◇ 1 ◇
おびただしい数の巨人を前に、の神経はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。
ぜったいに、守る。もう大切な人を失うのはいやだ。
その決意に反して、の背後でうずくまる人物は苦しげに呼びかける。
「早くエレンを連れて離脱しろ……」
「いやです」
は前を向いたまま答える。
「私の代わりはいくらでも、いる……だがエレンは……」
「エルヴィン団長の代わりなんているわけないじゃないですか!」
半ば泣き叫ぶように言って、は巨人に斬りかかった。
◆ 2 ◆
「よぉ、調子はどうだ?」
病室で目覚めてぼんやりしていると、仲間の一人
リヴァイがやって来る。
「死に損なったな、エルヴィン」
言葉の内容とは裏腹に、リヴァイは気遣うような視線を投げてくる。その瞳の奥には悔しさが滲んでいるように見えた。
エルヴィンは苦笑して、「ああ、ご覧のとおりだ」と答える。リヴァイはベッド横にある椅子に腰掛け、足を組んだ。そうして厚い紙の束をぱらぱらと広げて見せる。
「病み上がりで悪ぃが、状況報告だ」
「ああ、頼む」
今回のエレン奪還のために、何人の兵士が死んだか。リヴァイは淡々と報告書を読み上げていった。そこに感情を載せてしまうと平常心ではいられないほどの数。
「ずいぶん、失ってしまったな」
エルヴィンは小さく呟く。しかしすぐに強い瞳でリヴァイを見つめた。
「だが、エレンは奪還できた。他にも収穫があったようだな」
「ああ」
リヴァイはどこか口にするのをためらうかのように視線を泳がせた後、ゆっくりと口を開いた。
「じつはな、もう一人、いる。死んだやつが」
「そうか……」
「
だ」
エルヴィンはわずかに眉を寄せた後、「そうか」とだけ答えた。
◆ 3 ◆
失った右腕の代償は大きく、日常生活にはかなりの不便が伴った。とっさに右手で扉を開けようとして、そこに何もないことに気がつく。はじめはその繰り返しだった。
書類の処理にも、食事にも、仕事にも私生活にもこれまでの倍以上の時間がかかってしまう。エルヴィンは唇を噛みつつも、必死にこの状況に慣れようとした。ないものはないのだから、仕方がない。あるものでカバーすればいい。
ただ、優秀な部下の不在を補うことはできなかった。
今回のエレン奪還戦で、調査団は熟練の兵士の多くを失った。壁外で、部下を、同志を、仲間を失う。その重さを背負ってもエルヴィンは前を向いて進んできた。おのれの信念をもって。
しかし、今回は右腕を失ったせいか、彼女の不在を意識してしまうことが何度あった。療養中に溜まった書類の山を一向に処理しきれない。彼女がいればこんなものはすぐに終わらせてくれるのに、と無意味な空想をして、エルヴィンは内心で自嘲的に笑った。
彼女は
は、有能な補佐のような存在だった。思えば彼女とはリヴァイよりも付き合いが長い。
とは、彼女の育ての親が調査兵団の兵長だったことがきっかけで知り合った。彼女も調査兵団に入り、エルヴィンが人の上に立つにつれ増えてきた事務的な作業を、気がつくと彼女に頼んでいた。たしか、彼女の実家が商いを営んでいて、勘定事は得意だと言っていたので任せたのだったと思う。
実際に、彼女はよく働いた。エルヴィンの仕事の先を読んで作業をし、迅速かつ的確に事務をこなしてくれた。気遣いもあった。
「エルヴィン団長!また紅茶が残ってますよ!」
仕事に集中しすぎるあまり、が淹れてくれた紅茶がそのままになって残っていると、彼女は目を吊り上げた。いま思えば、彼女が執務室に入ってくると空気が和らいでいた気がする。
「いくらお忙しいとはいえ、水分は大切なんです。人間の六割は水分でできているんですよ。だから、」
「ああ、わかっているよ」
エルヴィンは苦笑しながら冷めた紅茶を啜る。彼女の淹れたそれは、いつも美味しかった。
部下としても、話し相手としても、貴重な人材だった
。
なぜ、いまそんなことを思い出してしまったのか。
は、もういない。
紅茶が出てくることも、ない。
