四章:Blues in March...30
エミリオさんの言葉が、頭に入ってこない。久しぶりにイタリア語を使うせい、だと思いたいけれど、イタリア語には思いのほかスムーズに馴染めていた。けれど、今は、エミリオさんの言葉を理解したくなかった。
呆然と口を開いたままの私に、エミリオさんはゆっくりと吐き出した。
「肺が悪いんだ。医者には、今生きているのが奇跡だと言われたよ」
聞きたくない。耳を塞ぎたかった。でも、エミリオさんから明かされた事実は、嫌でも私の中に押し入ってくる。肺が悪い。生きているのが奇跡。それらの言葉が、頭の中でわんわんと鳴り響いた。肺のあたりがぐっと苦しくなり、息が詰まる。私は思わず胸を押さえた。
そんな。そんな
冗談にしか思えない。目の前にいるエミリオさんは、痩せてしまってはいるけれど、目の奥に光はあるし、口ぶりもしっかりしている。「生きているのが奇跡」というほど具合の悪い人には見えない。
エミリオさんが、いなくなってしまう。目の前が暗くなっていく。
「正直なところ、さっきの発作でもうお迎えが来たと思ったよ」
エミリオさんは苦笑する。
「ここのところ寒い日が続いていてね。身体が堪えていた。そろそろ限界かもしれんと思って、ここの整理をしようとやって来たんだが……日が陰って、海風が冷たくなって……嫌な悪寒が走ったと思ったとたん、発作がきた。薬を飲む余裕もなかった。君が来てくれなかったら、危なかった」
「それは……良かったです」
ようやく口から出た声は、自分のものではないように、遠くで鳴り響いていた。
私がここに来なかったら、エミリオさんは死んでいたかもしれない。ゾッとした。背筋に寒気が走る。一時は来たことを後悔したけれど、そんな負い目なんて些細なことのように思えた。来て良かった。
私はどうしてここに来たんだっけと思い返して、はっとした。
「ルパンは……病気のことを、知っているんですか?」
エミリオさんは、静かに首を横に振る。
「実を言うとね、二年前に君たちと会ったころには、肺の病はわかっていたんだ。医者には、余命は数年以内
エミリオさんは静かに笑うけれど、その微笑みが痛々しかった。以前エミリオさんと会ったときは、もっと明るい笑顔だったのに。
「だから、二年前、君たちと会えて良かったんだ。ほうら、ルパンのやつは世界中をフラフラほっつき歩いているから、いつ会えるかなんて到底わからんだろう?会えないまま最期を迎える可能性もあった。だが、ふらっと、君たちを連れてやって来た。あの夜は楽しかったよ。次元に、五エ門、だったか?連中も気持ちのいいやつらだったし、しかも、お嬢さんの“悲愴”まで聴くことができた。本望だよ、私は。そのおかげで寿命が延びたのかもしれんな」
「で、でも……ルパンは……エミリオさんともっと話したいことがあるんじゃないですか?ルパンに知らせたほうが」
「いや、もう充分だよ。へたに感傷に浸るような別れをしたくないしね」
エミリオさんは私を諭すように首を横に振る。
そうは言うけれど。二年前のエミリオさんの様子を思い返した。幸せそうな表情でルパンと語りあうエミリオさん。子どもを見るような優しい目つきでルパンを見守るエミリオさん。本当は、もう一度、ルパンに会いたいんじゃないのかな、……。
でも、私にはどうすることもできない。ルパンと連絡をとるすべがない。ルパンは今、どこにいるのだろう。今までルパンのニュースを意識して避けてしまっていたけれど、こんなことになるならまともに向き合っていれば良かった。
「そんなことよりも、お嬢さんはどうしてここへ?ルパンのやつと何かあったのかい?」
私は、ぽつぽつと事の顛末を語りはじめた。本当は、大学の研究のためにイタリアに来たついで、とだけ話すつもりが、今までのことを語ってしまっていた。二年前のことから、順に。父さんのこと。ベルトリーニのこと。一度ルパンたちと別れるつもりが、それができずにシドニーに渡ったこと。大学で学んでいること。ルパンとは気まずくなってしまったことは伏せた。私自身、まだ整理がつかないことだから。
エミリオさんの負担にならないように、かいつまんで手短に話した。エミリオさんは何度かあいずちを打ちながら、興味深そうに聞いてくれた。
「それで
にやにやと、私をからかうような表情のエミリオさん。私は顔が火照るのを感じた。
「いや、えっと、それは、その、」
ルパンは、私の気持ちを知っている。でも、それに対する明確な返事はない。それどころか。
