ルパンと久しぶりに再会した余韻から抜け出せず、寝付けそうになかった私は、グラスにワインを注いだ。家でお酒を飲むなんて、滅多にしないこと。けれども、アルコールでも身体に入れないと、興奮で熱を持った頭が冷めそうになかった。
グラスの中で揺れる赤ワインをぼんやりと見つめる。深く鮮やかな赤。
私は、ニ年前のことを思い出していた。
ルパンとはじめて会ったあの日。今でも手に取るように思い返すことができる、あの日々のことを
Ⅱ. はじまりの記憶は赤とネオン
はじまりは、ニ年前の日本。私の生まれた国。
そのころ、私の世界には色がなかった。正確には“色”は認識していたけれど、何も感じていなかったのだと思う。空の青さ、雲の白さ、草木の緑、色とりどりの花の色、人の着る服の色、車の色……。とにかく視界のものすべてが灰色に包まれていた。何を見ても美しいとか素晴らしいとかそういう感情が湧いてこなかった。
私は、その一年前に父を、三か月前に祖父を亡くしていた。
大切な家族を失った私は、ひとりぼっちだった。
父さんは、美術商をしていた。美術商というのは、オークションや美術コレクター、他の美術商などから美術品を買い集めて、別のコレクターや博物館、美術館などに転売する仕事。
世界中を飛び回る父さんについていった私は、幼いころから転勤族だった。そのために、親しい人がなかなかできなかった。親戚もいなかった。家族を失って、心の支えになるような存在の人は、いなかった。
私を癒してくれていたのは、美術にかかわることだった。
美術商をしていた父さんの影響で、物心ついたころから絵画や骨董品、遺産などに触れていた私は、必然的に美術品や歴史的なものが好きになった。たとえ何度引っ越しを繰り返しても、何度友人と別れたとしても、父さんについていくことをやめられないでいた。
父さんとおじいちゃんを失った後も、私を癒してくれたのは美術品だった。私なんて影も形もなかった時代に描かれた絵や作られた骨董品たち。そうしたものに触れていると、ほんの少しだけ心が穏やかになった。遠い昔の風を感じると、辛いことが少しだけ慰められるような気がした。
ひとりぼっちになって以来、上野の博物館で働きはじめたのは、それが理由のひとつ。
そして、もうひとつ。
私を突き動かしていたのは
その日は、今にも雨が落ちてきそうな天気だった。空を見上げると、分厚い灰色の雲が一面を覆っていた。春に入ったばかりの季節。太陽が遮られているせいで、風がひんやりと冷たかった。
休館日だけれども、展示会が近かったこの日、午後の数時間だけ臨時のミーティングがあった。館長の自己満足のようなミーティングを終え、博物館を後にしたとき、ひとりの男性の姿が目に留まった。博物館の固く閉ざされた門の前で、じっと建物を見上げている。私はしばらくその人の姿に釘付けになってしまった。くわえ煙草をしながらズボンのポケットに両手を突っ込んでいる。ぎらぎらした目つき。得意げな微笑み。目の覚めるような赤いジャケット。
見るものすべてに色がなかった私の世界に、その赤はくっきりと映えていた。そのことに私は内心で驚いた。どうして彼から目が離せないんだろう。“一目惚れ”とは違うと思うけれど、一目でどこか惹かれる雰囲気があったのは事実で。それに、彼のことをどこかで見たような気がしていた。
頭にぽつんと一滴落ちてきて、ようやく我に返る。
「あの……今日と明日は、休館日なんです」
どうして話しかけようと思ったのかは、わからな。ただなんとなく、そのまま立ち去るには惜しい気がした。もしこのとき、この決断をしていなかったらと考えると、ぞっとする。
彼はゆっくりとこちらを向いた。
「ああ、そうらしいなぁ。せっかく来たのに、残念
「はい」
真剣な横顔から一転して、明るくひょうきんな表情で彼は言った。ポケットから手を出し、くわえていた煙草を外す。手を出した拍子に、彼のポケットからひらりと一枚の写真が落ちた。拾おうと手を伸ばすと、彼のほうが先に拾い上げる。一瞬のことだったけれど、写真に写るものが見えた。象形文字と記号が組み合わせられたような文字が、石版に彫られていた。
「今のって……ナイル文字の……石版、ですか?」
珍しいものを見た興奮で、私は無礼を考えずに訊ねていた。彼は目を細める。
「へえー、ナイル文字のこと知ってるんだ?」
「ええ。一応、学芸員なので」
「だとしても、ナイル文字なんて相当マニアックじゃあない?」
「古代文字って、個人的に興味があって、調べたんです」
彼の言うように、ナイル文字は有名なものではなかった。ナイル川沿いで暮らした小さな民族の古代文字。以前、父さんの持っていた骨董品にこの文字が書かれていて、好奇心で調べたことがあった。
彼は片方の口端を上げて笑う。
「興味があって、ね。それってもしかすっと、これに関係あるのかな?」
彼は門の前に立てかけてある看板を指差す。『エジプト文明とナイル展』。明後日からこの博物館で開かれる展示会だった。
「いえ。もっと昔のことです」
「ふうん、そっか。んでもこの展示会って、噂じゃかなりでかいらしいなあ?」
「そうですね。今年ちょうどここが開館二十周年なんです。準備に何年もかかっているので、みんな気合いが入ってますね」
へえ、と彼はまた目を細める。瞳の奥にきらっと光るものを見た気がした。
「『エジプト文明とナイル』、ね。展示物の目玉はなんだい?」
「詳細は当日のお楽しみということで公開はしてないんですけど……古代エジプトの壁画の一部や彫刻とか、館長が集めてきた骨董品とか、ですね」
