八章:Alexander the Great...68
小さな部屋に沈黙が落ちる。じりじりというモニター音がかすかに聞こえた。
私が手にしている紙の束には、エレベーターの起動方法、ドアの開閉方法、下降の仕方、上昇の仕方、などが書いてある。それらはすべて、目の前にある台座の操作方法だった。それはつまり、
「エレベーターなら、普通、中にボタンがあるわよね」
不二子さんが静寂を破る。
「……あの部屋にはなかったな」
次元が答えた。
そう。通常エレベーターは、中にある行き先のボタンを押して、動く。けれど、遺産のある部屋には、何もなかった。
「この部屋からでないと、エレベーターの操作ができないみたいです」
私は半ば自分に言い聞かせるように、告げた。
もう一度沈黙が流れる。
誰かがこの部屋に残らなければならない。ここに残るということは、カーラに捕まるということ。おそらく、無事ではすまされない。誰かが犠牲にならなければならない、……。
「
先生がしっかりとした口調で言った。私は驚いて先生の顔を見る。覚悟を決めたような表情だった。
「、操作方法を教えてくれ」
「で、でも」
はい、なんて言えるわけがない。先生を置いて逃げることなんてできない。
「いいえ、私が残りましょう」
今度は、ジュディさんだった。私はジュディさんに視線を向ける。ジュディさんは先生をまっすぐに見つめていた。
「レイモンド、あなたを待っている生徒はたくさんいるでしょう?」
「いや、何を言う。君こそ大勢に必要とされているだろう」
「そんなもの、たいしたことないわ。ビジネス上のことなんて、私がいなくても回るもの」
ふたりとも、どこか必死に見えた。必死に何かと闘っているような。
カーラに来る途中から、先生もジュディさんも、思い詰めているようなふしがあった。特に、カーラに捕らえられてからはそれがいっそう強くなったように思う。先生は、生徒を
ジュディさんは、たぶん、旦那さんを恨みつつもとても愛していて
ふたりともどこか自己犠牲的な、諦めのような、そんな思いを抱いているように見えた。
ふたりとも必要な人なのに。
「私はやーよ」
不二子さんは手をひらひらさせて言う。次元は、大きくため息を吐いた。
「なんでもいい。早く決めるぞ。なんだったら俺が残ってもいい」
次元はそう言って、カーラの追手が気になるからと、隣の部屋へ戻って行った。
ルパンは。ルパンは、何も、言わなかった。ただじっと、腕を組んでいるだけ。
「、エレベーターの操作方法を教えてくれ。私ならばカーラ語の理解は早いはずだ」
先生が私を問い詰めるような視線で見る。
けれど、頷けるわけがない。私は固まってしまった。
「恩師のあなたを置いていけるわけがないでしょう。ねえ、さん。私が残るわ」
ジュディさんも私に顔を向ける。
先生の言うとおり、一企業の副社長で、たくさんの人に必要とされている人をここに残していくわけにはいかない。それに、私個人としても、ジュディさんを置いて行きたくはなかった。彼女に好感を抱きつつあったから。先生を置いていくことも絶対に嫌だ。
かといって、次元一人を残していくこともできない。もしかすると、ルパンが残ると言い出すかもしれないけれど、それも賛成できなかった。いくら次元やルパンといっても、カーラの追手を一人で撒けるかどうか、……。
私は
私がここに残って操作するのが、一番いいんだ。私ならそのままこの資料を見て操作ができるし、
私が残るべきだ。そう思っているのに、口に出せなかった。先生やジュディさんのように、決断ができない。
ここに残る、それはすなわち“死”を意味しているに近い。その恐怖を乗り越えられる勇気が、私にはなかった。かといって、不二子さんのように、きっぱりと残りたくないと告げられる強さも、ない。
私は。私、は
紙を持つ手が震えた。
「おい、ルパン!」
そのとき、次元の荒声とともに、パンパン、と乾いた音が響き渡る。遺産の部屋からだった。はっとして音のほうを見ると、遺産の部屋の入り口が開いていた。あそこはルパンがロックしたと言っていたのに。
次元は帽子をおさえて、ガラス棚の背後に隠れて飛び交う弾を防いでいた。パリン、と乾いた高い音が鳴り、ガラスの破片が飛び散る。
「やつら突破しやがったな」
ルパンは舌打ちしながら、次元のもとへ駆けてゆく。
「不二子ちゃんは先生たちを頼む!」
「わかったわ」
不二子さんはルパンの背中に頷いて、腰のベルトから銃を抜き取った。
「蜂の巣になりたくなかったら、ここから動かないでね」
不二子さんは銃を構えて、言った。
動きたくても、足がすくんで動けない。
次元とルパンは、棚や壺を壁にして、部屋の入り口から乱れ飛んでくる銃弾を避け、銃で応戦していた。先生とジュディさんと私は、見守るしかできなかった。
とうとう追いつかれてしまった。
ぞくり、と全身に鳥肌が立つ。激しい銃撃戦が、目の前で起こっているものとは信じられなかった。
