三章:The color of dawn...18





 ルパンとの夢のような一日から一週間。ぼんやりと日々が過ぎていった。ハーバー沿いの公園を歩いているとき。シドニータワーを見上げたとき。自分の部屋のソファに座っているとき。ふとしたときに、あの日の甘い欠片が、胸を締めつける。不二子さんの存在にやきもきしたりもしたけれど、あの時間は本当に満たされていたなあ、と今でもしみじみと思う。一生分の幸せがあの日にやってきて、あとは下っていくだけなんじゃないか、なんて考えてしまうほど。

 いつまでも惚けていては何もないので、私はなるべく雑念を抱かないように、大学のレポートや翻訳のアルバイト、ヨガや空手のサークルに勤しんだ。どれも勉強の合間に細々続けているもの。
 それと同時に、ルパンがターゲットにしているピンクダイヤの持ち主、ジュディ・ミラーについて調べた。ベルモンドホテルグループの副社長。雑誌で写真を見たけれど、ブロンドのショートカットで、バリバリのキャリアウーマン風の女性。年齢は五十代前半と書かれていたけれど、とてもそうは見えなかった。年齢の割にスタイルがとてもいいし、肌も綺麗   もっとも紙面上では、ということだけれど   。真っ赤なスーツとルージュが印象的で、色恋沙汰が多いと言われているのも納得。もう少し若ければルパンが口説いていそう。彼女はベルモンドホテルに営業として入社して、若手の頃からずっとトップセールスの地位を譲らなかったらしい。マネジメントやプロモーション部門、部長や役員を経て、副社長に抜擢。次期社長の声が挙がっているとか。

 そのミラーさんが持つのが、世界最高級の評価を受けたピンクダイヤ。世界で一番大きな原石を、世界で一番腕がいいと言われる職人がカットして、加工したダイヤのブローチ、らしい。
ルパンと   そして不二子さんの、次のターゲット。

 不二子さんのことは考えないようにしているのに、ふと気が緩んだときに、頭を過ってしまっていた。ルパンが不二子さんに対して見せる、甘い声や表情。不二子さんと仕事のことを語っていたときの生き生きとした表情。ルパンにとって、不二子さんは特別な存在なのだと考えずにはいられなかった。

 どうして、ルパンなんて好きになってしまったんだろう。こんなにも深く。女好きの、しかも泥棒を。隣にはあんなに素敵な女性がいる。私なんて敵いっこないのに。
 たくさん傷ついて、悩んで、もう忘れようと何度も思うのに、それができない情けない私。憤りがあって、葛藤があって、それでもやっぱりルパンのことを好きでいてしまうのはきっと   ああいう瞬間があるから。
 ふとしたときに思い出す。
 ルパンと観た景色。フィレンツェやシドニーの夕焼け。ひまわり畑と青い空。きらめくハーバー。世界一美しい小島と神秘の洞窟。芝生の鮮やかな緑や、色とりどりの花火、……。目を閉じるとありありと蘇ってくる想い出。隣にある、ルパンの横顔や匂いや温かさや言葉。ルパンと一緒にいると、世界はなんて美しく見えるんだろう。些細なことがなんて至福に感じられるんだろう。
そういう優しくて甘い想い出があるから、どんどん積み重なっていってしまうから、忘れられないんだ。

 自分の部屋にいるときが、一番堪えた。クリスマスの夜に、大学の帰りに、ひょっこりと現れたルパン。そしてあの夜は、このソファで   
 あのときのことが思い返されると、胸がきゅっと締めあげられる。あのときの戸惑いと、不安と、興奮が、過ぎ去った今でも私を支配した。

 続き、だなんてふざけたことをルパンは言っていたけれど、いつまでシドニーにいるつもりなんだろう。いつピンクダイヤを盗むんだろう。もう一度くらいは会えるのかな。
 そんな意識があって、街を歩いているときには、さりげなくルパンを探してしまう癖がついてしまった。それに、家に帰ったときに、部屋の中にルパンがいるんじゃないかと期待してしまっている。もちろんルパンがいることのほうがまれなのだから、ガランとした部屋を見つけると、一段階気持ちが暗くなった。期待しちゃだめと解っているのに。

 良くない。ほんとうに、良くない。

 もしかすると、あの日が最後で、また一年くらい姿を現さないかもしれないんだから。ルパンの気まぐれをあてにしちゃだめ。
それでも、どこからかひょっこりルパンが現れるような気がして、無意識に視線をあちこちに走らせてしまうことは、やめられなかった。いっそオーストラリア国外でルパンの目撃ニュースがあれば諦めがつくのに   と思っていたら、あった。
 ルパンがニューヨークのカジノで盗みを働いたのだとか。詳しくはあまり覚えていない。ああもうシドニーにはいないんだなという衝撃で、しばらくぼんやりしてしまった。