「ルパンは、私に興味がない……というよりも、女の人全般に興味があるから……私に対しても、その一環だったんだと思います。おもしろいことも好きな人だから、いろいろ首を突っ込みたがるだけで」
エミリオさんは小さく笑う。
「あいつもちっとも変わらないな。そろそろ落ち着いてもいいころだろうに
「そうなんですか?」
ああ、とエミリオさんは思い出したようにくすりと笑う。ルパン一世のことだろうか。
「あいつの女好きは、死ぬまで直らんだろうね。ただ、ここに女性を連れてきたのは、君がはじめてだよ、 さん」
「えっ」
私が、はじめて?意外だった。
「不二子さんは…?」
「不二子?ああ、話には聞いたことがある。最高の女だ、と言っていたな」
じんわり広がりかけていた嬉しさの中に、黒々としたものが広がってゆく。ルパンにとっての“最高”は、やっぱり不二子さんなんだ。
「だが、その不二子という女性も、ここに連れてきたことはないよ」
それは、機会がなかっただけではないだろうか。次元と五エ門でさえも、ここに来るのははじめてだった。不二子さんのことも、いずれエミリオさんに会わせるつもりかもしれない。
私がじっと押し黙っていると、エミリオさんが顔を覗き込んできた。
「どうしたんだい?浮かない顔をしているね。前回会ったときには、そんな
「いえ、そんな、べつに」
「ルパンの話をするときに、表情が硬くなっているからね。それに、君がここに来た理由を、まだ聞いていない」
「ここに来たのは……先ほどもお話ししたように、大学の研究の一環で、イタリアに来たので」
「それだけかい?」
具合の悪いエミリオさんに、逆に心配されてしまっている。情けない。けれど、本当は、エミリオさんと話がしたかったのかもしれない。ルパンとの関係を、聞いてもらいたかったのかもしれない。だから、“近くに来たから”、“そうそう会う機会もないかもしれないから”、という理由をくっつけて、後先考えずにここにやって来てしまったのかも。
「うーん……さっきの話です。ルパンは、私にべつに興味がないようだから、そろそろ違う男の人を探そうかな、なんて思っていて」
深刻さを出さないように、なるべく明るく言った。
「うん、そのほうがいい」
エミリオさんはあっさりと答える。
「あの手の男に惚れるのは苦労が多いだろうからねえ」
どこか具体的な口ぶりだったので、もしかするとルパン一世のことを考えているのかなと思った。
「だがね、お嬢さん。若いうちは
熱を込めて語るエミリオさんを見て、“イタリアは愛の国”とも言われることを思い出した。
「思うに、お嬢さんはもっと傷だらけになってもいいかもしれないね」
「えっ、」
「傷つくことを避けてはいないかい?」
当たって、いた。たしかに、私は、恐れている。ルパンに嫌われてしまうこと。本当はもっとルパンに伝えたいことがあるはずなのに、ルパンの反応が怖くて、踏み込めないでいた。
今までに、こんなふうに人を好きになったことがなかったからこそ、怖かった。傷つくことが。この恋を失ってしまうことが。
「そう、ですね……」
「いやあ、すまんね。老人の戯言だよ」
「いえ」
「だが、私は君に素敵な人生を生きてほしいんだ。君のピアノのファンだから」
エミリオさんは笑みを浮かべるけれど、すぐにどこか苦しそうに、息をふう、と吐いた。
「久々のおしゃべりが楽しくて、浮かれてしまったな。少し眠りたい
「はい、何でも言ってください」
「ありがとう。君のピアノが聴きたいんだ」
ピアノを弾くのは久しぶりのことだったけれど、私は迷わず頷いた。私のピアノが好きと言ってくれたエミリオさん。私が何か役に立てるのなら、何だってしたい。
リビングの端にあるアップライトピアノのもとに向かい、蓋を開けた。少し埃がかぶっているけれど、相変わらず状態はいい。いくつか音を鳴らしてみても、違和感はなかった。
椅子に腰かけ、黒と白の鍵盤にそっと手を載せる。久しぶりの感触。ひんやりとした触りごごちに、木のぬくもりを感じる。ブランクはあるけれど、たぶん、この曲なら弾ける。ベートーヴェンのピアノソナタ第八番、『悲愴』第ニ楽章。ゆっくりと、思いを込めて弾いた。静かで美しい曲調が、さらさらという雨の音に溶けてゆく。エミリオさんが、少しでも元気を取り戻してくれますように。
エミリオさんの役に立ちたい。エミリオさんに喜んでもらいたい。心から、そう願った。知り合ってまだ二度目だけれど、私はエミリオさんのことを好きになっていた。
ルパンにエミリオさんのことを伝えよう。私ははっきりと、そう決意した。
(16.11.5)