一章:Ballad for Christmas...7
騒ぎの後を追っていくと、オペラハウスの外に出た。すっかり暗くなっていたシドニーの夏の夜は、素肌が晒されたドレス姿には少し肌寒い。でも、今は気にならなかった。ルパンの行方が気がかりだった。
辺りを見回していると、マッシュが「あそこ!」とオペラハウスの屋根を指差した。驚いたことに、オペラハウスの屋根の上に人影があった。羽を四方に広げたような変わった形をしていて、足の踏み場なんてなさそうなその場所に。どうやら、ルパンは屋上に逃げたらしい。さすがに私たちはそこまで追っては行けないので、下から見守ることしかできなかった。気がつくと大勢の野次馬が集まっていた。
イルミネーションの明かりに照らされて、一人先行して屋根の上を駆ける姿があった。暗くて距離があったので、はっきりとは認識できなかったけれど、それがルパンなのだと思う。足場が不安定ながらもすいすいと余裕そうに走るルパンに対して、ふらふらになりながらルパンを追う警官たち。それでも、逃げ場がないルパンが不利かと野次馬が囁き合っていたとき。上空に小型の飛行船が現れた。『Merry Christmas』と書かれている。その飛行船はオペラハウスに近づいていき、一本のロープを垂らした。屋根を駆けていた人影は、そのロープめがけてジャンプ。と同時に、飛行船はオペラハウスから離れていく。
「こら待てぇ!ルパンっ!」
銭形警部の怒鳴り声が、聖なる夜の空に響き渡った。
「なんだか……大変な夜だったね」
マリアがため息と共に漏らす。
あの後。マッシュと私はマリアと合流した。“あの”ルパン三世を生で見られたと、マリアとマッシュは大興奮だった。マッシュは……少し元気がない気もした。
ともあれ、その場は僅かに残った警官によって治められ、早々に解散となった。ティアラは盗まれる。パーティーは中止。銭形警部は責任を取らされるのだろうかと、少し同情してしまった。ルパンが無事逃げられて良かった、という安堵のほうが大きいけれど。
マリアと私は家が近いので、同じタクシーに乗って帰宅することになった。本当はドレスを返却する予定だったけれど、二人とも疲れていたので、後日返すことにしてもらった。
本当に、大変な夜だった。
ドレス、パーティー、ダンス、変装したルパン、マッシュの言葉
今夜は一度にたくさんのことが起こった。振り返るとひと晩であったような気がしない。ふうと小さくため息を吐くと、マリアが私を見た。
「、マッシュと何かあった?」
「えっ」
私もマリアに顔を向ける。
「マッシュ、なんだか元気がなかったみたいだから」
やっぱりマリアもそう感じていたんだ。
私は少し迷って、マッシュとのことを話すことにした。マリア、マッシュ、私。頻繁に顔を合わせる三人だから、この話題を避けているのはかえって気まずい気がした。
「
「ほらね、私が言った通りでしょう」
マリアは少しばかり得意気に言う。
「でも、マッシュのあの様子だと、いい返事はしなかったのね」
「
私はマリアから視線をそらし、正面を向く。
「マッシュのことは……友達以上には見られそうになくって」
私は目を閉じる。ゆっくりとしたダンスのステップ。煙草の匂い。ほんの一言聞いただけの声。懐かしい笑顔。やっぱり、私は……。
「
ゆっくりと目を開けながら、告げた。マッシュにも私の想いは話してしまったから、マリアにだけ嘘をついていてもいつかわかってしまうかもしれない。それに、今は、この気持ちを隠せそうになかった。
「そんな気がしてた」
マリアは静かに微笑んだ。行きのタクシーで「好きな人はいない」と言った私を、責めはしなかった。優しいマリアの笑顔に、続けるつもりがなかった言葉を繋げてしまった。
「でもね、ずっと私の片想いで。手が届かない人なの。だから、何度も諦めようとしたけど……その人以上の相手が、いないんだ」
はじめて、私の想いを誰かに話した気がする。ううん、ちがう。はじめてではなかった。あろうことか本人に語ってしまったことがあったのだった。私は通りすがりのおじさんに話をしたつもりで……。
とにかく、今は、少し胸のつかえが取れたような心地になった。
「なんだか、にぐっと近づけた感じ」
「えっ?」
微笑んでいるマリアは、それでももの寂しげだった。
「、あまり自分のことをしゃべりたがらないから。隠しごとをしているわけじゃないんでしょうけど……でも、少しが遠い気がして。だから、今、の心からの言葉を聞けて嬉しいわ」
私を好いてくれたマッシュとマリア。素晴らしい友人を持ったのに、本当のことを話すことができない
「ごめんね……私、自分のこととか自分の気持ちを話すのが、少し苦手なのかも」
「謝らないで。私こそ、勝手にが遠いと思ってごめんなさい。でも、自分のことをべらべらと話す人は嫌いだから、の慎重さは好きよ」
ありがとう、マリア。
昔私は、父さんを殺した犯人や真相を突き止めることに躍起になっていた。いくつかの国を渡って、友達を作る機会がなかった
「のその恋、いつかうまくいくといいわね」
「いつか聞かせてね」、とマリアは言った。私はそうだねと、本心とは違う答えを言った。それでも、マリアの気持ちは嬉しかった。
シドニー中心地、オペラハウスからは西に離れたところに、シドニー大学がある。その近郊は学生が住むアパートが集中していた。マリアと私もその地区に暮らしていて、マリアと私のアパートは歩いて行き来ができる距離だった。私のアパートのほうがオペラハウスからは近かったため、私が先にタクシーを降りた。後部座席のマリアに別れを告げ、扉を閉める。マリアを乗せたタクシーを見送ってから、私はアパートに入った。
三階建ての小ぢんまりしたアパートの最上階が、今の私の住まい。ドレスの裾をたくし上げて階段を上る。高いヒールで三階分の階段を上るのはちょっとしんどくて、自分の部屋の前に来たときには少し息が切れてしまっていた。
鍵を開け、部屋に入る。1LDK、家具家電つきのアパート。今回はピアノがないのが残念だったけれど
明かりをつけて、まずは冷蔵庫に向かった。冷たい水が飲みたかった。喉がカラカラ。ミネラルウォーターを身体に流し込むと、重かった身体が少し軽くなる心地がした。萎れた植物が水を得て活力を取り戻すように、身体に生気が戻るのを感じた。
本当に疲れた。ヒールやドレスに慣れないこともあるけれど、いろいろなことがありすぎた。
まず、着替えよう。ううん、シャワーを浴びてしまおうかな。
バスルームに向かおうとリビングを通り抜けたところで、足を止めた。こつこつ、とノックの音が聞こえた気がした。玄関からではなく、リビングのガラス戸から。この部屋にはバルコニーがついている。といっても、申し訳程度の規模で、物はほとんど置けないし、洗濯物を干せるほどスペースはない。それでも、少し身を乗り出してシドニーの街を見下ろすことはできるので、気に入っていた。そのバルコニーから、こつこつともう一度音がした。
私は身構えた。ここは三階。不審者が侵入してくるには容易じゃないけれど、鳥や猫の類ではなさそう。誰かが石でも投げて悪戯しているんだろうか。
私は勇気を出して、バルコニーに近づいた。そっとレースのカーテンを開ける
ガラス戸の向こう、バルコニーには、ルパンの姿があった。
(15.12.22)