「なるほどね」
彼が笑みを深めたとき、ぽつりぽつりと雨粒が滴り落ちてきた。私は手元に持っていた傘を広げるけれど、彼は傘を持っていないようだった。
「傘、持ってないんですか?」
「ああ」
「良かったらこれ、使ってください」
私は広げた傘を彼に渡し、鞄の中から折り畳み傘を取り出した。
「それ、博物館で貸し出してるものなんです。本格的に降ってきそうだったから、持ち出してきただけで」
「いいの? 返しに来られないかもよ」
「いいですよ。ビニール傘だし、博物館側もそのつもりで貸し出していますから。でも
「そうねぇ、また来るかも」
彼はにやりと笑う。
「じゃ、お言葉に甘えて」
サンキュー、と傘を振って去って行く彼が
展示会初日。雑誌などで宣伝をしたせいか、多くの人が訪れ、忙しい日になった。私の仕事は、お客さんに向けて展示品の説明をしたり館内を案内したりすることだった。ずっと立ちっぱなしだったせいか、足の裏がじりじりと痛かった。
少し遅めのランチ休憩をもらって、博物館の外にある公園
そのとき、赤いジャケットを着た男性がやってきて、隣に腰掛けた。「やあ」、と人懐っこい笑みを浮かべている。私はどきりと胸が高鳴るのを感じた。
「これ、どうも」
彼が私に手渡してきたのは、一昨日貸した傘だった。まさか本当に返しに来てくれたとは思わず、少し驚きながら傘を受け取る。
「わざわざ返しに来てくれたんですか?」
「いや、本命はナイル展さ」
「ああ。でも、今からだとちょっと混んでるかも……」
「いんや、もう見て来たから大丈夫。きみ、説明上手いんだなー。アメリカ人のじいさんのマニアックな質問にもスラスラ答えてて、感心しちゃったよ」
あれ?彼、いたっけなぁ、と私は内心で首を傾げた。この人が私の視界に入っていたら気がつくはず。けれど、彼の言葉は素直に嬉しかった。人に誉められることなんて、大人になってからは特に、ほとんどないから。
「……ありがとう、ございます。美術史とか考古学は好きなので、いろいろ勉強したんです」
「へえ
私の心がざわりと揺れた。何かが大きく動いていく予感があった。
「
「今夜は?」
「夜なら大丈夫ですけど」
「何時に終わるの?」
「五時閉館なので、七時には」
「オッケー。じゃ、そのころに、また」
彼は颯爽と現れて、颯爽と去って行った。赤いジャケットを揺らしながら。
午後も変わらず忙しかったけれど、私の頭の片隅には彼の姿がちらついて離れなかった。私も彼と話がしたいなと思っていたから、彼が食事に誘ってくれたのは本当に都合が良かった。だけど、“都合が良かった”というだけではなかった、と思う。どこか気持ちが浮足立っていた。
少しだけ、彼の雰囲気に惹かれるものがあった。真剣な表情を浮かべていたかと思えば、くるりと明るい笑顔になる。不思議な人だと思った。彼のことを知りたいと、思った。
ようやく五時になり、閉館後の不毛なミーティングを終え、私はいそいそと帰り支度を整えた。オフィスに残った女性たちの会話が、耳に入ってくる。
「ねぇ、今日変わった人がいなかった?」
「あっ、もしかして……赤いジャケット来た人?」
「そうそう」
私はどきりとして、デスクを片づけるふりをして耳を澄ませた。
「そんな人いたっけ?」
「私、声をかけられたよ。なんだか馴れ馴れしくって」
「私もー」
赤いジャケット。あの人しかいない。あの人、他のスタッフにも声をかけていたんだ。
彼に声をかけられたという女性には、共通点があった。
みんな美人だし、スタイルがいい。
このときから、彼が女好きで、しかも面食いなのかも、ということをなんとなく感じはじめていた。
博物館の外へと足を急がせる一方、彼が私に声をかけたのは気まぐれなんじゃないか、外に行ったところで彼はいないんじゃないかという不安が浮き上がってくる。だって、私は美人なわけでも、スタイルがいいわけでもない。私が話しかけたから応じてくれただけなんじゃないかな、思う。聞きたいことがあると言っていたけれど、なんだろう。私以外の人でも良かったんじゃないかな、……。
でも、それは杞憂に終わった。夜の闇の中、街灯と月の光に照らされて、赤いジャケットの彼は、煙草を吸っていた。どこかほっとした気持ちと、これから何が待ち受けているんだろうという興奮とが入り混じって、胸がどきどきした。
彼は私の姿を認めると、「やあ」と手を上げた。
「何かリクエストは?」
「食べものは、なんでも。ただ、この近くからは離れたいです」
彼と一緒にいるところを、博物館のスタッフに見られたくなかった。
「家はどっち?」
「横浜です」
「なら、そっち方面にしよう。俺の“家”もそっちだから都合がいい」
てっきり駅のほうへ歩いて行くのかと思いきや、彼は反対方向に歩みを進めた。車があるのだと彼は言った。会って間もない男性と車に乗るなんて抵抗があったけれど、ふたりきりになるには良い状況かも、と思い直す。でも、心臓の鼓動は相変わらずうるさかった。
駐車場に着くと、彼は車のドアを「どうぞ」と開けてくれた。日本でこういうことをされたことはなくて、感心してしまう。
その車は日本車で、コンパクトな丸みを帯びたフォルム。色は白だとこのときは思ったけれど、実際は淡い空色だと後で分かった。
私が助手席に座ると、彼はドアを閉める。そして、運転席に乗り込み、キーを回してエンジンをかけた。
車は、ネオン街へ向けて走り出していった。
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(15.6.20)