三章:The color of dawn...25
ルパンたちの拠点は、築数年はだいぶ古そうだけれど、いたって普通のアパート。まさかこんなところにルパン一味が潜んでいるなんて、誰も思わないだろう。階数は多いけれどエレベーターはなく、ぎしぎしと軋む内階段を上っていく。ルパンたちの部屋は四階だった。
中に入るとすぐリビングがあって、そこにはカウンターキッチンが備えつけられていた。バーカウンターのような細長いテーブルに、ハイチェアが三つ。窓際には、ソファとローテーブルもある。小ぢんまりとした部屋だけれど、三人
ルパンは私をソファに座るよう促し、コーヒーを淹れてくれた。奥にはもう一つ部屋があるようで、ルパンはそこから黒っぽい石板を持ってきた。大きさは、ちょうどルパンの手のひらと同じくらい。あちこち欠けていて、四隅が削れて丸くなっている。とはいえ、状態はかなり良いと思う。
ルパンからその石板を受け取って、丁寧に眺めた。しっとりと艶のある石。中央に男性の姿が浮き彫りにされていて、その周囲には模様のようにずらりと文字が並んでいる。右上から右下にかけて、斜めに大きなひびが入ってしまっているけれど、彫られた文字はきちんと判別できる。見覚えのある文字だった。ブライトン教授からもらった資料の、あの文字と同じもの。毎日穴が開くほどあの文字を眺めていたから、特徴が同じだとすぐにわかった。この石板の中央の男性像は、アレキサンダー大王かもしれない。資料の壺に彫られている男性と似ている。
これはものすごい発見なんじゃないだろうか。もしかすると、アレキサンダーの謎が解き明かされるかもしれない。本当は震えるほど喜びたいのに、今はそれ以上に黒々しいものが興奮を押さえつけていた。
「どうだ?」
「
ルパンは私の隣に腰かけて、煙草を吸いはじめる。ほお、と目を細めた。
「いやぁ、良かったぜ、売れ残ってて。装飾品だったらまだしも、単なる石板なんで、買い手がつかなかったらしい。古美術商のじいさんも捨てちまおうか迷ってたんだと」
「そっか……良かった」
捨てられなくて良かったのと同時に、その古美術商のおじさんが歴史に通じていなくて良かった、とも思った。もしそのおじさんが歴史に詳しかったら、この石板は今ごろ誰か他の人の手で解析されていただろう。それはそれで喜ばしいことだけれど、私も調査に加わりたかった。できることなら、私の手でアレキサンダーのことを調べたかった。だから、この石板が日の目を見なくて良かった、なんて考えてしまう。
「文字を解読する手がかりになると思う。後で写真を撮ってもいい?」
いや、とルパンは煙草の煙を吐く。
「やるよ」
「えっ?」
「ちゃんにあげる。俺が持ってたところで一文の得にもならねぇもん」
「いいの?」
「ああ。その代わり、財宝の手がかりがわかったらちゃあんと教えろよ。独り占めはなし」
ルパンは片目をつむる。ようやくそこで、じんわりと嬉しさが滲んできた。「ありがとう」と言うと、ルパンはにこりと微笑む。
そっか。アレキサンダーの歴史を追っているかぎり、ルパンとの縁は切れずに済むかもしれない。他の人が手がかりをつかまない限り、ルパンは私を頼りにしてくれる。今回の次元の一件を話しても、大丈夫かもしれない。
私は、コーヒーを片手に石板をじっくり眺めた。正確には、眺めるふりをした。少し濃いブラックコーヒーは、空っぽの胃にじんわりと染みこんでいく。
いろいろなことが一気に起こりすぎて、まだ実感が湧いていない。疲れで思考が回っていない。数時間前までは命の危機にさらされていたというのに、今はのんびりコーヒーを飲んでいられる。目の前には、アレキサンダーの手掛かりになるかもしれない石板。ずっと恋い焦がれていたもの、……。
でも、何をどう切り出せばいいだろう。どう整理して話せば、ルパンに伝わるだろう。
