二章:a little closer...9





 エリザベス女王のティアラの一件が落ち着いたら、ご飯を食べに行こう。
 ルパンはそう言っていた。けれど、新しい年を迎えてもう何日も経っている。ルパンからの連絡は一向にないまま。警察に追われているのかもしれない。追手を誤魔化すのに時間がかかっているのかもしれない。他に何か“仕事”が入ったのかもしれない。そう自分に言い聞かせていたけれど、さすがに新年の喧騒も落ち着いてきた今、もしかして口約束だったのかな、忘れてしまったのかな、と諦めに近い気持ちになることが増えた。このまま何もないかもしれない   
 でも、それはそれで良いのかも。ルパンにはっきりと「じゃあな」と別れの言葉をかけられるよりも、連絡があるかもしれないと期待して待っていたほうが、傷が浅くて済む。
    相変わらず愚かな私。そんなふうに期待しないで待つのが得策、ということを学びつつある。でもほんの少しの希望は失くさずにいる、……。

 それでも、なるべくルパンのことは考えないようにするすべは身につけられてきた、と思う。年越しは大学の研究室のメンバーと思い切り楽しんだ。たくさん食べて、たくさん飲んで、たくさんしゃべった。年末年始はマリアと買い物に出かけたり、空手やヨガのサークルに通ったり、課題やレポートに取り組んだりした。
 ルパンは誰と年を越したんだろう。
 ふと気になることもあったけれど、なるべく考えないように、意識の外に押しやった。今の私は、ルパンばかりに囚われてはいない   

 

 卒業までの残りの一年は、自分が関心のあるテーマをひとつ選んで、それについて研究・調査し、論文を書くという大きな課題があった。自分が所属している研究室の教授に師事して取り組むことになっている。
 私が入った研究室の教鞭を執っているのは、レイモンド・ブライトン教授。ブライトン教授は、気さくで、穏やかそうな外見に似合わず、とても情熱的な人。専門は、ギリシアやオリエント、ヘレニズム、エジプトなど紀元前の地中海周辺の文明や文化。そうした時代や文化に私も興味があって、ブライトン教授の研究室に入った。先生に教えを乞うためにシドニー大学を選んだと言ってもいいくらい。先生の著書はいくつも読んでいた。

 私は、中間報告書を年末に先生に提出していた。卒業研究について、現時点で調べあがっていることをまとめたレポート。それについて話がしたいから、手が空いているときに研究室に来るようにと先生から連絡があったのは、昨日。

 大学はまだ長い夏休みの最中だったけれど、勉強や部活動などで、構内には生徒の姿もちらほら見受けられた。私は人気のない廊下を早足で歩いて、先生の研究室に辿り着いた。ノックをすると、「どうぞ」という返事が返ってくる。扉を開けた。

「こんにちは、先生。今よろしいですか?」
「ああ、か。もちろん構わないよ」

 先生は朗らかな笑顔を浮かべる。こちらも心が温かくなるような微笑み。
ブライトン教授は、年は確か五十代半ば。薄明るい茶色の短髪で、中肉中背、薄っすらと鼻の下に髭を伸ばしている。黒い縁の眼鏡をかけている ときもあって、今はその眼鏡はシャツのポケットに挟み込まれていた。
 気さくで、優しくて、教え方も上手で、とても良い先生に巡り会えた、と思う。著書から受けた印象通り、素敵な先生だった。

「レポートを読んでくださったそうで」

 分厚い本が山のように積まれた先生のデスクの前で立ち往生していると、先生が椅子を持って来てくれたので、そこに座った。先生は「ああ」と頷きながら、自分の椅子に腰掛ける。そして、デスクの引き出しから紙の束   私のレポートだ   を取り出し、ぱらぱらと眺めはじめた。
 何を言われるんだろう。こうやってわざわざ呼び出されるということは、特別に指摘することがあるということ。それが何なのか薄々感づいていた。私が調べた内容が浅い。選んだテーマが卒業研究には相応しくない。そういうことじゃないかな……。最初に、きちんと先生に相談をしておけば良かった。

……君はどういうつもりでこのテーマを選んだんだい?」

 やっぱり、テーマのことだった。先生の表情も口調も柔らかいけれど、目の奥には厳しさが混じっているような気がした。 私が選んだテーマは、『アレキサンダー大王と幻の文化』、というもの。少し躊躇ってから、私は口を開いた。

   “伝説”をきちんと調べたいと思ったんです」

 先生は僅かに眉を動かす。
 きっかけは、ルパンだった。私は以前、アレキサンダーの伝説について、ルパンに話したことがあった。アレキサンダー大王の財宝がギリシアに眠っている、と。当時は詳細を知らず、危機を脱するためにとっさにでっちあげた内容だったけれど、その後、気になって伝説を詳しく調べることにした。

