四章:Blues in March...32
食料や日用品を購入してコテージに戻ると、エミリオさんはまだ眠っていた。安らかなその姿にほっと胸を撫で下ろす。いつ発作が起こるかわからないだろうから、なるべくエミリオさんについていたほうがいいと思って、早足で帰って来た。
買ってきたものを片付けながら、考える。銭形警部と話せたことで満足感を持ってしまっていたけれど、問題は山積みだった。まず、銭形警部が逃亡するルパンに接触できるかどうかがわからない。それに、警部がルパンと話す機会を持てたとしても、果たして伝言を伝えてくれるかどうか。さらに、ルパンが事実を知ったとしても、ここに来てくれるか、ICPOや警察の目をくぐって無事来られるか、というのも定かではない。それに、うまくすぐに事が運んだとしても、ルパンがここに駆けつけるのは最速でも二日、場所によっては三日、一週間、それくらいかかるかもしれない。それまでエミリオさんがもつかどうか、……。
私自身の問題もある。来るかどうかわからないルパンを、いつまでここで待ち続けるか。数日は滞在しようと思うけれど、いつまでもエミリオさんの傍にいるわけにはいかない。
エミリオさんの面倒を看てくれる人は、どうやらいないようだった。はっきり聞いたわけではないけれど、もしいるのであれば、とっくに話が出ていてもおかしくない。エミリオさんが独り身なのだとしたら、なおさらずっとエミリオさんについていたい。でも、大学の研究を放置しておくのも気がかりだった。ルパンが来てくれたとしても、この問題は変わらない。
けれど、相談には乗ってくれると思う。なにより、ルパンに会ったことで、エミリオさんが元気になるかもしれない。そう。一番望むのは、ルパンがここに来てくれて、エミリオさんが元気を盛り返すことだ。
この前の一件があったから、ルパンと顔を合わせるのは気まずいけれど、エミリオさんが喜んでくれるのなら、この際そんなことはどうでもいい。心から、ルパンにここに来てほしいと思った。できるだけ、早く
ともあれ、もう数日滞在することに決めた私は、携帯電話を取り出して先生とマリアにメールを打つことにした。フランスにいる友人の具合が悪く、数日滞在したい。とてもお世話になった人で、身寄りがなく、力になってあげたいのだ、と書いた。“私”は、イタリアには初めて来たことになっていたので、フランスに滞在していることにした。マリアからはすぐに返事がきた。
『こちらは大丈夫。気にしないで、ゆっくりしてきて。お友達、良くなるといいわね』
オーストラリアは、夜が更けていくところ。遅くまで研究をしているのかもしれない。先生からも、三十分ほど経った後返信があった。
『気にせず滞在しているといい。研究の時間は後からいくらでも取り戻せるが、人との時間は限られているからね』
マリアと先生の優しい気づかいに胸がちくちくと痛んだ。いつか真実を話せるときがくるのだろうか、……。
私がすべきことはこれで終わり。ほっとひと息ついて、食事の準備をすることにした。エミリオさん、どんなものなら食べられるだろう。おかゆ
「やあ……すっかり寝入ってしまったようだ」
急いで歩み寄ると、エミリオさんは焦点が合わない目で力なく微笑む。状況をゆっくり呑み込んでいるようだった。
「具合はいかがですか?」
「ああ……大丈夫だ。お嬢さん……まだいてくれたんだね」
「はい。リゾットを作ってみたんですが、食べますか?」
「そうか、ありがとう。では、少しだけもらおうかな」
お皿に半分ほど盛ったリゾットを、エミリオさんはひと口食べて「うまい」と言ってくれた。けれども、二口、三口ほど食べて、スプーンを置いた。
「すまないね……寝起きであまり食欲がない」
苦々しく笑うエミリオさんに、胸が苦しくなる。
「いえ、気になさらないでください。エミリオさん、これからどうされますか?ご自宅に戻りますか?」
「そうしたいところだがね……家路までは道が悪くてね。今の体力で戻れるかどうか」
「無理に戻らなくても良いと思います。自宅には、どなたか、いらっしゃるんですか?」
少し迷ったけれど、知っておきたいと思って、訊いた。エミリオさんはわずかに首を横に振る。
「いや。妻はだいぶ前に先立っていてね。子どももいなかった」
「そうだったんですね……」
そう、なんだ。それなら、ルパンのことを息子のように思っているんじゃないか、なんて想像してしまう。
「ここで、休んでいってください
「大学で大事な用があるんじゃないのかい?」
エミリオさんは目を丸くする。
「いえ、大丈夫です。今は先生が学会でいないですし、みんな休みに入っています」
また、嘘を吐いてしまった。悪意がないものとはいえ、最近の私は嘘ばかり。あまり心地がいいものじゃないな、と思う。
「しかし、いつまでもというわけには」
「それは……そうですね。お医者さんは?ここに呼びましょうか?」
「いや」
エミリオさんは、険しい表情で言う。
「ここに部外者を呼びたくないんだ」
部外者。それならば、私も部外者になる。ここはルパン一世の家。関わって良いことじゃなかったかもしれない、ととっさに頭をよぎった。エミリオさんの発した“部外者”という言葉が、重々しく感じた。
