6月が近づいたある日の昼下がり、はハグリッドの小屋へと向かった。バスケットに、フルーツやお菓子を詰め込んで、手作りにも挑戦した。ハグリッドが喜んでくれれば良いけれど、……。
しかし、は途中ではたと足を止めた。森の方に、一匹の猫が駆けて行くのが見えた。
見覚えのある、猫。あの大きさ、あの橙色の毛並み。あれは
84. a SPREAD of 12 years
じゅうにねん
何故かは自分でも分からない。たぶん、鮮やかな色の猫が、この深い森に不釣合いのように思えたから。そこに抱いた、違和感。は、ハーマイオニーのあの猫を追って、森へと足を踏み入れた。だが、既に猫の姿はなかった。見間違いだったのだろうか。いや、そんなはずはない。この目ではっきりと見た。あの、大きなオレンジ色の猫を。
禁じられた森には何度かハグリッドと共に入ったことがあったが、一人では初めてのことだった。昼間とはいえ、森の中は繁茂した木々のせいで薄暗い。
しばらく歩みを進めていたが、はやがて立ち止まった。
「クルックシャンクス?」
猫の名を呼びかけてみるも、何の応えも返っては来なかった。聞こえるのは、ざわざわという木が不気味に揺れる音だけ。
何をやっているんだろう、私は。
はしばらくぼんやりとその場に立ち尽くしていた。不思議の国のアリスではないけれど、兎……ではなく猫が、自分を何処か違う世界へ連れて行ってくれるとでも思っていたのだろうか。
戻ろうかなと思い始めた時、がさり、と妙に葉が擦れる音がし、は首を横へ向かせた。クルックシャンクスなら良いが、この森には危険も多い。そのことを忘れていた。しまった、と身を固めたが、その次の瞬間、頭が真白になる。驚きで口を僅かに開かせたまま、それを見つめていた。喉がからからに渇いて、張りついていた。
これは
の視線の先には、大きな黒い犬がいた。犬も立ち尽くして、こちらを見返している。籠を持つ手がかたかたと震えた。その犬は、あまりにも似過ぎていた。アニメーガスになった、彼の姿に。
は、地面から生えた木が全身に絡みついたかのように、全く動くことができなかった。否、動くことを忘れていた。瞬きさえ、息をすることさえ忘れていたかもしれない。
あの犬は、まさか。いや、でも、そんな。彼はアズカバンにいるのだから、あの犬が彼のはずがない。
いや、違う。彼は脱獄したんだ。それならば、もしかして
犬の方も動くことなく、を見つめていた。
「シリウス、……?」
は震える声で、問いかけるように呟いた。
途端に、犬は覚醒したようにはっと我に返る。そして身体をくるりと後ろに向かせ、駆け出した。
「待って!」
も走り出そうと足を動かしたが、まだ震えていたそれは木の根元に引っ掛かってしまい、どさりと地面に倒れた。馬鹿、こんなときに。は自分の運動神経の鈍さを、心底呪った。顔だけを上げると、落ちたバスケットからリンゴがころころと転がっていくのが見えた。
犬は、振り返り、こちらを眺めていた。
「シリウスなんでしょう?」
倒れ込んだまま、は言った。もはや、自分がどういう状態でいるのかはどうでもいい。ただ、あの犬が、逃げてしまうことだけが、不安だった。
黒い犬は、離れたところからこちらをじっと見ていた。
「私が分からない?」
私、変わっていないでしょう?ほら、闇の力と一緒に受け継いだ力のせいで、老いない身体なんだよ。ねえ、私のこと、忘れてしまったの?それとも、ほんとうに、長いアズカバンでの暮らしで、ディメンターとの共同生活で、気をおかしくしてしまったの?