ルパンたちと合流できた時点で、どこか安堵してしまっていたのかもしれない。もう大丈夫だ、と。実際にこの部屋までは順調にたどり着けた。でも、追手は蛇のように静かに着実と追ってきていた。そして今、喉元に喰らいつかれようとしている
ばん、と大きな音に我に返ると、何かが爆発したのか、入り口から煙が立ち込めていた。その中からルパンが出てきて、ふうと一息つく。次元も後から現れた。ふたりとも無事のようだった。
「とりあえず入り口は塞いでやった」
ルパンが言って、次元とともに小部屋に入ってくる。
煙が落ち着いてきたところを見ると、遺産の部屋の入り口が、崩れ落ちていた。周囲のコンクリートや石の壁が壊れ、出入り口を塞いでいる。
「んでも長くはもたねぇだろうな」
ルパンが緊張感のある口調で言う。
カーラはすぐそこにいる。
「私が……残って、操作します」
意識する前に、私は口を開いていた。もう頭の中が真っ白で、冷静な思考ができない。先ほどから何度も呑み込んでいた言葉を、ようやく口にした。
先生とジュディさんが驚いて私を見る。ふたりに何か言われる前に、私は続けた。
「私が動かすのが一番早いですよね。誰かに教えている時間もないだろうし」
先生とジュディさんは、顔をしかめる。けれども何も返せないようすだった。彼らに考える時間を与えないために、何より私のささやかな勇気が揺るがないうちに、私は矢継ぎ早に続けた。
「乗ってください。動かしますから」
声が震えてしまいそうになる。恐怖と不安に押しつぶされそうになる。
でも、誰かを残して後悔するよりも、私が残ったほうがましだ。私ならそのままエレベーターの操作ができる。そう何度も自分の胸に言い聞かせる。それなのに、目の前がどんどん真っ暗になってゆくようだった。
先生は、「それはできない」と首を横に振った。ジュディさんも頷く。
でも、他にいい方法がありますか?半ば自棄になってそう訊ねようとしかけたとき、ルパンが口を開いた。
「
えっ……?
私は驚いて、ルパンの顔をまじまじと見つめてしまった。私以外の全員も、ルパンに視線を向けた。
ルパンが残る。私と……?
ルパンは早口で続けた。
「手短に話す。次元、おまえは先生たちを連れて、下へ行ってくれ。で、お宝を積んで船に乗って、ここを出るんだ」
「……それで、おまえはどうする?」
次元が訊ねる。
「この通路の先に崖があるよな。その下は川が流れてる。船もそこを通るはずだ。そのタイミングを見計らって、俺たちは飛び降りる」
「えっ」
先生と、ジュディさんと、私の声が重なる。
この先の通路。この部屋の先には通路が続いていて、たしか不二子さんが崖になっていると言っていたところだ。そこから飛び降りる、だなんて。
「俺のベルトにはこんなこともあろうかとパラシュートが仕込んであってな。本来は一人用なんだけど、崖からのダイブくらいなら大丈夫だろ。ちゃん、君ならまあ、軽そうだし」
ルパンは口の端を広げてみせる。
「エレベーターが下がれば、連中はこの部屋に入って来られないはずだ。おまえたちは、超特急でお宝と一緒に船で脱出してくれ。俺たちはこのモニターから飛び降りるタイミングはつかめっから」
たしかに、隣の部屋
途方もない話だけど、ルパンの言うことならやれるんじゃないかと思えてしまう。これまで考えないようにしてきた絶望感から少しずつ開放されたような心地になった。
誰かが残らなければならない。私が残るべき。
そういう恐怖や不安が、ルパンの作戦のおかげで、すっと落ち着いてくる。
不思議だなあ、と思った。ルパンの存在は、ルパンの言葉は、魔法みたい。
「わかった」
次元はそれだけ言うと、遺産の部屋へと足を向けた。
「お宝のことは任せておいてね」
不二子さんもにっこり微笑んで、次元の後に続く。
次元も不二子さんも、ルパンに対して何も言わなかった。ルパンの説明をすぐに呑み込んで、信頼したのだと思う。すごいな、と思った。羨ましい、とも。
次元と不二子さんが急いたようすに、先生とジュディさんも緊張感を見せていた。
「ルパン、本当に大丈夫なのか?」
先生がルパンに訊ねる。
「大丈夫だって。悪いけど先生、時間がない。ここはひとつ、俺様を信頼してくれねぇかな」
先生は唇を噛みしめる。けれども“時間がない”と言われると反論ができないようだった。
「
先生は私の肩に手を載せる。ジュディさんも私を見て言った。
「さん、結局あなたに頼むことになって……ごめんなさい。無事でね。またお茶をしましょう、必ず」
私はふたりの顔を見て頷いた。他に何か言うことがあると思うのだけど、この場を包んだ緊迫感がそれをさせなかった。
先生とジュディさんも、隣の部屋へと向かう。
ふたりとも、ルパンとの関係は深くないはずなのに、ルパンを頼りにしているようすだった。ルパンには本当に、一瞬で人を惹きつけてしまう力がある。
「ルパン、……」
何を言うべきかわからない私は、ルパンの顔を見た。ルパンは大きく頷いて、「大丈夫だよ」と言った。
どんなに危険が迫っていても。どんなに不安や恐怖を感じていても。ルパンに大丈夫と言われれば、そう思えてしまうから不思議だった。
(17.10.23)