五章:Far cry...42
クイーン・ヴィクトリア。その名前に、目の前の光景に、視界がぐらりと揺れた。マッシュの車に片手をついていなかったら、屈み込んでいたかもしれない。私が何も言えないでいるのを、驚きからだと考えたらしいマッシュは、どこか鼻高々のようすで言った。
「僕も入るのははじめてなんだ。なかなか予約が取れなくてさ。正直に打ち明けると、パパのコネを多少使ったけど、ね」
「で、でも……私……こんなところにふさわしい格好じゃない」
「大丈夫、着替えならすぐそこのブティックがある」
マッシュが指したのは
「予約は7時からだから、充分間に合う。好きなドレスを選んで」
マッシュは腕時計を見ながら私に近づいてくる。
「でも、……」
「そんなに構えなくても大丈夫だよ」
私は、でも、とか、だけど、という言葉しか、浮かんでこなかった。
ヴィクトリア号でのディナー・クルーズ。どくん、と心臓が大きな音を立てる。背筋が冷たくなった。ざわざわと頭の中が騒がしくなる。
必死に浮かんでくるものを断ち切ろうとするけれど、私の抵抗に反して、想い出の残骸が脳裏を通り過ぎていく。
ディナー・クルーズ。ネイビーパープルのワンピース。豪華な食事。海風。花火。まぶしい、横顔。
甘く苦しい幻想を振り払うために、私は強引に頭を横に振った。
「マッシュ、私、……」
気が動転する私の顔を、マッシュはのぞきこんでくる。
「、どうしたの?」
ちがう。私は、じゃない。
不意にそう叫んでしまいそうになった自分に驚く。じんじんと痛む胸をぎゅうと掴んだ。
マッシュと、ヴィクトリア号でのディナー。切ないだけになった想い出を上書きできる、いい機会だ。
なのに。それなのに、私の身体は、張りついて動かない。
「ご……めん……」
私は震える声を絞り出した。
「私
マッシュが泣き出しそうな悲しい顔を見せて、私は罪悪感に駆られた。でもそれは一瞬で、マッシュがすぐに明るい調子に戻る。
「そっかぁ、ごめんよ。僕のリサーチ不足だ。しまったな。君に先に聞いておくべきだった」
マッシュは、やってしまった、というように自分の額を叩く。船酔いだなんて、もしかするとマッシュは私の嘘を見破っているかもしれない。マッシュの優しさに胸が苦しくなる。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分が情けなくてしかたがない。
「ごめん……」
「いいんだ、君が悪いわけじゃない。気にしないで」
「せっかく予約してくれたのに」
「いいんだって。キャンセルすればいい。乗り物酔い、辛いよね。僕もジェットコースターの類はからっきしだめだし、わかるよ」
マッシュがわざと軽い調子で言ってくれるのが、かえって辛かった。
「そうだ。代わりに、シドニータワーの屋上レストランはどうかな。あそこの眺めは最高でさ」
シドニータワー。シドニーの街並みを見てはしゃぐ姿が思い出されて、息が詰まる。
私は目を伏せた。
シドニーは、だめだ。いろんなところに想い出が散らばりすぎている。
私のようすを見て、マッシュは罰が悪そうな声音で訊いた。
「あ……もしかして、高所恐怖症とか?」
「……ごめん」
そうとしか、言えなかった。どこまでも愚かな自分と、どこまでも優しいマッシュ。本当に胸が詰まる。
「良かったら」
私は顔を上げた。
「いつものお店にしない?大学近くの……。あそこのピザが食べたいな」
私は、卑怯だ。マッシュに申し訳がなくて、せめてマッシュとの食事が嫌なわけじゃない、ということをアピールしたかった。でも、実際は、私の甘い想い出の範疇外の提案をしたに過ぎない。私がこう言ったら、マッシュは断らないのを知っていて。
もう失った恋は忘れ去りたいと思ってマッシュと出かけたのに、今でも昔の想い出に囚われている。救いがないのは、それでもなおその想い出を取っておきたいと考えてしまうこと。
「そうだね……そうしよう」
マッシュはどこかさみしげに、頷いた。
(17.3.14)