四章:Blues in March...29
以前足を運んだ春時とは異なって、三月のカプリは人影が少なく、海は荒れていた。空はきれいな青なのだけど、灰色の雲がもくもくと立ち込めている。太陽が雲に押し隠され、陽が陰ったり晴れたりしている。まるで今の私の心情を表しているみたい。海風が容赦なく吹きつけて、ローマよりもいっそう寒さを感じた。
船から陸に降り立ったとき、本当に来てしまったんだ、という後悔に襲われた。それを押し込めてケーブルカーに乗り、カプリ地区を目指す。
でも、冬の海は、濃く深く、どこか恐ろしさも感じる。ずっと眺めると吸い込まれそうだと思った。同じカプリの海なのに、まったく違う側面がある。まるで
ケーブルカーを降りて、街中を抜けて、かすかな記憶を頼りに外れの森に入ってゆく。獣道に紛れた、わずかな踏み跡。それをたどって歩いてゆくと、木々が開けた場所に出た。遠くには、二階建ての白い家が見えた。
無事にたどり着いたことにほっとしたのもつかの間、急に怖くなった。よくよく考えたら、私はその人の家を知らない。ここに来れば会えるような気がしていたけれど、ここはルパン一世が所有していた別荘であって、エミリオさんの家ではない。
エミリオさん
考えたら、このコテージには鍵がかかっている。エミリオさんの家がどこにあるかも知らないし、エミリオさんがタイミングよくやって来るのを待つしかしようがない。もっとよく検討するのだった。イタリアに足を踏み入れたことで、始終どこかぼんやりしていたかもしれない
その場に突っ立って悶々としているうち、頭にぽつり、としずくが落ちてきた。空を見上げると、頬にもぽつり。青空は灰色の雲にすっかり隠されてしまっている。風の温度が下がった気がした。
降ってくる。どうしよう。街に引き返すにも、急いでも10分以上はかかる。コテージの玄関先で雨宿りだけでもしようか。ここで立って考えているだけでは、雨に濡れるばかりだ。少し逡巡して、私はコテージに行くことにした。雨がどんどん強まってゆく。
「大丈夫ですか!?」
咄嗟に英語で言ってしまってから、慌ててイタリア語で言い直した。エミリオさんはちらと私を見て何かを言おうと口を開くけれど、うめき声しか発せられなかった。ぎゅっと胸を掴むようにして押さえている。
どうしよう。どうしよう、どうしよう。
救急車。いや、救急車なんてカプリ島にあったっけ?誰か、人を。いや、呼びに行くだけでも時間がかかってしまう。エミリオさんを一人にはしておけない。エミリオさんをおぶって街までいく?いや、でも、動かさないほうがいいかもしれない、……。ぎり、と下唇を噛む。
ともかく、誰か人を呼ばないと。私は携帯電話を取り出して、島の緊急連絡先を調べようとした。けれど、エミリオさんが私の腕をがしりと掴む。
「く、……すり、……」
首を横に振って、かすれた声でつぶやくエミリオさん。薬。エミリオさんが持っているのだろうか。失礼をして、エミリオさんの上着のポケットを探る。コートの内ポケットに、フィルムに包まれた粉末があった。
「これですか?」
エミリオさんに見せると、わずかに頭を下げる。私は持っていたミネラルウォーターの蓋を開け、フィルムをやぶって、エミリオさんの口に注いだ。エミリオさんはすがるように飲み込む。薬を飲んだことで、エミリオさんの気がわずかに緩んだように感じられた。でも、荒い呼吸は収まらない。ゼイゼイ、と喉に引っかかるような呼吸が混じっていた。
雨が強くなってくる。どうしたらいいかわからず、私はただエミリオさんの肩を抱くことしかできなかった。
「誰か呼んできますか?}
そっと訊ねると、エミリオさんはかすかに首を横に振った。呼んでこなくていい、ということなのだろうか。おどおどと見守っていると、エミリオさんの苦痛に満ちた表情が少しずつ緩んでいった。
「すま、……ない……」
エミリオさんは途切れ途切れに声を発する。先ほどよりは楽になったようだけれど、今度は目が虚ろになってきた。瞼が重いようで、今にも眠りに落ちてしまいそうに、かくり、と舟をこぐ。薬の副作用なのかもしれない。エミリオさんはぐっと私にもたれかかってくる。ここで眠らせてはいけないと、「エミリオさん」と何度も呼びかけるけれど、エミリオさんの意識はますますまどろんでいくばかりだった。