今回の件は巻き込まれたわけではなく、あの男が“たまたま”“勘違い”をしただけ。今後はあんなことは起こらない。そうルパンにわかってもらうためには、どう話したらいいだろう。
話の道筋を組み立てようとするのだけれど、崩れてしまう。砂浜で砂山を作っていくそばから、波にさらわれて崩れていくみたい。
どれくらいぼんやりしていたのか。ルパンがふうと煙を吐きながら、口を開いた。
「その傷、どうした?」
傷?何のことを言われているのかわからなかった。私は、ゆっくりと顔を上げて、ルパンを見た。ルパンは目を細めて、私の首筋を見ている。私は目線を落として
しまった。その言葉が頭の中をびっしりと埋め尽くす。うっかりしてた。ストールか何か巻いておくんだった。
思考回路が停止してしまって、嫌な汗が出てくる。どうしよう、どうしよう。どう説明しよう。
「これは、……」
咄嗟に口だけ開いてみたけれど、その後が続けられなくて固まってしまった。一瞬、うっかり滑ってとか、酔っ払いにからまれたとか、馬鹿馬鹿しい言い訳が頭の中を通過していった。
「まさか次元に噛みつかれた
ルパンが冗談めかしてにやりと笑う。
「朝帰りたぁ、やるねぇ」
平然といつもの軽い調子のルパン。次元とのことを言っているのだとわかって、「違うのに」という焦りが浮かんだ。でもすぐに、胸が苦しくなる。そんな言葉、ルパンの口から聞きたくなかった。
「ちがう」
たぶん、泣きそうな顔になってしまっていたと思う。ルパンは煙草を灰皿に押しつけて、心なしか罰が悪そうな顔をした。
「冗談だって」
冗談でもそんな台詞を笑いながら言うなんて、私に対して関心がないっていうことじゃない。次元と私がどうにかなったら面白そう、とだけしか考えてないみたい。
「
ルパンの声のトーンが一段階下がる。胸の中の切なさが、ふっと奥に引っ込んだ。
ルパンは、たぶん、見抜いている。何もかもお見通し。そんな目をしていた。次元と私にあったであろうこと。決して朝帰りなのではなく、私が何か危険に巻き込まれたのであろうこと。ルパンはそれを悟っている。でも、悟っているくせに、あんな冗談を言ってくるなんて、……。
ともかく、私は正直にすべてを話すことにした。どう語るか考える余裕がなく、あったことを時系列順に、そのまま並べて話した。
偶然次元と出会ってお酒を飲んだこと。その帰りに男に襲われたこと。そいつは次元に恨みを持つ男で、次元が助けに来てくれたこと。火事になってその隙に逃げたということ。なるべく大ごとに聞こえないように、淡々と説明した。
ルパンは途中、相づちは打ったけれど、口は挟まなかった。ただ煙草を吸いながら、黙って私の話を聞いていた。
語り終わってから、沈黙が続いた。ルパンは煙草の煙を、私はテーブルの上の古びた石板にぼんやり視線を合わせていた。この無言の空気、いやだ。ルパン、何か言って。なんでもいいから。いつもの冗談でいいから。
ルパンは煙草をゆっくりと味わいながら、煙をふう、と時間をかけて吐いた。もっとも、私には遅く感じられただけで、ルパンはいつも通りの動作をしただけなのかもしれない。
「そのマイヤーって男は死んだんだな?」
「うん……たぶん……あの火事からは逃げ出せなかったと思う……」
「そうか。そりゃ災難だったな」
私は少し、ほっとした。「災難だった」で片づけてくれればいいのだけど。
「それにしてもさっすが次元ちゃん。タイミングは外さねぇな」
ルパンは声の調子を普段通りに戻して言った。煙草を灰皿に押しつけて、続ける。
「無事で何より、と言いたいところだが、気をつけろよ。次元の女になるってこたぁ、そういう危険が伴う、ってことだ」
ルパンの雰囲気が軽くて安堵しかけていた私は、ルパンの言葉の意味をすぐに把握できなかった。“次元の女”、って。
「いや、次元とは何でもなくって……あの男の勘違いだってば」
