猫が喧嘩をしているような鳴き声が聞こえた。
踏み出した足は、止まらなかった。私は口を開く。

「もし   次元のことを好きな女性がいるのだとしたら   次元のことは、諦めたほうがいい?」

私は前を向いたまま訊ねた。澄んだ夜の空気から、次元が一瞬息を呑んだような気配が伝わってきた。
次元はしばらく黙って、やがて口を開く。

「そうだな」

ああ、そうなんだ。あの人はやっぱり特別な人なんだ。

「素敵だもんね、あの人」

心の中と180度違うことを口にする。私が口にした嘘の中で、一番後味の悪い嘘だと思う。喉のあたりが苦しい。胃の辺りがむかむかする。飲みすぎたかな、……。
でも私なんかじゃ、あの人に逆立ちしたって到底叶いっこない。スタイルがびっくりするくらい良くて、どこか妖麗な雰囲気があって、モデルのような人。嫌だなあ。男の人ってやっぱりああいう女の人が好きなんだ。
けれども、次元は言った。

「違うな」

次元は長く息を吐く。白い煙草の煙が夜空に昇っていく。

「俺は、裏の世界の人間だからだ」

俺には近づくな。そう暗に言われているのだと分かった。次元は殺し屋だったこともあると、以前ルパンが言っていたのを思い出す。いまの次元からは想像できなかったから、考えないようにしていたけれど。あのとき、ルパンがそれを私に教えたのは、忠告のつもりだったんだろうか。“次元には惚れるな”、と。

「じゃあ   あの女の人も、次元と同じ世界の人なのね」
「そうだ」

そう。そうですか。私には立ち入る余地がない、っていうことね、……。
私は歩みを止める。次元も数歩遅れて立ち止まった。

「……もうここで、大丈夫。アパートはすぐそこだから」

私は次元の顔を見ずに言った。

「送ってくれてありがとう」

かろうじてそれだけ言って、次元の返答を待たずに彼に背中を向けた。駆け出すのと、涙が溢れてきたのは、ほぼ同時だった。

 


次の日。お店に、ルパンがやって来た。今日はひとりだった。

「珍しいね、ルパンひとりだなんて」

今日は私はピアノを弾く気にはなれず、ルパンから注文を訊くために彼の座るテーブルを訪れた。

「昨日、次元と何かあったのか?」
「えっ?」

ルパンは不敵な笑みを浮かべている。

   どうしてそんなことを訊くの?」
「いやさー、あいつなんかしょげてる風だったから」
「それ、私のせいじゃないよ」

むしろしょげたいのは私だもの。

「たぶん金髪美人の彼女にでも何か言われたんじゃない?」

言いながら、胸のなかを黒々しいものが圧迫していくのを感じた。一方のルパンはきょとんとしている。

「金髪美人の彼女?」
「次元の恋人でしょ?」
「恋人?冗談だろ?んな美女が次元の傍にいるなら、俺は気づくはずだ」
「でも昨日、腕組んで歩いてたもの」
「昨日?   ああ、不二子だな」
「不二子?」
「不二子は次元の女じゃねえよ」

ルパンはにやりと笑う。

「あいつ、不二子のこと嫌ってるし」
「え、でも……昨日、恋人なんでしょって訊いたら否定しなかったよ……」

訳が分からなくなって、私は呆然と呟いた。恋人じゃないなら否定してくれれば良かったのに。
ルパンは一瞬思考を巡らせるように眉根を寄せたけれど、何かを悟ったように口端を上げて笑った。

「ははあ。ちゃんが昨日元気なかったのは、それか。次元と不二子がくっ付いて歩いてたんで、不二子が次元の女と勘違いしたわけだ」
「べつにそんな、」
「否定しても無駄無駄。俺様の目にはみーんな筒抜けよ」

にひひとルパンは笑う。

「で、今日落ち込んでるのはどういうわけなんだ?」

ルパンの目は誤魔化せない。私は正直に、言った。誰かに聞いてほしかったというのもある。

   ふられちゃった。俺は裏の世界の人間だから、ってバッサリ」
「そう言ったのか?あいつが?」
「まあ……だいたいそんなところ……」

べつに私はストレートに好きですって伝えたわけじゃないけれど。私の気持ちには気づいた、と思う   たぶん。

「あいつも素直じゃねえなあ。ちゃんのこと気になってるくせに」
「え?」
「次元は女嫌いだから、女の子とサシで飲むなんてありえないことなんだよ。ましてや家まで送って行ってやるだなんて」

   うそ。

「で、でも……私のこと拒絶してる風なこと言ってたのに……?」
「そりゃああいつも戸惑ってんだろうよ」
「戸惑うって何を、」

言いかけた私の前で、ルパンは人差し指をピッと立てる。

「俺の口からはここまでだ。あいつは手強いだろうけどな、まあ引き続き頑張れって   あ、バーボン、ストレートでよろしく」

ぼんやりとした頭で、ルパンの言葉を反芻させる。まあ頑張れって。バーボンのストレート。

「あ、あと」

テーブルを去ろうとしたとき、背中からルパンが言った。

「リクエストよろしく   『Over the rainbow』」

バーボンのストレートに『Over the rainbow』、……。

 

ミュージカルで有名になったその曲を、軽快なジャズにアレンジして弾く。指は勝手に動いている。でも頭は別のことを考えていた。
薄々かなわない恋なのだと解かっていた。なのに昨日望みがなくなって、涙が止まらなかった。
何度か会ううちに、次元に惹かれていた。どうしようもなく、強く。

その恋ともさよならと思っていたけれど。
私は次元を想って、ここで弾きつづけてもいいのだろうか。





「今日の演奏は良かったよ」

マスターが言った。

「昨日はジャズ弾いてるのにベートーヴェンみたいだったもんなあ」
ちゃんが恋してるほうが、店は儲かるかもな」

笑うルパン。

「たしかに」

マスターも、笑った。

 

白と黒あつめて

 

fin.

(15.10.16)