しかし、エルヴィンは彼女が死ぬ場面を記憶していなかった。エレンを奪還し、鎧の巨人に阻まれるも不思議な現象で切り抜け、朦朧とした意識で壁まで戻った。そのときのはっきりした記憶が、ない。
ただ、彼女がエルヴィンの前に立ち必死で巨人と戦う背中は、ぼんやりと覚えている。
は自分を守るために死んだのか。構うなと言ったはずなのに。
エルヴィンはそこまで考えて、小さく息を吐いた。
感傷に浸る余裕など自分にはない。明日から違う部下に手助けしてもらうことにしよう。彼女同様、有能な人間に。そうすれば、彼女の不在は響かない
。
コンコン、というノックの音に、エルヴィンは顔を上げた。また書類の催促だろうか。
「エルヴィン団長……あの……夜分に失礼します。、です」
何の冗談かと思った。質の悪い戯言だ、とも。しかし、この声には聞き覚えがある。
エルヴィンがしばらく返事をしないでいると、ゆっくりと執務室の扉が開かれた。
「
少し、お話をいいですか?」
そう言葉を発する女性の姿は、紛れもなく死んだはずのだった。
◇ 2.5 ◇
エレン奪還戦から帰還した後、エルヴィンの無事を確認すると、は倒れるように寝込んでしまった。一週間高熱が続き、身体中が悲鳴を上げて動かすことができなかった。
そのおぼろげな意識の中で、リヴァイがやって来たのは覚えている。
「おい、生きてるか」
「あ……リヴァイ兵長……エルヴィン団長は?」
「死にそうなやつが言う台詞か、それが」
リヴァイは布団から起き出そうとするを手で制して、立ったままを見下ろした。
「エルヴィンはもう大丈夫だ。少なくとも今のおまえよりは元気だろうよ」
「そうですか……よかった」
「いいか、おまえは回復するまで一歩も部屋から出るな。動けるようになっても俺の許可なく出歩くな」
「え……?許可って、リヴァイ兵長の、ですか?」
「そうだ」
「いや、でも」
「おまえは俺付きの部下になった。つまり、エルヴィンの補佐は首ってわけだ」
「え!?」
声を荒げて喉が張りつき、咳き込んでしまう。それが落ち着く前に、「どうしてですか」と絞り出した。
「理由は知らん」
「私が……団長の命令を守らなかったから……?」
もう一度「知らん」と言い捨てて、リヴァイは部屋を去って行った。
エルヴィンの補佐を、外された。熱でうなされながら、何度もその言葉が頭の中でぐるぐると回る。
あのとき、エルヴィンは自分を捨て置きエレンを連れ帰れ、と言った。その命令を違え、エルヴィンを守ろうとしたから、だろうか。
胸が痛い。頭が熱い。くらくらする。
エルヴィンの役に立てることが、どれだけうれしかったか。実の家族も育ての親も皆巨人によって殺された自分にとっては、彼の存在がどれほど大きかったか。エルヴィンの強さも、優しさも、冷酷さでさえも、好ましいと思っていた。このひとについてゆきたいと思っていた。
でも、彼に遠ざけられてしまった。目の前が暗くなってゆく。
けれど、それでも。エルヴィンが生きていてくれるのであれば、それでいい。違うかたちで補佐できるかもしれない。
そう無理やり言いくるめて、は泥のような眠りに沈んでいった。
身体が動くようになってもずっと部屋にいることは苦痛だった。それに、やはりエルヴィンの口から理由が聞きたかった。
命令違反でエルヴィンを失望させてしまったのなら、仕方がない。他に何か至らない点があるのだとしたら、教えてほしい。
リヴァイはあのように言ったが、はやはりエルヴィンに事情を聞こう、と思い立つ。そうでなければ前に進めそうにない。
夜、人気がなくなったのを見計らって部屋を忍び出た。
◇ 4 ◇
エルヴィンの執務室に入ると、エルヴィンは何も言わずにじっとを見つめていた。その表情には怒りは感じられないのでひとまずほっとした。ただ、とても驚いているように見えた。
二度も上司の命令に反したから、呆れているのだろうか。
それでも。生きている彼を見ることができて、本当に良かったと思う。エルヴィンの右腕が巨人に喰いちぎられたときは、自分の心臓が抉られたような痛みと驚きがあった。この世の終わりかとさえ思った。でも、彼の右腕は失われてしまったけれども、彼の命はたしかにそこにある。
