一章:Ballad for Christmas...8





 私は頭の中身が完全に吹き飛んだように放心していたけれど、目の前のルパンがガラス越しに扉の鍵の部分を指差したので、我に返った。真っ白な思考で、とにかく開けなきゃと思って、バルコニーの扉を開けた。手も胸も震えた。ただただ信じられないという、中身のない言葉だけが頭を通り越していった。
 ルパンはバルコニーの柵に腰を下ろしていたけれど、私が戸を開けると、ひょいと部屋の中に降り立った。

「ルパン……」

 自然と小さな声が漏れていた。すごくすごく久しぶりにその名前を口にした気がする。今まで胸のうちであまり考えないようにしてきた名前。そうじゃないと、ルパンという言葉ばかりが私のなかに渦巻いて、苦しくなってしまいそうだったから。

「よお、。お久しぶり」

    
 ルパンの言葉は、笑顔は、声は、呼んでくれた名前は、私が今まで抑えこもうとしてきたいろいろな感情をあっさりと破って、私の胸を打った。
 。私の生まれ持った本当の名前。でも、   かつての私は   死んだ。今の私は、
 けれど、失いきれていない本当の私   父さんと母さんの娘として日本に生まれて、父さんやお祖父ちゃんと過ごして、……ルパンと出逢って、ルパンと過ごした想い出がある本当の私は、『』じゃなくて、『』としての私。新しい名前や生活に不便は感じていないけれど、自分がふたりいるような、自分が自分でないような、奇妙な居心地の悪さがずっと拭えなかった。マリアやマッシュにと呼ばれるたびに、本当の私は違うんだよと小さな叫び声を上げているような。私はだと言い聞かせて、新しい自分になりきろうとして、でも、完全にはなりきれなくて。
 ルパンは私の新しい名前のことも知っているはずだけど、と呼んでくれた。新しい名前のことは忘れているだけかもしれない。深い考えなんてないのかもしれない。でも   とても、嬉しかった。せめて、今だけは、ルパンの前だけでは、でいても、いいよね、……。
 本当の名前を呼んでくれたことももちろん、こうして会いに来てくれたことが嬉しくて、私はほとんど泣きそうになっていた。でも、それをかき消すために、驚いているようすを見せた。

「どうしたの、急に……ティアラを盗んで逃げていたんじゃ……?」

 ルパンは勝手に部屋の中に入り込んでくる。私は扉とカーテンを閉め、ルパンの背中を見た。今は白いタキシード姿ではなく、何度か目にした赤いジャケットを着ている。なぜか大きな白い袋を持っていて、サンタクロースみたいだった。

「そういやは、なんだってあの会場にいたんだ?」

 ルパンは振り返って訊いた。私のほうが質問したいことがたくさんあったけれど、どれから訊ねればよいか混乱していて、ルパンの問いに答えることにした。

「私は……ライカート社の   シドニー・タイムズを発行している会社の息子が知り合いで、招待してもらって」
「へえ」

 なぜだかルパンはおもしろそうに笑った。

「……どうして笑うの?」
「いやさあ、ちゃんってば、御曹司に人気あるなあーと思って」
「ええっ?」

 ルパンが何を言っているのかわからなかった。でも   “御曹司”。その言葉に閃く。マッシュと、……そしてルカ・ベリトリーにのことを言っているんだと気がついた。イタリアで会ったルカ。彼もファッションブランド・ベルトリーニの御曹司だった。彼とは良い思い出がまったくないけれど、結果的に、今は悪くない出来事として捉えられている。ルパンのお陰で。その当人が持ち出してきたこともあって、不快さはないのだけど。
 私をからかうように目を細めているルパンに、顔が熱くなるのを感じた。

「そういうんじゃないってば!単なる大学の友達で!」
「ほおお、そうかねえ。単なる友達ってやつをイブのパーティーに誘うかねえ」

 もう、本当に腹立たしい。こういう話を楽しそうに吹っかけてくるなんて、私のことをどう思っているんだろう。それに、……。

「ルパンこそあの会場にいたよね?モナベール伯爵……ルパンだったんでしょう?」

 それに、一緒にいたのは不二子さんだった。夫婦だって言ってたのはどういうこと…?
 その言葉は呑み込んだ。

「そうそう。イリギスの伯爵サマの立場を拝借したわけ」
「どうして   私をダンスに誘ったの?」
「たまたまつまんなそうにしてるを見つけたんだよ。ひとりぼっちで可哀想だなあって思って」
「別につまらなかったわけじゃ……」