「“何でもない”男女を勘違いするかぁ?それだけ親密に見えた、ってことでしょうに。それに、女嫌いの次元がとは酒を飲むってことは、あいつもまんざらじゃないってことだ」
にひひ、とルパンは笑う。前にマッシュと私のことをからかった、あのときのように。
「それはない」
私は強く首を横に振った。次元と私がどうこうなることは、ない。次元は私の気持ちを知ってるもの、……。
「いいのいいの」
ルパンの調子は軽い。
「移り気とわがままは女の特権だもん。色んな男と付き合っておいたほうがいいぜ」
ルパンにとっての私は、修復とか、アレキサンダーの財宝の手がかりとか、そういうちょっとした関わりがある程度。ちらっと気が向いたら会ってもいいかな、というくらいなんだろうな……。
ルパンが会いに来てくれるから、優しくしてくれるから
今さら、なによ。とっくにわかっていたことじゃない。
ルパンが紛らわしいそぶりを見せるから、勘違いしちゃうんじゃない。
憤りと悲しみで、最悪の気分だった。目の前の石板を叩き割りたい衝動に駆られる。ルパンに対しても、自分に対しても、腹が立った。何とも思ってないなら、紛らわしい行動を取らないでよ。それを真に受けた私も、馬鹿みたい。
「
なんとか声を出して、私は立ち上がった。石板をぎゅっと握りしめる。
唐突に話題を変えた私に、ルパンは一瞬戸惑ったような間を開けたけれど、「どうぞどうぞ」とすぐに答えた。
このままここを立ち去ったら。ルパンと会うのは最後になるのだろうか。それとも、アレキサンダーの件でまた会えるのだろうか。
胸が激しく痛んだ。まるでズタズタに切り裂かれてしまったかのよう。息が苦しい。この痛みにどう対処すればいいのかわからない。
ルパンは私のことを見てくれてはいない。私がルパンを想うようには、決して返してはくれない。ルパンにとっての一番は、盗みなのか、不二子さんなのか、女性全般なのかは、わからない。はっきりしているのは、私はルパンにとって、“ちょっと付き合いのある女”になるのが限度ということ。どんなに私が想ったところで、ルパンはその程度にしか私を見ていない。これから先も、きっと。
あくまで気軽な関係でいい。そう考えられる余裕が、今の私にはまだ、ない。いつかそう思える日が来るのかな。その前にルパンとの関係が終わってしまう気がする。ううん、そもそも、ルパンとはこれで最後になるかもしれない、……。
わんわんと頭の中で響く不協和音。
何か気の利いた台詞でも言えればいいのだろうけど、涙を見せないようにするのが精いっぱいだった。
ルパンの中に、私の居場所はない。
その胸を裂く事実だけは唯一、はっきりしていた。
眠気とか疲れとか、痛みとか切なさとか苦しさとか、色んなもののせいで、私の思考は完全に麻痺してしまっていた。でも、その中でもすうっと一筋だけ、清らかで静かな水の流れのようなものがあるのに気がついた。
深くは考えずに、その流れに従うことにした。もう、どうにでもなれ。
「ルパン」
部屋の入口に立った私は、振り返らずに言った。ルパンは私を見送ろうと、後ろにいる。
「私が好きなのは
何のためらいもなく口にしてしまってから、急に怖くなった。ルパンの反応を待たずに部屋を出た。階段を駆け下りて、アパートの外に出る。
ルパンは追っては来なかった。この期に及んでそれを期待してしまう自分に心底嫌気がさす。
急に、涙が流れてきた。今まで堪えてきた痛み。悲しみ。歯がゆさ。そういうものが涙になって、とめどなく流れてくる。
道ゆく人に見られないように、顔をうつむかせながら、重い身体を引きずるようにして歩いた。
ルパン、どう思ってだろう。重い女だと思われたかな。もうこれで、本当に、最後かな。
もうどうだっていい。むしろ、最後になったほうがいいんだ。
身体も心も、鉛のように思い。とにかく早く帰って、眠りにつきたかった。全部、忘れたかった。
(16.8.7)
(16.12.07 改訂)