Epilogue〜門出






 地中海の街で倒れてからの記憶が、すっぽりと抜け落ちていた。あとから先生に聞いた話では、私はとにかく酷い熱があったということで、すぐにカイロの病院に運ばれたのだという。そこで数日点滴を受けて、私は意識を回復したり、寝込んだり、を繰り返していた。
 目が覚めたら知らない天井があって、これまでのことがぜんぶ、夢のことのように思えた。
 その間に、先生とジュディさんはICPOの取り調べを受け、シワのマッシュたちと合流して事の説明をし、大学のメンバーにも無事を知らせたという。私は病床についていたので、幸いICPOの取り調べは受けずに済んだ。
 何日も熱に浮かされているとき、先生とマッシュがお見舞に来てくれたのを朧気に記憶している。

……僕は、きみを守れなかった……強く、なるよ。せめてきみの友人として、隣にいられるくらいには」

 移ろう意識の中でマッシュがそう呼びかけてくれたのは、幻だったのだろうか。


 私の高熱は、何かの感染症なのかという疑いもあったけれど、最終的な診断は“疲労”だった。たしかに怒涛の日々だったし、心身ともに無理をしたし、川に流されて身体も冷えたし、倒れる原因は揃っていたと思う。振り返ると、よくあの状況をくぐり抜けられたなあ、と自分でも感心してしまう。私の身体は相当な無理をしていたのだろう。
 なんとか動けるようになった私は、十日ほどで退院し、マリアに付き添われてシドニーに帰ることになった。先生たちはシドニーに戻ってさまざまなことの対応に追われていたので、マリアがわざわざ私を迎えにエジプトに来てくれたのだった。
 マリアは私の姿を見るなり、無事で本当に良かった、と涙を滲ませてくれた。先生から諸々の事情を聞かされて、心配してくれていたという。
 身も心もふらふらしていた私には、マリアの行為と気遣いは、とてもありがたかった。
 私は恵まれているなあ、と胸が熱くなる。

 シドニーに戻ってからもしばらく体調が優れない日々は続いて、私が回復しはじめたのはカーラの一件からひと月経ったころだった。

 先生から聞いた話では、ICPO   銭形警部のおかげで、カーラの一族は全員逮捕されたのだという。さらに、ジュディさんの力添えもあって、カーラに残されたアレキサンダーの遺産はすべて、シドニー大学の研究チームを中心に発掘を進められるということだった。
 ルパンたちは結局、カーラに残してきた遺産を盗まなかった。
 ただ、船に積んでいた遺産や金貨いくつかはなくなっていたらしいけれど。

 カーラの族長は、逮捕された今も、棺のゆくえを問いただしているそうだ。「イスカンダル王をいずこに持ち去ったのだ」、と。けれど、先生とジュディさんは白を切ったという。そんなものはなかった気がする、と曖昧な返答をして。
 これで本当に良かったのかな、と振り返ることもあった。歴史上の偉大な人物の亡骸を、勝手に地中海に沈めてしまうなんて。
 カーラ一族も、ずうっと昔からアレキサンダー大王の遺産を守ってきたのだ。人を殺してまで遺産を守ろうとするのは行き過ぎた行為だと思うけれど、純粋に王の遺産を守りたかった、という意思もあったはず。それを、私たちが世に解き放ってしまった。
 でも、私たち考古学者の使命は、まだ見ぬ歴史や文化をより多くの人に知ってもらうこと。その存在を、その素晴らしさを。だから、遺産を公開したことは間違いではないと思う。
 それに。
 これは私の希望でもあるけれど   アレキサンダーと親友ヘファイスティオンは、人の目に晒されるよりも、地中海の底で安らかに眠りにつけているといいな、と思う。

 

 事の後始末が落ち着きはじめたころ、今度は先生が倒れて、シドニーの病院に入院した。原因は私と同じく過労、だった。先生もかなり無理をしていたのだと思う。
 すでに元気を取り戻していた私は、ひとりでお見舞に行った。
 先生の病室には、鮮やかなピンクのスイートピーが飾られていた。

「目覚めたら、これとともに置いてあったんだ」

 先生は私に手を差し出してくる。その手のひらには、先生の携帯電話が載せられていた。
    ああ、そうだった。先生の携帯電話は、ルパンが持っていたままだった。先生が私に渡してくれて、私が短縮ダイヤルを押し、ルパンの手に渡っていた、先生の携帯電話。
 それを、ルパンが返しに来た。ピンクのスイートピーとともに。

「花言葉は“門出”、だそうだ」

 先生は、笑った。

「気持ちのいい人たちだったね……」

 先生は優しい笑顔でスイートピーを見つめる。

「はじめにルパンと会ったときは、突然だったし、本当に単なる泥棒なのだと思った。でも、助けられたな、いろいろと」

 そうして先生は、私に視線を移す。

、きみは、本当は   

 先生はそこまで言いかけて、首を横に振った。

「いや……なんでもない。これからは忙しくなろうだろうが、私の右腕として、頼むよ」

 私は「はい」と頷いた。
 先生が無事で、本当に良かった。
 私はピンクのスイートピーを見つめながら、そう思った

 

 それからは先生の言った通り、本当に忙しい日々が続いた。
 シドニー大学の研究チームは人が増え、一時的にカイロに拠点を移すことになった。カーラで遺産を発掘して、カイロでそれらの調査に当たる。シドニーに持ち運びするには大掛かりなものだし、なるべく現地で解析をしたほうがいいということだった。
 エジプトへと再出発することになる数日前、私はジュディさんと会う約束をした。