 アレキサンダー大王。紀元前340年頃に活躍した英雄。ギリシアを支配し、エジプト、さらに東はインドまで征服の手を広げた偉大な人物。その彼が遠征中に集めた金品財宝や美術品がいずこかに眠っている、という一説があった。それが浮上したのが、二十年前。一枚のパピルスが発見されたことがきっかけだった。そのパピルスは、大王の死後に、バビロニア   現在のイラク近辺   を支配していたセレウコスが書いたもの。アレキサンダー大王の家臣だった彼曰く、『大王は自身が集めた財宝の多くを、密かに信頼できる人間に託し、隠させた』という。けれども、学者たちがどれだけ調査をしても、それらしい発見に繋がることはなかった。セレウコスは、大王の後を継いだ者のなかでは影の薄い存在だった。だから、注目を集めたいがために虚言を弄したのだ、という結論が有力になった。
 アレキサンダーの隠された財宝は、今ではほとんどオカルト神話のように扱われていて、もう調査が進んでいない。残念だなと思っていたところに、現在もなおこの件を真剣に研究をしている人を見つけた。それが他でもない、レイモンド・ブライトン教授。
 先生は、パピルスが発見される以前から、精力的にアレキサンダー大王について調べていた。私は先生の書いた情熱的な論文をいくつか読んで、この人と話がしてみたいと思った。この人とアレキサンダー大王について話をしてみたい、と。
 でも、ここ数年の先生はこの件について論文を書いていない。大学で見る限り、調査をしているような素振りもなかった。やめてしまったのかと思ったけれど、同時に、諦めてはいないのかもしれない、とも思う。先生の考古学にかける情熱や、時折浮かべる少年のような瞳を間近で見ているから。
 先生とこの件を話す機会をうかがっていたのだけど、タイミングをつかめないでいた。卒業研究をきっかけに、先生と深い話ができれば、なんていう考えもあったけれど。甘かったかな……。

 私は先生の返答を待った。先生は何と言うだろう。私のレポートにじっと目を落としている。長い沈黙の後、先生は顔を上げて、苦笑した。

「うーん……おもしろいテーマではあるが、あくまで仮説の域を出られないんじゃないかな。最終論文のテーマにするには難しいかもしれない」
「そうだと、思います。たくさんの人が調べてなお、わからない点が多すぎますし……」

 事実、いち学生が調べるには限界があって、この中間報告のレポートですら行き詰ってしまっていた。だから、違うテーマにしようか迷ったけれど、私のなかで一番調べてみたいのがこのテーマだった。

「でも、私、とことん調べてみたいんです。そもそも私がこの大学に来たのは、ヘレニズム文化やアレキサンダー大王に関する先生の論文を読んだからなんです。先生の情熱に共感したり、触発されたり」

私は口調に熱がこもってしまうのを感じて、言葉を切る。先生は困ったような優しい目をしていた。

「ふうむ……」
「私は、小さい頃から美術品や考古学に興味があって。美術品や歴史的なものに触れられるだけで充分満足なんですけど、もしそういうものを発見できるのだとしたら、一生の夢が叶うような思いです」

 子どものころから、考古学者が遺跡を発掘する冒険映画が好きだった。その影響があるのだと思う。そして、美術商だった父さんと、ルパン。美術品の調達に当たっていた父さん。世界中を飛び回って、歴史的なものに触れているルパン   実際は泥棒だけれど   。ふたりに近づきたい、という思いもあった。
 もし本当にアレキサンダー大王の隠された財宝や美術品があるのだとしたら。それらが見つかれば、新しい文化や文明も明らかになるかもしれない。この世界の歴史のなかで、まだ日の目を見ない文化や美術品が存在していると考えると、この上なく胸が踊った。それを解き明かす学者の一員になれるのだとしたら、なんて素晴らしいだろう。
 先生は私の目をじっと覗き込むように見ていた。けれど、それが柔らかい笑顔になる。

「君は落ち着いた女性だと思っていたけれど、実際は情熱家のようだね」

 先生はそう言うと、デスクの引き出しを開け、一冊の紙の束を取り出した。それを私に手渡してくれる。中身をめくって見てみると、いくつもの写真が印刷されていた。まず、ひとつの壺。男性が剣を持った絵柄が彫られていて、その周囲には文字のようなものも書かれていた。損傷が激しく、欠けている部分が多い。もうひとつが、腕輪の写真。中央に鳥のようなものが細工されていて、文字も少し彫られている。こちらは比較的状態が良い。この壺と腕輪をいろいろな角度から撮った写真が、数十枚の束になっていた。
 「これは、……」と呟くと、「数少ない手がかりさ」という答えが返ってくる。