エミリオさんが私に寄りかかってくるときに、かしゃりと音が聞こえた。エミリオさんのコートのポケット。もしかして、と考えて、ポケットの中を探らせてもらう。やっぱり、鍵だった。
「ここの鍵ですか?」
そう訊くと、エミリオさんは一度だけ大きく頷いた。眠気で頭が前に揺れただけかもしれない。でも、エミリオさんがこのコテージに来る途中だったのなら、ここの鍵なのだと思う。私はぐっと力を込めて、エミリオさんを立たせようとする。けれど、エミリオさんは私に寄りかかってくるだけで、とてもじゃないけれど歩けそうになかった。こうなったら、おぶっていくしかない。私は気合いを入れて屈み、エミリオさんを背に抱えた。ずっしりとした重さを感じ、前によろけそうになって手をついた。ぬかるんだ地面の泥が手にべったりとつく。でも、そんなことを気にしている余裕はない。幸いにも、エミリオさんが痩せてしまったせいか、踏ん張れば歩けないわけではなかった。
一歩一歩、踏みしめるようにコテージに歩いていく。雨はどんどん強まっていった。早くしなければという思い一心で、エミリオさんを背に抱えて歩いた。
なんとかコテージまでたどり着き、先ほどエミリオさんのポケットにあった鍵を差し込んだ。鍵穴にきちんと収まり、かちゃりと扉が開かれてほっとした。二階へ連れてゆくのは無理だったので、一階のソファにエミリオさんを横たえた。エミリオさんは泥のように眠っていた。私は、ふう、と大きく息を吐く。先ほどまで芯から冷えていた身体が、今は汗でぐっしょり濡れているのを感じた。
疲れた
私はコテージの明かりと暖房をつけた。電気は通っているし、ガスも水道も生きていた。旅行鞄からタオルを取り出して、雨に濡れたエミリオさんと、汗と雨粒とでぐっしょりの自分の身体を拭いた。二階から毛布を持ってきて、エミリオさんにかける。さっきまで苦痛に満ちていた顔は、今は穏やかな寝顔に変わっていた。
コテージの中を軽く点検すると、お酒やコーヒー、お茶、ミネラルウォーター、缶詰類、インスタント食品など日持ちする食料が少しだけ残っていた。部屋の中は少し埃っぽいけれど、前回来たときと変わりはないように思う。
私は、エミリオさんの向かいのソファに腰掛けた。
思い切って会いに来て良かった、と思う。一時は後悔したけれど、この場に私が居合わせなかったら、エミリオさんは
汗ばんだ服が冷えて、急に寒気を感じた。温かい飲みものを飲もうと、カウンターキッチンへ行く。コーヒーを淹れた。ふうふうと冷ましながら飲んでいると、エミリオさんがうう、と唸り声を上げてうっすらと目を開けた。私はコーヒーのカップをテーブルに置いて、エミリオさんの元に 駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
エミリオさんは力なく微笑む。
「ああ……すまなかったね……前に、ピアノを弾いてくれたお嬢さんだね……?」
覚えていてくれたんだ。ここに来るもう一つの懸念として、たった一度しか会っていない私を、エミリオさんが覚えていてくれるだろうか、ということもあった。でも、その心配には及ばなかった。
「はい。です」
「よく覚えているよ……君の“悲愴”……ひとりかい……?」
「
私がひと息間をおいて答えると、エミリオさんの目の奥に陰りが差したように見えた。でも、すぐに笑って、「よく来てくれたね」と言った。
「せっかく来てくれたというのに……すまないね、こんなところを……」
いいえ、と首を横に振る。
よく来てくれたと言ってくれたし、そう思ってくれているのだろうけれど
「何か飲みますか?といっても、コーヒーかお茶しかないですけど…」
「いや、大丈夫だ」
エミリオさんは上半身を起こそうと力を入れる。辛そうな様子だったので、私も背中を支えるのを手伝った。
「ありがと
エミリオさんはそう言いかけて、ゴホッとせき込む。とっさに口元に充てた手には、びっしりと血がこびりついていた。息が、止まった。エミリオさん
当人は何事もなかったようにポケットのハンカチで手元と口を拭いた。私の顔を見て、ばつが悪そうに眉根を寄せる。
「エミリオさん、……」
大丈夫なんですかと聞こうとして、続けられなかった。答えを聞くのが怖かった。でも、エミリオさんが、言ってしまった。
「最期に会えて良かったよ。私はもう長くないからね」
(16.10.15)