見慣れた社用車の中、さらに護ってくれるひとがいるということで、私には彼らに説明ができる程度の冷静さは戻ってきた。まだ胸がざわざわするけれど、頭は動くようになった。
「女子トイレに入ったとき……誰かが私の後ろに立って、言ったの。約束の時間が過ぎている、回答がほしい、って」
先ほどのシーンを再生させようとすると、恐怖で身がすくみそうになる。なるべく客観的に、分析をするような姿勢で振り返ることにした。
私の身に起こったことではない、彼らはレベッカを狙ったのだ、と。
「脅しじゃないことを示したい、って言ってた……五日だけ待つ、って」
そう言ってから、レベッカになりきらなくてはいけないことを思い出す。トイレから出て以来、私は“レベッカ・ハナサキ”であることをすっかり忘れていた。
けれども、ルーピンも次元も不審に思ったようすはなく、何かをじっと考えているように押し黙っていた。
少し時間を空けてから、ルーピンが口を開く。
「レベッカ社長、今回の件心当たりは?」
彼は探るように私を見てくるけれど、もちろん“私”には思い当たるところは何もない。
私が首を横に振ると、ルーピンは「そうか」とだけ言った。
でも。
でも、だ。
ホンモノのレベッカとロブさんなら、心当たりがあるのかもしれない。
あの人物ははっきりと「レベッカ・ハナサキを狙った」と言っていた。
わざわざナイフを取り出して虚言など言うだろうか。
そう思い当たったとき、何かがきれいに結びついていくような気がした。
もしかすると。
そもそも、今回私にレベッカの代役が必要だった理由は。
影武者。
身代わり。
そんな単語が頭を埋め尽くす。
そう考えれば、この報酬が膨大であることに納得がいく。
レベッカが何かの理由で何者かに命を狙われていて、影武者が必要だった
わからない。
恐怖か、怒りか、後悔か、疑問か、疑念か、
思考も感情もぐちゃぐちゃで、また身体が震え出しそうだった。
「あの執事は知ってたんじゃないのか」
顔を上げると、次元がバックミラー越しにこちらを
「そうじゃなきゃ護衛なんか雇うわけがねえ」
「だなぁ。なーんかあっかと踏んでたけども、……」
ルーピンは腕を組んで唸っていたが、やがてそれを解いて私に向き直った。
「レベッカ社長。単刀直入に聞きたい。『アインシュタインの書』について、だ」
低いトーンで言うルーピン。
唐突な彼の言葉を、私は口の中で繰り返した。
「アインシュタイン……?」
「そ」
なぜこの流れで急に、物理学者の名前が出てくるのだろう。
これまでレベッカになりきっていて、アインシュタインに結びつくものがあっただろうか。
思考を巡らせるが、何も出てこない。
怪訝そうな私の表情を見てだろう、ルーピンが「知らないのか?」と訊ねた。私は首を縦に振る。
「あっれぇ、おっかしいな。俺の調べだと、きみが持ってるはずなんだけど」
「てめぇルパン。まさか無駄足踏んだんじゃねえだろうな」
「いやいやちょっと待てよ次元。そう結論づけるには早計だって。もしかすっとあの執事が黒幕、か……?」
ひそひそ話しているつもりなのだろうが、静かな車内において、ふたりの会話は私の耳にもはっきりと聞こえてきた。
もう、何がなんだかわからない。
レベッカやロブさんたちも、次元やルーピンたちも、何かを思惑して隠している、のだろうか。
私はどうしたらいいんだろう、……。
まずやるべきは、ロブさんのところに行って契約を破棄してもらうことだ。命を狙われることになるなんて、レベッカの身代わりになるだなんて、聞いていない。
「なあレベッカ。ちょいと話を整理しないか」
ルーピンは脚を組み直して、私に言う。
「今日きみが襲われたのは、もしかすると『アインシュタインの書』を狙った連中の仕業かもしれない」
『アインシュタインの書』なんて、聞き覚えがない。けれども彼の言葉に、何か引っかかるものがあった。
「あ、……あの人、“書物を渡せ”って言ってた」
「お、ビンゴ!」
ルーピンはパチンと指を鳴らす。
「でも、それがアインシュタイン……の書、のことだとは限らないんじゃない?」
「まあ百パーセントの確証はないけどな、いったんアインシュタインと考えて仮定してみようぜ。連中が狙ってるのが『アインシュタインの書』だとして、きみはそれのことを何も知らない、と」
私は返答に迷った。
“私”が知らないだけで、レベッカは知っていることかもしれない。
いっそ彼らに本当のことを話すか。
契約違反になるけれど、そもそもロブさんたちが重大なことを隠していることだって、もっと大きな違反だ。
「“私”……は、知らない」
とりあえずもう少し、話の流れを様子見することにした。
「となると、きみの執事はどうだ?『アインシュタインの書』の存在を知っていて、きみ宛に脅迫状が来ていた。にもかかわらず、執事はきみに隠し事をしていた、と」
「そう……かもしれない」
ロブさん、そしてレベッカなら、実状を知っている可能性が高い。
私がゆっくりと答えると、ルーピンはじっと私の目を覗き込んでいた。
「ずいぶんとあっさり肯定するんだな。付き合いは長いんだろ?」
ルーピンの指摘にどきりとしてしまう。
この人のまっすぐな目、何もかも見透かされていそうな気分になる。