 そのときのことを思い出そうとしたけれど、あまりよく覚えていなかった。その後のダンスの印象が色濃すぎて。

「驚いたぜ。まさかがあそこにいるとは思わなかった」
「私だってルパンが盗みに来るなんて思ってもみなかった」

 偶然   私にとっては、聖夜の奇跡といっていいくらいのことだった。ルパンと、変装していたとはいえ、ダンスが踊れたなんて思わなかった。
 それだけで充分かもしれないと思っていたのに、もっと素敵な奇跡が起こるなんて。今は、本物のルパンが目の前にいる。
 ルパンがいる。すぐそばに   
 ルパンに会いたいと考えてしまうのが辛くって、押し込めていた想い。でも、いかにこの瞬間を思い願っていたか、ルパンを目の前にして抑えることができなかった。
    会いたかった。ずっと。
 素直に解放された想いは、私の胸を震わせた。とても強く。
 でも、どうして来てくれたんだろう、……。

「それで   どうしてここに?ティアラは……?」

 どうやって私のアパートを見つけたのかは、もう今さら聞くだけ時間の無駄だと思った。今までだって、ルパンは簡単に私の連絡先を調べてしまったのだから。

「ああ、そうだそうだ。飛行船でカモフラージュしてるんだけどな、長居はできねえ。要件を済ませっちまおう」

 そっか。長くは居られないんだ。それはまあ、そうだよね。警察から逃げているんだもの。嬉しさから一転、寂しさがさっと暗い影を落とす。
 ルパンは床の上に底をつけていた大きな袋を、私に差し出してきた。

にクリスマスプレゼント」
「プレゼント……?私に?」
「そ。開けてみ」

 まさかプレゼントをもらえるとは思わなくって、私は目を丸くさせた。誕生日だとかクリスマスだとか、ルパンから贈り物をもらうのははじめてだった。神出鬼没のルパンだから、そういうことはありえないと思っていた。
 戸惑いながらも、私は「ありがとう」とルパンから袋を受け取った。思っていたよりもずっしりと重量があって、袋の底は床につけたままに、躊躇いがちに袋を開いた。中には   二枚の絵が入っていた。それと、底にも何かが……骨董品がふたつ。
 私は絵を一枚取り出して、固まってしまった。

「これ……まさか……」

 その絵は、『フォロ・ロマーノ』だった。ローマの遺跡を描いたアラン・アントニーニの風景画。まさかと思って袋の中身をすべて見ると   エルノワールの『風車が見える丘』、彫刻の『漆黒の翼』、一冊の書物『ニコラ・フラメルの書』。
 これはすべて、父さんのコレクションだったもの。東京の金庫に置き去りになっているはずのものだった。
 美術商だった父さんが死んでしまって、闇ブローカーに売り払われてしまった父さんの美術コレクション。私はそれを取り戻すために、必死であちこち駆け回っていた。そんななかルパンと出逢って、ルパンは父さんの美術品をいくつか取り戻してくれた。それらは東京の金庫に隠しておいたのだけど、私が死んだことになってしまって、引き出すことができないでいた。どうしようかずっと悩んでいた。過去長く生活していた東京に行くのは気が引けるし、そもそもどうやって金庫から引き出す手続きをすればいいのか。死んだことになっている私が出て行ったら、大混乱になる。ひとまず、ルパンがイタリアで盗んでくれた『アルノ川の春』だけは手元にあるから、父さんの思い出はその一枚で踏ん切りをつけるべきかと言い聞かせていた。
 それなのに。諦めかけていた父さんのコレクションが今、ここにある。

「これ……父さんの……どうしてここに……?東京の金庫にあるはずなのに」

 私はルパンを見上げた。ルパンは得意気に答える。

「なあに、金庫破りなんて朝飯前よ。もちろん盗んだ痕跡は残してねえから、は安心していい。金庫の管理者は、中身が空だとはわからない」
「盗んできて   くれたの?」
「ああ。この前東京に行ったんでね。そのついでだよ。、前に言ってただろ?親父さんのコレクションが東京の金庫に預けたままになってて、取りに行くに行けない、って」