涙腺が緩んでしまいそうになって、は自分を諌めた。
「エルヴィン団長、少しお時間をいいですか?」
「
どうして」
エルヴィンは瞬きもすることなく、をじっと見つめている。どうにも様子がおかしい。
あまり具合がよくないのだろうか。彼の机には山のように積まれた書類。片腕が不自由で、さぞ処理に苦労しているのだろうなと思った。手伝いますか、といつものように声をかけようとして、止まる。
もう新しい補佐が入ったのかもしれない。私が出しゃばらないほうがいいのかもしれない、……。
でも。どうしても、自分を外した理由だけは聞いておきたかった。
「エルヴィン団長、単刀直入にうかがいます。なぜ私を補佐から外されたんでしょうか?」
「は?」
「え?」
予想をしなかったエルヴィンの反応に、も声を上げる。しばらくふたりで見つめあってしまった。
沈黙を破ったのは、エルヴィンだった。
「俺が、いつ、それを言った?」
「え?だって、リヴァイ兵長が」
「リヴァイか……」
エルヴィンはすべてを理解した、というようにため息をつく。深く、深く。
「俺は、が死んだと、リヴァイから聞いた」
「ええっ?それじゃあ……私がエルヴィン団長の補佐を首になったっていうのは、兵長の嘘ですか?」
「そうだろう。俺はそんなことはひと言も言っていない」
熱にうなされていたせいで、あのときのリヴァイのようすを思い浮かべようとしてもうまくいかない。
「でも、どうしてそんな嘘を」
「さあ……。ただ、以前リヴァイに言われたことはある。おまえはの補佐に頼りすぎだと。がいなくなったらどうするつもりだと言われたな」
リヴァイがそんなことをエルヴィンに話していたとは、意外だった。リヴァイはのことをあまり好いていないのだと思っていた。それに、リヴァイだって、時折面倒な雑務をも押しつけてくるのに。
はいまひとつリヴァイの思惑が読めなかったが、いずれにしても補佐を首になった、という事実は消えたようなので心底ほっとした。
「私、エルヴィン団長の補佐のままでいいんですよね……?」
念のためおそるおそる訊ねると、エルヴィンは静かに微笑んだ。
「ああ、頼む。ご覧のとおり、手に負えない書類ばかりだ」
良かった。本当に、良かった。またこの人の隣で仕事ができる。
「それじゃあ、まずは紅茶を淹れますね」
そう言って、エルヴィンに背を向けようとしたときだった。「」と手首を掴まれる。驚いて振り返ると、エルヴィンの碧い目がを捉えていた。
「
無事で、良かった」
まっすぐに言われて、涙が出てしまいそうになる。
ああ、やはり、この人は特別だ。そういえば、以前リヴァイにエルヴィンをどう思っているか訊ねられたとき、「いま生きている人の中で一番大切な人です」と言ったような気がする。その言葉は真実であり、いま訂正をするなら単に「いちばん大切な人です」だろうな。
エルヴィンの碧い瞳に溺れそうになりながら、そうぼんやりと思った。
「エルヴィン団長こそ、よくご無事で」
これからは彼の失った右腕になりたい。
そう思いを込めて、両手でエルヴィンの左手を包むように握る。大きな手。目を閉じると、たしかな熱があった。
◇ 5 おまけ ◇
「リヴァイ兵長!どうしてエルヴィン団長と私にあんな嘘をついたんですか?」
「おまえ、俺の命令を破って外に出たな」
「嘘の命令なんて無効です」
「嘘も方便、っていう言葉を知ってるか?」
「嘘を正当化するような使い方は間違ってるんですよ」
「知ってる。俺はちゃんと正しい使い方をしてる。俺はおまえのために嘘をついてやったんだ」
「え?私のため……?」
「話はそれだけか?」
「あ、兵長、待ってください!それっぽいことを言って、本当は単なる悪戯じゃないんですか」
「ふん。俺の優しさがそのうちわかるといいがな」
fin.
アニメと心中したいので原作は未読です。本当はこのヒロインで長編も書きたく、いろいろ考えていたのですが、先行きがわからず不安なので短編として書きました。エルヴィンが好きです。
(17.7.7)
title from:
約30の嘘