五章:Far cry...44





 ふう、と大きく吐いた息の音が、しんと静まり返った部屋にこだまする。目を閉じて、その反響を噛みしめた。自分の部屋のにおい。落ち着くのと同時に、もの寂しくもある。路地をやや奥に入った三階建てのアパートの最上階。静寂に包まれた部屋は、外界から遮断されているような心地がして胸がざわついたけれど、耳をすませば遠くに車の走る音が聞こえてどこか安堵した。
 目を開けてキッチンに向かい、コップいっぱいの水を一気に飲み干す。喉につかえていたものを流そうとしたけれど、一向にそのわだかまりは溶けなかった。

 胸が、痛い。マッシュの優しさに。そんなマッシュを男性として好きになれないことに。そして、いまだに忘れられない人がいることに。
 いつになったら。この想い出は消えてくれるんだろう。完全に失ってしまった恋は、いつ忘れることができるんだろう。

 もう一度息を吐き出して、リビングのチェストの引き出しを開けた。そこから折りたたみ式のソムリエナイフを取り出す。これを捨ててしまえば、何もかも忘れ去ることができるだろうか。
 チェストの中に押し込めていたソムリエナイフは、柄の部分に“A.L”と彫ってあった。おそらく、Arsene Lupin   のことだと思う。半年前、カプリ島でマフィアとのいざこざがあった際に、持って帰って来てしまったものだった。ポケットに忍ばせていたことをすっかり忘れていた。エミリオさんが大切にしていたものを捨てることはできず、かといってカプリに戻しに行くこともはばかられて、引き出しの奥にしまいこんでいたのだけど。

    ルパンに関わるものを持っている限り、ルパンへの想いも捨てきれない気がしていた。でも、それは言い訳。
 何もかも捨ててしまいたい、想い出を忘れてしまいたい、などと考えるのは、私の弱さゆえなのだと思う。ルパンを好きになって良かった、幸せだった想い出を大切に生きていきたい、あの恋は私を成長させてくれた、……。そう思えれば良かった。でも、私には、そんな強さがない。
 ルパンと巡った場所を通ると胸が痛むのが耐えられなかった。ルパンに関係するものを見るのが辛かった。だから、ルパンのことは一切思い出さないようにした。ルパンがくれた、父さんの好きだった絵たちも、クローゼットの奥に隠してしまって。一心不乱に研究に打ち込むことにして。ひたすら前だけを見て、何も考えないくらい予定を詰め込んで。うまくいっていた。このまま傷が塞がっていくと思った。
 マリアのおかげもあって、うまくいっていたのに   

 カプリから戻った私を見て、マリアはすぐにおかしいと気づいていた。

 カプリから帰ってきて   マリアには、私はイタリアとフランスに行っていたことになっている   しばらく経ったころ、部屋に遊びに来たマリア。マリアは、「何かあった?」と、そっと何気なく訊いてくれた。私は、さほど躊躇わずに、話をしていた。誰かに聞いてもらいたかった。ルパンのことは伏せて、失恋したんだ、と伝えた。

「前に言っていた、好きな人のこと……?」

 気遣うように小さく問いかけるマリアに、そう、と頷く。クリスマスのとき、マリアには「好きな人がいる」と打ち明けていた。

「その人とはじめて会ったのは、もう四年くらい前でね、……それからも数えるくらいしか会ったことがないのに……会うたびにどんどん好きになってしまって……ううん……はじめから、すごく惹かれていて……」

 ぽつぽつと語りだすと、止まらなかった。

「頭が良くて、行動力があって、明るくて、話もうまくて、それなのに聞き上手で。優しくて……女性に対しては誰にでも優しいんだけどね……女好きだから……すごく素敵な人が仕事のパートナーだし……手が届かないところにいる人だから……叶いっこないってずっとわかってた。わかってたのに、……」

 声が、震えた。マリアがそっと手を重ねてくれる。マリアの手の甲に涙が落ちた。マリアはそれを拭うことなく、しっかりと私の手を握ってくれた。カプリから去るフェリーで、もう涙は枯れ果てたと思っていたのに、まだ流れ落ちてくる。

「もう、どうしようもないくらい好きになってた……何度も諦めようとしたのに、止められなかった。でも   この前……会うのはもう最後にしよう、って、はっきり言われてしまって……」
「そう……」
   ただ、今まで会いに来てくれてたこと自体が不思議なんだけどね」

 涙を拭ってぽつりと言うと、マリアは驚いたような声を上げた。

「会いに“来てくれた”?」
「あ……うん……私は、連絡先を知らないから。気まぐれにふらっと会いに来ていただけで」
「えぇ?そんな!それで、“会うのはもう最後にしよう”だなんて、ずいぶん勝手な男ね」

 たしかに。普通に考えれば、そうかもしれない。

「ん……ちょっと事情があって、ね」
「どんな事情があったって、都合が良すぎるわよ」

 マリアは目を吊り上げている。

が好きになったのなら、悪い人ではないのかもしれないけど   あっ、もしかして、前に私が会ったことのある人?」
「え?」
「ほら。いつだったか……三月ごろだったかしら。偶然会ったじゃない?黒い帽子をかぶった人」

 帽子   次元のことだ。そうだ、次元と一緒にいたところをマリアに見られていたんだっけ。そんなこともあったな、……。あの後、次元とバーに行って、次元に復讐しようとする男に巻き込まれて、……。そうだ。そのときに助けてもらったお礼を、まだきちんと言えていない。
 次元。もう会えないのかな、……。
 私が目を伏せたことで、マリアは肯定の意味に捉えたようだった。

「あの人……たしかに、他の人と違う雰囲気で……気になる感じではあったわね」
「あ、その人は違うんだけど」
「いいのよ、無理しなくても。でも、女好きで、一方的に会いに来て一方的に別れを言ってくるような自分勝手な男のことなんて、忘れたほうがいいわよ」

 ルパンのことを“自分勝手”というのはしっくりこなかったけれど、人の口から聞くと、たしかにそういうふうにも思える。ううん。いっそ、ルパンに対して腹を立ててしまえばいい。甘い想い出に囚われるより、ましだ。

「大丈夫。には、もっと素敵な人が見つかるわよ」

 マリアは力強く、そう言ってくれた。
 そうだ。もうあんなに苦しく切ない恋から解放されたんだ。これからたくさん自分を磨いて、たくさん人と出会って、新しい恋を見つけられたらいい。
 マリアに聞いてもらえたことで、ずいぶん心が楽になったし、気持ちも新たにできた。

 そう、思っていた。
 それなのに。私はまだ、忘れられていなかった。

 ルパンと最後に会ってから、ルパンは一度、シドニーの銀行に盗みに来ている。でも、   会いに来てくれることはなかった。
 もう、決定的なんだ。ルパンが私と会わないということは。ルパンは刺激のある日々を過ごすなかで、私のことは一過性のことに過ぎなかったのだと思う。もうどこにも、ルパンと元の関係に戻れる余地はない。ルパンがはっきり私と会わないことを決めたのなら、どうしようもない。

 もう、どうしようもないんだ。

 私は、手のひらに収まっているソムリエナイフを握りしめた。
 研究が落ち着いたら、このナイフはカプリに返しに行こう。そのときこそ本当に、ルパンへの想いを断ち切る最後だ。
 それまでは、他のことに打ち込んで、少しずつ傷を癒やしていけばいい   
 今の私には、友達も、研究も、大切なことがあるのだから。

 

(17.4.4)