つい眉を曇らせてしまっていたのか、エミリオさんが気遣うように続けた。
「いやいや、お嬢さんは関係者だよ。ルパンと親しいじゃないか」
「親しいなんて、……」
ルパンと私は、ルパンが気まぐれに会いに来てくれるような関係でしか、ない。ルパンのお祖父さんのことに関わるような深入りをしても良かったのか、勝手にここにやって来てしまって良かったのか、自信がなくなってきた。でも、私がここに来なかったら、エミリオさんは危なかった。
「それにね、医者が来たからといって、何をしてくれるわけでもない。お嬢さんのほうがよほど私のために力を尽くしてくれているよ」
エミリオさんが、私を励ますように言ってくれる。先ほど“部外者”という言葉を言ったときの強い口調を改めるような言い方だった。
「お嬢さんがいてくれるのなら、お言葉に甘えて、しばらくここにいようかな」
「はい、そうしてください」
「だが、大学がはじまったら、遠慮なく帰るんだ。私のせいでお嬢さんの勉学に差し障りが出てきてしまうのは本望ではない」
「はい、……」
エミリオさんはピアノのあるこの部屋にいたいということだったので、ソファをふたつくっつけて、簡易ベッドを作った。二階から敷布団と掛け布団、枕を持って来る。エミリオさんは横になるとすぐにうつらうつらしはじめた。眠りにつくエミリオさんを見ていると、今にでも命の火が燃え尽きてしまうような気がして、怖かった。もう目覚めないのではないかと気が気でなかった。頻繁にエミリオさんの寝息を確認せずにはいられなかった。
途中、エミリオさんは何度か起きて水を飲んだり、リゾットを食べたりした。そのとき少し話をしたけれど、エミリオさんがどんどん弱っていくのを感じた。はじめは自分でスプーンを持って食べていたリゾットも、手が震えて食器を持てないようになってしまった。私が口に運ぶことはあまり好まないようだったし、食欲がなかったようで、無理に食べものを薦めるのはやめた。
エミリオさん自身、充分生きた、と思っているような感じがあった。このコテージにいる安心感からなのか、自分の病状を理解したうえでの諦めなのか、もういつ息絶えてもいいと心得ているような気がした。
エミリオさんに生きていてほしいと思った私は、つい口走ってしまった。
「ルパン
口にしてしまってから、その確率はすごく低いような気がして、話したことを後悔した。それまで静かだったエミリオさんの表情が、“ルパン”の名を聞いたとたん、目の奥に光が宿ったように見えた。
「そんな、まさか」
私は、エミリオさんの様子に後が引けなくなり、事の顛末を話した。ルパンがモスクワにいたこと。ルパンを追い続けている銭形警部という人と話すことができたということ。
エミリオさんは、「そうか」と息を吐いた。気落ちしているように見えた。
「その警部がルパンに伝えたかはわからないし、ルパンが来るかどうかはもっとわからんね。忙しいやつだし、……あいつなら、二年前が最期、と薄々感じていたかもしれん。へんに察しがいいところがあるから」
エミリオさんの言う通り、だ。銭形警部が伝えてくれたとしても、ルパンが来るかどうかはわからない。しんみりとした別れなどするよりは、二年前に笑顔で別れた記憶のままでいたほうがいい、と考えるかもしれない。
言うべきじゃなかった。期待させてしまった、……。
ルパンに伝えたことは、余計なことだったかな。でも、いま、“ルパン”の名前を聞いたときのエミリオさんの反応。そして、今の落胆した表情。やっぱり会いたのだと思う。でも、私にはこれ以上、何もできない
銭形警部を話をして、四日が経った。そろそろシドニーに戻ることを考えなくてはならない。アレクサンダーの研究の真っ最中だし、先生も大学に戻っているころだと思う。でも、日に日に衰弱していくエミリオさんをひとりでおいてはいけない。日ごとに眠っている時間が増え、口数が減っていったエミリオさん。そばについていたいと思う反面、弱っていくエミリオさんを見ているのは辛かった。
お祖父ちゃんを、思い出した。
父さんが殺された後、真実を探るために、祖父と私は奔走した。でも、探しても探しても闇の奥に隠された真相は、わからなかった。闇の深さを知るだけだった。そして、無理をしていた祖父は、倒れた。肝臓と胸を悪くして、日ごとに元気を失っていった。明るく笑っていた祖父が、しだいに意気消沈していく姿を見るのは、耐えがたかった。今のエミリオさんを見ているのは、胸がちぎれるような思いだった。
どうしよう。
答えを決められないまま、時間だけが過ぎてゆく。
今日は、風が強い夜だった。もうすぐ冬が明けて、春がやってくる。冬の最後の悪あがきのような、冷たく重い風が吹いていた。エミリオさんのリクエストで、ピアノを弾いた。あえて明るい曲をと思って、“Fly me to the moon”を弾いた。ジャズアレンジされた、弾むようなおしゃれな曲。お祖父ちゃんが好きだった曲。
曲が終わって振り返ると、エミリオさんは眠っていた。もう一曲、何か弾こうかとピアノに視線を戻したとき
息が、止まった。人がいたことに驚いて
(16.11.28)