「ごめんなさいね、会社の部屋で。本当はゆっくりと、カフェで食事をしたかったのだけど」

 ベルモンドホテルグループ本社の、ジュディさんの仕事部屋。大きなゆったりとしたソファに腰掛けて、私はジュディさんが淹れてくれた紅茶を飲んだ。

「いいえ。お忙しいのにお時間を作ってくださって、ありがとうございます」

 私が言うと、向かいのジュディさんは苦笑した。

「私がエジプトに行っていた短い間に、ずいぶんと仕事が溜まってしまってね。しかも、穴を開けたものだから、それを逆手に秘書にはどんどん仕事を振られる始末よ」
「大変そうですね」

 肩をすくめるジュディさんだけれど、どこか生き生きとしていた。何かがきれいに吹っ切れたような、そんな顔。あらためて、美しい人だと思った。

「あなたたちこそ。しばらくはエジプトに行きっぱなしでしょう?」
「はい。最低でも三ヶ月とか、半年とか。でも、楽しみです。現地調査に携わるのが夢だったので」
「楽しそうね。私も時間を見つけて応援に行くわ。秘書に隠れて、ね」

 ジュディさんは笑う。私は「ぜひ」と頷いた。

「ねえ、さん」

 ジュディさんは少し迷ってから、口を開く。

   いえ。さん、とお呼びしてもいいのかしら」
「えっ」

 私は驚いて、紅茶をこぼしてしまいそうになる。それはなんとか防いだけれども、ティーカップをお皿に戻すときに、手が震えてガシャンと乾いた音を立ててしまった。

「ルパンがそう呼んでいたから。次元も」

 私は、苦い笑いを浮かべるしかなかった。やはり気づかれてしまっていたか。

「これから私の想像を話してみても、いい?」

 私はどうぞ、と答えた。先ほどは突然だったので驚いたけれど、不思議と大きな動揺はなかった。

「あなたが以前言っていた、あなたの好きな人。それはルパン、じゃない?」

 シワにいるときに、ジュディさんから彼女の過去の話を聞いた。そのときにそういう話をしたことを、私は覚えていた。印象深い内容だったから。まさか、ジュディさんも覚えていたなんて。

「住む世界が違う。女好き。これって、ルパンにぴったり当てはまるわよね?それに、ルパンと話しているときの、あなたのふとした表情。あなたの視線。そうじゃないかって思ったの。女の勘みたいなものだけど」

 隠しても無駄だと思った。でも、私が認めなければ、ジュディさんは深追いせずに引き下がってくれるような気がする。
 けれども。この人になら話をしてみてもいいかもしれない、という気分になっていた。
 ジュディさんは私の言葉を待っている。私は、口を開いた。

「私の……本当の、名前。、っていうんです。でも、ある事情があって、その名前は戸籍から消えています」

 ああ、ルパンたち以外にはじめて、私の事情を明かしてしまった。オスカーさんとマルコさんに申し訳ないような気持ちになる。けれど、ジュディさんなら他言はしないでいてくれるだろう。
 だから、せめてひとりだけ。私のまわりで、私の本当の名前を知ってくれている人がいてほしい、と思ってしまった 。

   私は……日本で生まれて、三年ほど前に、日本でルパンと出逢いました。私はルパンに盗んでほしいものがあって……その関係で、ルパンたちと何度か会うようになったんです。それで……ルパンのことを……好きになって、いました」

 胸がちくりと痛む。でも、大丈夫。

「けど、世界を股にかける泥棒と、一般人の私はつり合うはずもなくて……しかも、ルパンは女好きですし……。それでも忘れられなくて、忘れようとして、を何度も繰り返して……。結果的に、一度はっきり別れを言われてしまって、でもその後にカーラで再会したんです。あのときはびっくりしましたけど……でも、おかげで、きちんとルパンへの気持ちを手放すことができました」
「あの、崖から落ちたときね。あのあとからあなたの表情、少し変わったもの。単純に、危機が去って安心したのかと思っていたけど」
「はい。あのとき……ルパン、私をかばって撃たれたんです。私は何度もルパンに助けられてばかりなのに、足手まといなのに、ルパンの近くにいたら……ルパンを傷つけてしまうって、思って。ルパンは女の人に優しいから、冷たいことを言っても、見捨てられないんです」
   そう」

 ジュディさんはゆっくり頷いて、言った。

「たしかにあの人、女に甘いわね。最後、私がルパンに銃を向けたときも、あの人なら反撃できたはずよ。それなのに、私の提案に乗った」

 まったく罪な男よね。ジュディさんはそう呟く。

「それで   あなたのラブストーリーは、完結させられそう?」
「そう、ですね。ジュディさんが言っていたように、私もここで物語の本を閉じてもいいのかも、と思うようになりました。もちろん、好きな人が現れたらいいな、とは思うんですけど」
「ルパン以上となると、難しいかもしれないわね」

 はっきりと言ってくれるジュディさんが、今は心地よかった。

「そうですね、私もそう思います」

 私は、笑うことができた。

「女好きで、スリルが大好きで、自由を愛していて、気まぐれな泥棒だけど   あの人以上の人はいない、かもしれません。でも、私の人生でそんな人に出逢えて、素敵な想い出をたくさん作れた。それだけで充分だなぁ、って」

 まだ胸は少し痛むけれど。そういうふうに思える程度には強くなれたのだと、思う。

「きっと大丈夫よ。あなたなら」

 ジュディさんは微笑む。柔らかい笑みだった。

「ねえ、さん。良かったら私と、お友だちになってくれない?」
「え、え?私が、ですか?」
「そう。じつは私、ビジネス上の“友人”は多いのだけど、本当の女ともだち、っていうのが思い当たらなくてね。もしあなたが良ければ、お願いしたいのだけど」
「私で……よければ。ぜひ」
「ふふ、ありがとう」

 こうして私は、恋を失った代わりに友人を手に入れた。秘密の共有ができる、女ともだちを。

 

(17.12.7)