 そっか、もういないんだ。

 これでもう期待せずに済むと思った反面、やっぱり寂しさが襲ってきた。毎度思うことだけれど、別れの挨拶くらい言ってくれてもいいのに。次はいつ会えるんだろう、……。ピンクダイヤを盗み出したというニュースは聞いていないから、ダイヤは諦めたのだろうか。それとも不二子さんと何かあったのかな。喧嘩でもしたのかな、……なんて、色々考えを巡らせてしまう。

 幸い、大学の研究という大きな目的があったので、私はそれに必死に打ち込むことにした。大学はしばらく夏休みだったので、授業はなかったけれど、キャンパスには頻繁に通っていた。大学図書館にない文献を調べるのに、街で一番大きな図書館にも足を運んだ。合間には、アルバイトやヨガや空手をしたり、マリアと買い物をしたりと、あえて予定をたくさん入れた。
ルパンの姿を探す癖が、離れていった。ルパンのことを記憶のなかに押し込めようとした。

 

 シドニーの図書館で調べものをして、その帰り道。まだ空は明るいけれど、徐々に夏の長い夜が始まろうとしている時間帯だった。うっすらと青空の中にオレンジ色が混じり始める。街の雰囲気は明るくて、みんな浮足立っているように思えた。仕事や学校帰りに、友達や仲間と遊び歩くんだ、楽しい夜はこれから、……そんな意気を感じた。
 私は何も予定がなくって、でも家に帰るのもなんとなく憚られて、少し辺りをぶらぶらすることにした。でも歩けば歩くほど、周りの人が意気揚々としているほど、私の孤独感が増していくような気がした。
 大人しく帰ろうかな。
 そう思い直して、信号待ちをしていたとき。右手からやって来る人物に、息を止めた。向こうは私に気づかず、煙草をくわえたままこちらに近づいてくる。帽子を目深にかぶった姿。私は嬉しいのと驚いたので声を上げてしまいそうになるのを抑えて、その人の名前を呼んだ。

「次元」

 私の近くまで歩みを進めていた次元ははたと立ち止まり、私を見下ろした。数秒の沈黙があってから、「、か?」という返事が返ってくる。
 次元と会ったのも、五エ門と同じく一年前。当時の次元は、死んだはずになっていた私を見てもさして驚かず、「雰囲気変わったな」と言われただけだった。ルパンは、次元には事情を話していたのかもしれない。
 信号が青に変わったので、次元と私はどちらからともなく歩道から離れた。

「驚いた。ニューヨークに行ったんじゃなかったの?ニュースで見たよ」
「ああ。あれは突発的に入った一件でな」
「そうだったんだ……じゃあダイヤの件でシドニーに戻って来たっていうこと?」

 次元は少し間を置いた後、「そうだ」と答えた。私がダイヤの件まで知っているのに驚いたのかもしれない。

「でも、次元。どうしたの、こんなところで」
「酒でも飲みに行こうかと思ってな」
「女の人と?」
「冗談じゃねえ」

 次元は鼻で苦笑する。次元はルパンとは正反対で、女性にあまり良い印象を持っていない。ルパンも次元を見習ってほしい、なんて思ってしまう。

「なあ。この辺りで美味い酒が飲める静かな店、知らないか?」
「美味い酒?」

 私はあまりお酒を飲まないので詳しくない。だけど、マッシュが以前、美味しくて雰囲気のあるバーがあるから今度三人で行こう、と言っていたのを思い出した。たしか、落ち着いていて隠れ家的なバー、と言っていた気がする。どこだったかな、そのお店。

「美味しいっていう評判のお店なら知ってるんだけど、はっきりとした位置がわからないの。たぶんこの近くだから、良かったら案内するよ」

 そうすれば、道すがら次元と話せる、という算段もあったりして。

「いいのか?」
「うん。べつに予定はなかったし」
「そうか。なら頼む」
「うん」

 次元と私が歩き出そうとしたとき、「?」と聞き覚えのある声がして、振り向いた。マリアだった。私は驚きのあまり目を丸くしたまま固まってしまった。どうしてマッシュといいマリアといい、こうもルパンや次元と一緒のときに遭遇してしまうんだろう。どうしようどうしようと混乱する頭で、世間は狭い、 なんて悠長に考えてしまった。
 唖然とする私を他所に、マリアがゆっくりと近づいて来た。

 

(16.5.5)