「どう思う?」

 先生はどこか私を試すように、曖昧に訊いた。私は「そうですね」とあいずちを打ちつつ、何度も資料をめくって考える。

「この壺は見たことがありますが、腕輪ははじめて見ます。どちらもヘレニズム様式ですね。こっちの腕輪に描かれているのは鷹……でしょうか。アレキサンダー大王の守護神と言われていますよね。どちらも、文字はヒエラティックと古代ギリシア語を混ぜたようなものです。その資料にも文字のことは書きましたが……」
「ああ。よく勉強しているね」

 先生が満足げに頷いたので、私はほっとした。
 壺については、調べる過程で目にしたことがあった。そこに書かれている文字は、初期のヒエラティック   古代エジプトで使われていた筆記体の文字と、古代ギリシア語の特徴を合わせたような文字。

「その壺は、君も知っての通り、十数年前にイラクで見つかった。腕輪のほうは、壺よりも少し後にサウジアラビアで発見された。そこに書かれている文字は、恐らく狭い範囲で使用されていた文字なのだと思う。今のところ、この壺と腕輪以外にこの文字が使われているものが見つかっていない。他にも発見されれば文字の解読が進むんだが」
「やっぱり……学生の私が調べるには、限界があるでしょうか」
「そうかもしれない。でも、君の考察はなかなか興味深かかったよ。特に、アレクサンドロスの財宝が隠されているのだとしたらエジプトではないかという点は、私も同じように考えている」

 先生は、アレキサンダー大王のことを、どこか親しみを込めて“アレクサンドロス”と呼んだ。その彼の財宝があるのだとしたら、彼の生まれたギリシア、地中海ではないかという説が多い。私も以前はそう認識していた。けれど、いろいろ調べて考えた結果、エジプトにある可能性が高いのではないかと考えるようになった。
 これだけ長い年月が経ってもなお発見されていないということは、人の手が入っていない場所に存在している、ということ。エジプトは、現在でも新たなピラミッドが発見されるくらい、未開の土地が残されている。発見されていないものがあっても不自然ではない。加えて、当時のエジプトはアレキサンダー大王に友好的で、大王をファラオと捉えていた。それに、非・理論的な意見なのだけど、大王がエジプトに関して書いた書記が、他国に対しては感じないような好意的な意識が見て取れた。大王が遺産を託すとしたら、彼の敵が多いギリシアよりも、エジプトなのではないか。
 そんなことを中間レポートに書いたのだけど、私の考察ばかりで、事実が少ないと痛感していた。だからいっそう、このテーマで卒業研究をするのは難しいかもしれない、と思っていたけれど。

「君にもその資料のコピーをあげよう」
「えっ   、」
「生徒が調べたいというものを私が止める筋合いはないからね。気が済むまでやってみるといい」
「ありがとうございます!頑張ります」

 先生が認めてくれたのが嬉しくて、私はつい大声で言ってしまった。その後、普通のトーンに戻して、訊ねる。

「先生はアレキサンダーの財宝について、今でも調べているんですね」

 先生とアレキサンダーについて語り合いたい。そう思って何気なく言った言葉だったのに、先生は一瞬だけ悲しそうな表情をした   気がした。過去にこの件で嫌な思いでもしたのかもしれない。あまり触れないほうがいいのかな、……。

「まあ、ぼちぼちだがね。君の研究がどうなるか、楽しみにしているよ。ただし、現実的な論文に仕上げないと単位はあげられないからね」

 すぐにいつもの気さくな先生に戻っていた。私は「はい」と笑って答えて、資料のコピーを取らせてもらった。

 

 大学を出るとちょうど正午だった。お昼を食べて帰ろうかと思ったけれど、昨日作ったカレーがまだたくさん残っていることを思い出して、帰宅することにした。
 どこから手を付けていいか迷っていた論文だったけれど、先生が認めてくれて、ヒントもくれた。あくまで仮説だらけの内容だけれど、これからどんなふうに調べていこうか、楽しみ。
 そんなふうに明るい気持ちでアパートの階段を登って、部屋の鍵を開けた   のだけど、開かない。ドアノブが固くて回らなかった。一瞬にして晴れやかな気分に陰りが差し、背筋にさっと嫌なものが走る。鍵をかけ忘れた?それとも、まさか   空き巣?
もう一度鍵を回し、そっとドアを開けた。荒らされた部屋を恐れていたけれど、その様子はなかった。まだ不審者がいるかもしれない   いつでも逃げられるように、少しずつ扉を開けて、中の様子を探る。
 そこで、鮮やかなグリーンが飛び込んできて、心臓が止まるかと思った。不審人物ではなかったけれど、それでもここにいることが想像できなかった人。私の部屋の中にいたのは、ルパンだった。

 

(16.2.26)
(16.12.07 改訂)