五章:Far cry...43





 それから。マッシュと私は、大学の近くにあるレストランに入った。気取らないイタリアンで、マリアとマッシュと私、三人でたまに立ち寄るお店。
 アンティパストやピザをいくつか頼んで、マッシュと乾杯する。マッシュは車の運転があるからノンアルコールのカクテルで。私は爽やかなグレープフルーツのサワーで。
 先ほどの気詰まりは忘れて、他愛のない会話を続けていた   つもりだった。
 レストランを出て、マッシュの車に乗る。少し夜のドライブをしようというマッシュの提案に頷いて、夜のシドニーをしばらく走った。途中、マッシュはアルコールを飲んでいないにもかかわらず、上機嫌に見えた。

「本当は」

 シドニーを一望できる高台に車を停めて、マッシュが静かに口を開く。

「今日、君に、もう一度告白をしようと思ってた」
「え、……」

 声が、掠れる。驚いて隣のマッシュを見ると、どこか困ったような笑みを浮かべていた。

「去年のクリスマス、君に見事にふられたけどさ、諦めきれなかった。それからも、君に近づく隙をずっと狙ってたんだ」

 マッシュは正面へと視線を移す。私もつられてフロントガラスに顔を向ける。目の前に広がるのは、シドニーの夜景。ハーバーブリッジ。オペラハウス。摩天楼。シドニータワー。電飾に輝く街々。とても華やかできれいな景色だった。
 けれど、私は深く感動できないでいた。心がどこか遠いところに行ってしまったかのよう。私の毎日はこれ以上ないくらいに充実しているはずなのに。やりがいのある研究に打ち込んで。素敵な友人がいて。親しい男性がいる。それなのに、胸の隅に存在する虚しさは、なんだろう。

「いつからだったか……四月くらいだったかな。、君は研究に一心になってたよね。もちろんそれまでも熱心だったけど、その頃から、“必死”になっている感じがした。何かを忘れようとか、振り切ろうとか、そういう感じだ。何かあったんだっていうのはすぐにわかったよ。君のこと、ずっと近くで見てたからさ」

 マッシュ曰く穴場だという高台には、他の車の姿はない。外は静寂。車の中には小さな音楽が流れているだけ。美しいピアノのジャズバラード。

「君は、好きな人がいる、って言ってたよね」

 ずきり、と胸がうずく。とっさに何かを言おうとして、でも言葉が見つからなかった。

「きっと、その人と何かあったんだろう、って思った。君が少しずつその人を忘れていって、僕が入り込めそうになる機会を待ってた。君が少しでも僕に寄りかかろうとしてくれたら、もう一度交際を申し込もうって思ってた。ヴィクトリア号の上で格好良く、さ。傷心の君を狙うなんて、卑怯だろ、僕」

 私は首を横に振るので精いっぱいだった。マッシュが私を見つめてくる。

「半年くらい経ったけど……君はまだ忘れてないんだね。その“好きな人”のことを」
「ちがう」

 思わず強い口調になってしまう。少し気持ちを落ち着けてから、加えた。

「私   マッシュの言うとおりだよ。失恋しちゃって」

 “失恋”。言葉に出すと、奇妙な響きを持っているように感じた。

「たしかに、忘れようと思って必死に研究に打ち込んだ。おかげでもう吹っ切れたよ」
「そうかな」

 そうだよ。そう声に出そうとして、即答ができなかった。吹っ切れているのなら、マッシュとヴィクトリア号で食事ができたはず。

「その人とヴィクトリア号に乗ったんだろう?」

 マッシュが私の考えを読んだのかと思って一瞬驚く。マッシュは薄く笑っていた。

「もしかして、僕が会った人じゃないかな。ほら、いつだったか……君の服を汚したお詫び、とか言ってた男」

    あの夜。ヴィクトリア号でのディナー・クルーズの夜。
 湧き出しそうになる想い出を振り切るように、私は拳を握りしめた。

「そのことは、もう」
「よほど大切な人だったんだね。君の目を見ているとわかる」

 やめて。

「その男との思い出を、僕との思い出に塗り替えたくないんだろ?だから、」
「マッシュ!」

 つい声を荒げてしまう。静かな空気がわずかにぴりっと震えた。
 マッシュは目を細める。

「ごめん……なるべく、もう、思い出したくないの……」

 胸がじんじんと傷んで、泣き声になってしまう。幸せだったはずの想い出が、今はこんなにも苦しい。そして、その想い出を忘れきれない自分が、情けなくて腹立たしい。

   僕じゃ、君の大切な人にはなれないのかな?」

 マッシュはささやくように言った。まっすぐな目。気さくで、明るくて、優しくて、人気者のマッシュ。こんなふうに近くで想ってくれる人がいるのは、とても幸せなことだと思う。マッシュのことなら好きになれるかもしれない。

「少しずつでも、いいんだ」

 マッシュがそっと私の頬に手を伸ばす。温かかった。人の手のぬくもり、……。

「少しずつでも、僕を知っていってくれたら」
 
 マッシュの手に力が込められる。
 BGMが、途切れた。小さなジャズバラードが終わったらしい。
 マッシュが身を乗り出してきて   マッシュの顔が近づく。私は、無心で目を閉じた。唇に柔らかな感触が重なる。
 何も考えられなかった。何も、浮かんでこなかった。
 静寂に遠慮するように、静かにラジオから曲が流れてくる。ピアノの美しい曲。これは、……。

「いやあ、最高だね。『Over the rainbow』か」

 不意に耳の奥で蘇った声に、思わずぐっと身を引いてしまう。
 マッシュが目を大きくして、「ごめん」と決まりが悪そうに眉を寄せた。
 胸に響いてきた甘い声に、一瞬、時間が巻き戻ったのかと思った。でも、ちがう。ここはシドニーで、目の前にいるのはマッシュ。私を気づかうような優しい声に、さわやかな柔軟剤のにおいに、目の奥には穏やかな光。

「はは……突然のキスはないよなぁ。ごめん」

 だめだ。
 マッシュのことは好きなのに。好きになりたいのに。好きになれると思うのに。
 バックグラウンドで流れる、美しく繊細なバラード。その曲に、私の愚かさに、胸が張り裂けそうになる。この曲は、かつてカプリで私が弾いた曲。隣にいたのは、……。

「ごめん……ごめん……マッシュ……私……」

 どうして。どうして、忘れられないの?胸を苦しくさせるだけの想い出は、どうして消えてくれないの?

「私、……まだ……」
「うん、ごめんよ。僕が急ぎすぎた」

 マッシュは優しすぎる。いっそ、馬鹿だなと怒ってくれていいのに。

「待つよ、僕は」
「ううん……ううん。待たないで……私なんかよりも、マッシュにはいい人がいる」

 それに。あとどれだけ時間が経ったら忘れられるのか、自信がない。

「なんだよ、それ。映画の台詞みたいだ」

 マッシュが笑ってみせる。

「わかった。それじゃあ   君以上に素敵な女性が現れるまでは、待つことにする」

 私は、何も言えなかった。ごめん、も、ありがとう、も、マッシュを傷つける言葉でしかない。
 いつか。いつか、マッシュを心から好きになれる日がくるといいと、切に願った。

 

(17.3.22)