三章:The color of dawn...21
身体の痛みを感じて目が覚める。状況が呑み込めなくって、しばらくぼんやりと目の前の光景を眺めていた。視界に入ってきたのは、たくさんの積み重ねられた木製のコンテナ。その手前にはスペースが空いていて、床に置かれたランタンがぼんやりと光を放っていた。けれどもそれらは九十度回転されている状態。私は、横になっているようだった。こめかみや右半身に、ひんやりとした地面を感じる。
ええと
間違いなく、私のアパートではないことは確か。私、どうしてこんなところにいるんだっけ。思い返そうとすると、頭が痺れるように痛んだ。それでも必死に記憶を手繰り寄せる。図書館から帰宅する途中、次元とばったり出会った。そして一緒にバーに行って、飲んで、それから、……。それから……バーから出て、歩いているところで、誰かに殴られるか何かしたのだと思う。突然肩を掴まれて、後ろに衝撃を感じたのをおぼろげに覚えている。
少しずつ、着実に、背筋に冷たいものが這うような心地がした。そういえば、両手の自由が利かない。足もだ。どうやら両手両足首を縛られているようだった。そのせいか、身体を起こそうとしてもうまくいかない。不自由な身で、もがくように頭を動かして、周囲の様子を探った。
ランタンの明かりでは周りの様子がよく見えない。積み上げられたコンテナ。高そうな天井。どうやら倉庫のような場所みたい。人影はなかった。
いったい、どうしてこんなことに。
誘拐。変質者。犯罪に巻き込まれた。それとも、誰かの恨み?いったい誰の?まさか
ざわざわと身体の内側が震え、鳥肌が立つのを感じた。恐怖で目の前が真っ暗になる。そう
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
少し離れたところに私が持っていたバッグが無造作に投げ捨てられているのを見つけた。何か役に立つものが入っているかもしれないけれど、手を伸ばすことすらままならない。私は唇を噛み締めた。
犯人がどこかにいる。けれども、姿を見せない。ここにはいないのか。そういうことだったら、今が逃げ出せる唯一のチャンスかもしれない。改めて腕や足に力を入れてみたけれど、ロープががっしりと結ばれていて、解けそうな気配がない。芋虫のようにじたばたと這って、少しずつ動いていくことしかできなかった。こんな調子じゃどれくらい時間がかかるのか
「おとなしくしろ」
そのとき、後方から声が聞こえて、びくりと動きを止めた。男のものだった。なんとか頭を振り向かせようとしているところに、こめかみを押さえつけられる。ぎしぎしと鈍い痛みと圧力がかかった。視界が陰り、「見苦しいな」という嫌らしい笑い声が上から降ってくる。足で踏みつけられている
こいつが犯人?どうして?なんのために?なぜ私なの?訊きたいことは山ほどあるのに、パニックになりかけて声が出てこない。
やがて、頭に圧し掛かっていた体重がふっとなくなった、かと思うと、胸ぐらを掴まれた。男の方に顔を引き寄せられる。男は、たぶん四十代前後で、アジア系の顔立ちだった。頬が痩せこけていて、目元が落ちくぼんでいる。肩までかかった髪はぼさぼさ。そうした風貌とは反対に、目の奥だけは尋常ではない光がぎらぎらと燃えたぎっている。
「しかし、次元のやつもつまらん女を選んだものだな」
しげしげと私を嘗め回すように眺めた後、男が口元に下品な笑みを浮かべながら言った。
次元。男が口にした名前に、目を細める。男は私を突き放すように解放し、懐から煙草を取り出した。
「あいつを殺したら、お前も後を追わせてやる」
ライターで火をつけながら、うっとりとした口調で言う男。
殺す。次元を。こいつは、次元を狙っている。それならば、なぜ私を?
「どうして、……」
喉の奥が張りついてうまく声が出せない。男は煙草の煙を私に向けてゆっくりと吐き出した。ダイレクトに大量の煙を吸い込まされた私は、げほげほと咳き込む。
「恋人どうし仲良く逝かせてやろうってんだ。優しいだろォ、俺は」
「恋、人…?」
咳と共に問いかけると、男はにやりと笑った。
「まさか女がいるとは思わなかったが、まぁいい。やっと掴んだヤツの弱点だ」
恋人。女。少しずつ、話が見えてきた。この男は次元に恨みを持っていて、復讐を考えている。私を次元の恋人と勘違いをして、人質に取った。そういうこと?