つい視線を伏せて、「ああ、うん」だとか曖昧な返答をしていると、ルーピンが続けた。
「ま、いまきみを詮索するのはおいておいて……となると、やっぱりあの執事にカマをかける必要がありそうだな。それでいいか?」
ということは、ロブさんたちを裏切って彼らにつく、ということになりかねない。
それでいいのか迷うところはあるけれど、私はいまどうしてこんな状況に陥ってしまったのか、知りたかった。
けれど、その前に、腑に落ちないことがある。
「……あなた、何者なの?アインシュタインの書がどうとか、単なる護衛のエージェントが知っている情報とは思えないんだけど」
「あら、やっぱりそこ気づいちゃう?」
ルーピンは苦笑する。
「んー、レベッカ社長はシロってことだから、話してもいいか。協力してもらうことになるかもしんないし」
ルーピンが次元を見ると、彼は「好きにしろ」と煙草に火をつけた。
「んじゃ、あらためて自己紹介」
にこりと笑って、彼は世間話をするような軽い調子で、続けた。
「俺の本当の名はルパン三世。世界一の泥棒さ」
ルパン三世。
泥棒。
落ち着きはじめていた思考が、またぐるぐるとかき乱される。
「ルパン、三世……?」
「そ。レベッカ社長も聞いたことくらいあるでしょ?」
そういえば、雑誌で見たことがある、気がする。
今どき怪盗だなんて、とんでもないことをする人がいたものだな、と驚きながらも、実在する人物だとは思えなかった。
数々のものを盗んで捕まったことがないという、怪盗ルパン三世。
都市伝説か、マスコミが作り上げた偽りの話かとさえ思っていた。
もっとも、海外では彼の認知度は高いのだろうか。日本では何度か話題に上った程度だった気がするけれど。
迂闊なことは言えないと思って、「まあ」と曖昧な返事をすると、ルーピン
「あらら……意外とうすーいリアクションどうも」
「だって、なんだか実感のないことばかりで……」
「ま、その気持ちはわからんでもないさ。とにかく話を続けると、俺サマと相棒の次元は『アインシュタインの書』を手に入れたかったわけ。で、レベッカ社長、きみが持ってるって調べがついたと思ってたんだけど」
相棒の次元、ということは、彼も泥棒なの?
腕のいい護衛だと思っていたのに。
何かといろいろな人に裏切られたような気分になる。
「それで、護衛のふりをして私たちに近づいた、っていうこと?」
「そうそう、そのとおり。でもここ二週間、なぁんにも出なかったからなぁ。次元がうまく探ってくれてると思ってたのに」
ルパンがちらりと運転席に視線を投げると、次元は煙草を口から外して言った。
「こういうのは俺の仕事じゃねえだろ。だいたいおまえが言い出したくせに、不二子の用があるとか言って途中で抜けやがって」
「まあまあ。護衛の仕事はうまくやってたみたいじゃないの」
「何が護衛、だ……」
ぶつぶつと苦言を言う次元には応えずに、ルパンは私に向き直る。
「まあとにかく。俺たちは『アインシュタインの書』のありかを探し出したい。だからきみの執事に話を持ちかけるために、きみの協力が必要になるわけだ。まさか社長サマが襲われたとあっちゃあ、執事も黙ってないだろうさ」
話が困った方向に向きはじめた。
私がレベッカではないと、隠し通せるだろうか。
返答しない私に、ルパンはさらに続けた。
「きみが協力してくれるんなら、『アインシュタイン』を狙う連中のこともなんとかしてやってもいいんだけどな。どっちみち対峙は避けられそうにないし。どうだ、悪くない話だろ?」
仮にルパンたちの提案に乗ったとして。
ロブさんにその『アインシュタインの書』がどこにあるか訊いたところで、教えてくれるだろうか。
私はホンモノじゃない。
私が襲われたところで、ロブさんにデメリットはないはずだ。
どうしたらいいだろう。
そのとき、静まり返った車内にブーという携帯電話の振動音が響き渡る。
私の鞄から、だった。
待受画面を確認すると、「ロブ」と表示されている。
ルパンは、「出たら良い」、と頷いた。
頭が回らない私は、半ば反射的に受話ボタンを押ていたた。
「ああ社長、申し訳ございません。道が混み合っておりまして。今着きましたが、社長はどちらに?」
スピーカーから聞こえてくるロブさんの声に、私は反応ができなかった。
どうすればいい。
誰に真実を告げて、誰を頼りにすればいいの。
迷っていると、ルパンが人差し指を下に向けた。ここに来るように、ということなのだろう。
「レベッカ社長?」
ロブさんが怪訝そうに訊ねる。
私ははっとして、「地下の駐車場」と言い出していた。
「はい?」
「会議は……もう終わって、車のところにいるから」
「そうでしたか。失礼いたしました。とんだとんぼ返りですな。私もすぐに向かいますので」
無意識のうちに会話が終わっていた。
ルパンは「よしよし」と頷いている。
「執事のじいさんはいつもどこに座る?」
ルパンが訊ねると、次元は親指で「そこだ」と助手席を指す。
「よぉし、んじゃ次元、じいさんが来たらすぐに車を出してくれ」
「……わかった」
ルパンは楽しそうに、唇の端をくいっと上げる。
「ゆっくり話しあいといこうじゃないの」
2018.9.20