二章:a little closer...10





 警戒していたお陰で悲鳴を上げることはなかったけれど、私は部屋の鍵を落としてしまった。家に帰ったらルパンがいるんだもの。それは驚くに決まっている。ルパンは鍵の音に振り向いて、私を認めると、「よお、おかえり」と呑気に言った。黙って人の部屋に侵入しているというのに、相変わらず悪びれた様子がない。
 私はびっくりしてどくどくと全身に血が駆け巡るのを感じた。でもその驚きは、すぐに喜びに変わった。部屋の中に入り、扉を閉め、鍵をかけて、リビングに足を急がせる。
 ルパンがいる   。今日はグリーンのジャケット姿。

「もう、びっくりした!泥棒かと思った   って、泥棒だけど」
「わりぃわりぃ」

 ルパンはにひひと笑う。悪いなんて欠片も思ってないんじゃないの?

「どうして……ここに?」
「いやさ、今晩メシでもどうかなーと思って。書き置きでも置いていこうかなーって思ってたとこ」

 それは早く帰って来て良かった。私は心から自分を誉めた。

ちゃんのご都合は?」
「うん、大丈夫」

 はやる気持ちを抑えて、ゆっくりと答える。ルパンはにこりと微笑み、左手にはめた腕時計を見た。

「12時30分、か。デートは夜から、のつもりだったんだけどな   べつにやることもないし   、今から出られるか?」
「えっ?」

 ルパンが使った“デート”という言葉にどぎまぎしてしまって、咄嗟に声を上げてしまった。それに。今からルパンと外出できる……?

「何か予定でも?」
「え、いや、ううん、大丈夫   どこに行くの?」
「そうだなあ。せっかくだから案内してくれよ、シドニーの街でも」
「案内、って……この界隈しかよくわからないよ。メジャーな観光スポットか、散歩コースか」
「お、いいねえ散歩。夜にはハーバーブリッジの辺りに行きたいんだよ。それまではちゃんにおまかせ」

 任せる、って言われても。でも、シドニーは絵になる場所が多いから、ルパンと歩いたら楽しそう。想像するだけでも胸が踊った。

「うーん……わかった、考えてみる。ルパン、お昼は食べたの?」
「いんや。まだ」
「私もまだだから、じゃあどこかで食べようか」
「ああ。でもディナーが豪華なんで、軽めにしとこう」
「へえ、期待していいの?」
「もっちろん」

 ルパンはにっと笑って部屋を出て行こうとする。私も後に続くつもりが、はたと気づいて立ち止まった。私の格好は、Tシャツにアンクルパンツ、スニーカー。デート向きの服装じゃない。ましてや豪華なディナーなんて。

「ちょ、ちょっと待って!夜はどんなレストランに行くの?」

 ルパンは立ち止まって振り返る。私の質問の意味を察して、「ああ」と笑った。

「大丈夫大丈夫。オシャレしてくれてもいいけどもな、歩きまわるんだったら動きやすいほうがいいんでない?」

 たしかに。ワンピースでヒール、なんていう服装だったら、坂の多いシドニーでは歩きにくいから、すぐ疲れてしまう。それにルパンを待たせるのも悪いし、待たせるだけのおしゃれができるかどうかも微妙なところ。
   でも。

「五分だけ待ってて…!」
「いいよいいよ、急がなくって。男を待たせるのは女の特権なんだから」

 外で煙草吸ってる、とルパンは部屋を出て行った。
 急がなくていいとは言ってくれたけれど、ルパンを待たせたくないし、一分でも一秒でも長く一緒にいたかったから、大急ぎでクローゼットをあさった。明るいベージュのアンクルパンツはそのままで、トップスをきれいなシャツに替え   私が持っているもののなかで一番おしゃれなもの   パステルカラーのカーディガンを持っていく。この前マリアとの買い物で買ったもの。靴は歩きやすいローヒールのパンプス。髪とメイクをさっと整え、持ち物や鍵を点検して、部屋を出た。
 久しぶりのルパンとの外出。しかも、夜まで。お腹の底からむくむくと喜びが湧いてくる。嬉しさで飛び上がりたかった。実感が湧かずにふわふわした。にやけてしまう顔をなんとか沈めようと、きゅっと唇を結ぶ。それでも早足で階段を駆け下りた。

 

 アパートの外に出ると、ルパンが煙草を吸って待っていた。
 「お待たせ」、なんて憧れの台詞を言ってみて、こそばゆかった。ルパンは「早かったな」と答えて、煙草を足元に捨てる。オーストラリアじゃ本当はポイ捨ては罰金なのだけど、今はそういうことを気にしている余裕がなかった。ただただ、嬉しかった。それを胸のうちに押しとどめるのに必死。大はしゃぎしてしまいそう。それでも、自然に漏れてくる笑みを止めることはできなかった。

「さあて、どこへ連れてってくれるのかなー?」
「どこかのカフェでテイクアウトして、公園で食べようかと思うんだけど   ハーバーとシドニーの摩天楼が見渡せる公園で、ほら、前に清掃員になりすましたルパンに会ったところ」
「ああ、あそこか」

 私は声の調子が明るくなるのを精いっぱい抑えて言ってみせるけれど、はっとあることに気づいて、自然にトーンを落とした。

「でも……大丈夫かな」
「なにが?」

 ルパンは呑気に構えているけれど、私は急に不安になってきた。夏の日差しがさんさんと降り注ぐなか、ルパンを見上げる。

「だって……ルパンが昼間の街をぶらぶらしてていいのかなって……この前のティアラの件でシドニーでも注目されてるし」

 “ルパン三世”が白昼堂々シドニーをぶらついて、大騒ぎにならないだろうか。私の気がかりをよそに、ルパンは軽く笑う。

「だーいじょうぶだって。人間ってのはな、案外他人に無関心なもんよ。まさか天下の大泥棒が近くを歩いてるだなんて、だーれも想像しないって」
「そういうものかな……」
「そういうもん。今までだってデート中に捕まったことなんて一度もないぜ?」

 私の警戒心を解こうと言ったのだろうけれど、違う種類のもやもやが私の胸の内を曇らせた。
 女の人とデート、か……。
 今回の私が特別っていうわけじゃない。
 そんなことわかりきっていることだけれど   
 咄嗟に言葉を詰まらせた私を、まだ不安がっていると勘違いしたルパンは、私の肩をさらりと抱いた。

「大丈夫大丈夫。さ、行こう」

 そう言って歩き出す。
 ルパンが、近い   
 そうだ。悶々としている時間があったら、今この瞬間を楽しまなきゃ損だよね。
 ルパンは今、こうして私の目の前にいる。それだけがすべてなのだから。

 

(16.3.3)