 たしかに、言った。前にルパンと会ったときに。そういえば『アルノ川の春』以外の父さんのコレクションはどうしたんだと、ルパンが訊いてきたのだ。そのときは「ふうん」なんて何でもない返事をしていたのに、まさか覚えていてくれたなんて。
 父さんのコレクションをまた手にすることができたことはもちろん、ルパンの気持ちが嬉しかった。とても。

「ありがとう、……」

 私は心から言った。ルパンは唇の端を曲げて笑う。

「もっとずうっと後になってから取りに行くしかないと思ってた……そもそも取りに行けるかわからないし……金庫の中で眠らせておくしかないかもしれないなって思ってた。ありがとう、ルパン」
「どういたしまして」

 ルパンはそう言って、入ってきた方向に歩き出す。要件はこれで終わり、のようだった。
 唐突に別れの予感が部屋を暗くした。

「そんじゃあ俺は追われる身なんで、退散すっからな」

 その背中に、何も言えなかった。引き止める言葉が見つからない。
 やっと会えたのに。これだけで終わりだなんて。でも、仕方がない。警察が血眼になってルパンを追っている、……。

「次はゴールドコーストでひと仕事あるんだ」

 突然ルパンは振り向いた。
 ゴールドコースト?シドニーから北に離れたリゾート地だけれど、そんなことをどうして急に……?

「それまで少し間が開くから、ティアラの件が落ち着いたらまたメシでも行きましょ」

    えっ?
 口に出そうとして、声が出なかった。
 またメシでも行こう。ルパンは、今、そう言った。ということは、またルパンに会える。

「だからそんな寂しそうな顔するなって」
「さ   !?寂しそうな顔なんてしてないって……!」

 私はついつい声を荒げてしまう。ルパンはにやりと笑った。

「んでもって今は、また俺に会えるんで嬉しい、って顔に書いてあるぜ?」

 顔がどんどん火照っていくのを感じる。ルパンは私の気持ちを知っていてこういうことを言ってる。まったく!

「ああ嬉しいですよ!今回は絵の修復じゃなくって美味しいご飯なら!」

 否定するのは逆効果だと思って、皮肉で誤魔化すことにした。でも本心でもある。前回はまたまた絵の修復を依頼されて、それだけだったんだもの。

「わかったよ。いいもん食わせてやるって」

 ルパンは苦笑する。そして再び私に背を向けた。
 また近いうちに会えるとわかっていても、ルパンの去る背中を見るのは胸が切なくなる。いいかげん慣れないかなあ   と思っていたところで、ルパンは「そうだ」とバルコニーの扉にかけていた手を引っ込めた。

「クリスマスプレゼント、もうひとつ忘れてた」

 そう言って、くるりと振り返って私のほうに戻って来る。なんだろう。もうひとつ、って。
 私がルパンを見上げていると、ルパンはふっと微笑んで左手を伸ばした。その手は私の腰に伸びて、ルパンのほうに引き寄せられる。一瞬、先ほどのダンスの続きでもするのかと思った。でも、ルパンは右手を私の頬に当てて   ルパンの顔が近づいてきて   口づけ、られた。
 咄嗟のことに反射的に目を閉じてしまった。思いも寄らなかったことに、胸がぎゅっと縮こまる。懐かしい煙草の匂いとルパンの温もり、……。優しくて甘くて強引なキス。
 短かったのか長かったのか、わからない。気がつくとルパンのいつもの笑顔が目の前にあった。

「じゃ、またな」

 片目をつむって、踵を返して去ってゆく。ルパンは今度は振り返らずにガラス戸を開けて、柵に登って屋根の上へとジャンプしていった。

    びっくりした。
 身体の力がふっと抜けていく心地がして、倒れるようにすぐ傍のソファに座り込んだ。まだ心臓がばくばく動いている。顔が、熱い。何よりも唇が   
 こうやってごくたまにしか会えないのに、会えたときには必ず私の心をさらってゆくルパン。毎度のことながら本当にずるい。

 でも。
 今までで一番のクリスマスになった気がした。

 

(15.12.24)