「あ、の……誰かと勘違いしてるんじゃ」
「あァ?」
恐る恐る切り出すと、男はぎろりと睨みつけてくる。その視線に怯みかけたけれど、なんとか誤解だとわかってもらわなければと思って、精いっぱい答えた。
「次元と私は、恋人とか、そんな関係じゃありません」
「ハッ。見え透いた嘘はやめな。助かりたいんだろ?」
「いや、嘘じゃなくって……」
「るせぇな!俺は見たんだ、お前と次元がバーに入っていくところをな。たいそう楽しそうに会話してたよなぁ?」
たしかに楽しい時間ではあったけれど、それだけで恋人同士と誤認されたんじゃ敵わない。それでも、否定したところでこの男は聞く耳を持たない気がした。完全に思い込んでいる。それに、違うと繰り返したところで、男の機嫌を損ねかねない。それでもなるべく男の神経に障らないように、そっと、丁寧に述べた。
「あの、でも、本当に違うんです……だから、私を人質に次元を呼び出そうとしているなら、次元は来ないと思います……」
「あ?」
何をどう話して聞かせても無駄なようで、男は不快感を露わにして私に冷酷な視線を投げつけてくる。
「お前、どうあっても助かりたいらしいな?」
そうだけれど、それ以前に男の勝手な勘違いでこんな目に遭っているのだから、堪ったものじゃない。それに、ここで何とか逃げ出さないと
こいつは次元を呼び出したのだろうか。私は次元にとって何者でもないから、次元が来てくれるとは思えない。でも、見捨てるような人でもない気がする。もし仮に次元が来てくれるとしたら、私が人質になっているから、次元はこいつに手を出せない。いずれにしても、私の命は危うくて、次元にも身の危険が及ぶ。
なんとか、どうにかして、この状況を抜け出せないだろうか。
同じだ。あのときと。イタリアでベルトリーニに捕らえられたとき。あのときに何もできなかった無力な自分が情けなくって、護身術を学んだ。でもそれは結局、何の役にも立ちそうにない。護身術や空手は、所詮庶民の“習い事”。いざというときのために護身術を学んでいる、という自己満足でしかなかった。現実は、もっと無慈悲。“習い事”の世界とはまるで違う。こうして手足を縛られていたら、何もできない。今度は縄抜けのセミナーでも受けなきゃ、……。
どうしよう。どうしよう、どうしよう。
その言葉だけが虚しく頭の中を埋め尽くす。
男は無言でいる私をじろじろと眺めていたけれど、一本目の煙草が吸い終わると、それを捨てながら言った。
「んじゃ、次元が来たら、お前があいつを殺せ。そうしたらお前は助けてやる」
そんなことできるわけがない。咄嗟にそう答えようとして、口を開けたまま固まった。ううん、でももしかしたら、こいつを油断させることはできるかも
大きく間を開けて、私はゆっくりと訊ねた。
「ほ、本当……?」
「ああ」
男はにやりと笑って、懐から銃を取り出した。それを座り込む私の膝の上に置く。
「これでやつを撃て」
やった。光が目の前に差してきた気がした。これでこの男は丸腰になった
ああ、そうよね……ひとつだけ所持している銃を、私に渡したりはしないか……そんな甘い話はないか……。
銃をチェックしていた男は、それを元のベルトに戻し、二本目の煙草に火をつけた。それを口元に持っていくのかと思いきや
「いいか、おかしなマネをしたら、即、お前を殺す」
男は躊躇いもなく、私の鎖骨に煙草を押しつけてきた。
「っつ…!」
焼けつくような痛みが走る。身体を反らせ、顔を歪める私を見ながら、男は笑いながらその煙草をくわえる。
躊躇なんて一切ない。普通じゃない、この男。容赦や哀れみなんていう言葉は、こいつには存在しない。しゃべり方も独特で、人を馬鹿にしたような、間延びした感じ。感情がころころ変わるような危うさを感じた。もしかしたら、ドラッグか何かをやっているのかも。火を押しつけられた部分がひりひりと痛んだけれど、それ以上に、底なしの恐怖が私を支配していた。
「もっといい女だったらなァ、お前を抱いてやったところだが、その気にならないんでな」
クツクツと可笑しそうに笑う。腹立たしさと恐ろしさと無力感で、私は絶望的な気持ちになった。
「いや、でも、早く次元のやつがこねぇんなら、もうちょっとお前で遊んでやるかな」
男は薄く笑って私を見る。
ぞくっと背中に悪寒が走り抜けた。こいつなら
「次元なら……バーで飲んでると思いますけど」
なんとか男の気分を変えようと、静かに話しかけた。恐怖心を見せたら、そこにどんどんつけ込まれる気がした。
「あぁ。さっきバーテンダーに伝言を頼んだよ。この場所で、恋人が待ってます、ってな」
思いのほか上機嫌で答えてくれたので、引き続き訊ねた。
「どうして……次元を狙うんですか?」
「どうして?」
男はふっと笑いを吹き消す。まずいことを訊いたかなと思ったけれど、男は答えた。
「殺されたのよ。俺の弟がな。その復讐だ」
殺された。次元が、こいつの弟を殺した?
普段の次元からは、彼が人を殺すようには見えない。でも
「ガキの頃から二人だけで身を寄せ合って生きてきたんだ。俺にとっての唯一の家族さ。だからな、ヤツには絶望を味わわせてやるんだ」
ぞっとするほど冷たい目を浮かべる男。私は息が止まった。この世に存在するもので一番、次元を恨んでいるような、そんな目つき。
男はその視線をそのまま私に向けてくる。そして、手を伸ばしてくる
やがて、暗がりの中から姿を現したのは
(16.6.3)