「応えてよ、……シリウス」
は身体を起こすが、足に痛みを感じ立ち上がれなかった。その場に座り、膝を摩る。きっと明日には、痣になっているだろう。そんなことは、もう、どうでも良いけれど。
やがて、犬は極めてゆっくりとした足取りでとこちらに歩み寄ってきた。歩くことをためらっているかのように。けれども、確実に一歩、一歩、こちらに近づいてくる。しかし、の手前でぴたりと立ち止まってしまった。
は手を伸ばした。おいで、と。
以前にも、こうしてアニメーガスになった彼を呼んだことがあった。その時は、彼とは知らずに呼んでいたのだけれども、今ははっきりとした確信がある。
ねえ。シリウスなんでしょう?
犬はそっと
はそっと犬を引き寄せ、ぎゅうと抱き締めた。
シリウス、と彼の名を呼ぶ。もう二度と、この手を離したくないと、そう切実に思った。
彼がアズカバンに投獄されて、彼と再会できることを夢に見ていたけれども、心の奥底では感じていた。もう彼に会うことはできない、と。世間はシリウスを疑っていて、彼がアズカバンを出られることはないと、解っていた。けれども、認めたくなかった。もう一度、彼に会うこと。それが、自分の中で大きな、生きる支えとなっていた希望だから。それが崩れれば、もう自分は立ち直れないと感じていたから。
でも、実際、今この瞬間
気がつくと、犬のふさりとした毛並みが手に感じられなくなっていたが、代わりに背中に回された腕の温もりを感じた。
「
12年前よりも、低くて、掠れていたけれども、それは紛れもなくシリウスの声だった。
これは、夢?それとも、幻?
もう泣かないと、親友が死んだ時に決めたけれど。今は、良いよね、……。
はシリウスの胸にしがみついて、12年ぶりに泣いた。
シリウスはぎゅうと力を込めてくれた。
やがて、気持ちの高ぶりが鎮まってきたは、そっと顔を上げた。12年という月日を今になって感じてきて、何処か照れ臭かった。シリウスの顔も身体と同じように傷だらけで、痩せていたし、髪も伸びていたが、間違いなく彼だった。シリウスはから腕を放し、途惑ったような表情を浮かべた。
「シリウス、どうして
「今は答えられない」
すかさずシリウスは言った。あまりに急に否定されたので、は困惑した。
「どういうこと?分からないことが、多過ぎる」
「……俺には、やることがある。それを、まず
「やること?」
シリウスは目を伏せた。はますます訳が分からなくなったが、彼のことだ、問い詰めても答えないだろうということは解っていた。
「私には、手伝えない?」
「お前の手は汚したくない」
手を汚す?誰かを殺すということ?
「どういうこと?シリウス、」
「もう戻れ。誰かに見られたら不味いだろう?」
そんなことはないと言おうとしたが、シリウスに真っ直ぐに見つめられ、はたじろいだ。彼の瞳に、自分の顔が映る。
ああ、彼がここにいる。私の好きだった瞳が、すぐそこにある。
「
シリウスの言葉に、はどきりとした。それは、そうだ。だって私は不老なんだから。
「安心した」
は、え、と漏らしたが、シリウスは微かに笑みを浮かべて、アニメーガスの姿に戻ってしまった。
そしてから離れ、振り向く。大丈夫かという表情をして、の足を見やった。
「ああ、うん、大丈夫」
彼はそうか、という風に目を伏せ、転がっていたりんごをちらりと見やった。ははっとし、膝の痛みを堪え立ち上がる。そしてそのリンゴを拾い上げ、バスケットの中に入れ、シリウスの前に屈んだ。
「これ、持って行って。お腹空いているでしょう?」
そう言って籠を差し出すと、彼は取っ手を口に加え、ありがとうと目を細める。もっと良いものを持って来れば良かった、とは心底後悔した。
「
その呟きに、シリウスは応えなかった。しかし、には確信があった。また会える、と。
そしてシリウスは振り返ることなく、駆けて行った。
この腕には、まだ彼の温もりが残っている。
シリウスは、本当に痩せていて、傷ついていて
そのことを、どうして今まで考えなかったのだろう。12年前の彼を、いつも想像していたのかもしれない。彼は、自分とは違う。成長してゆく。そのことが、自分と彼との距離を大きく感じさせて
いや、そんなことはいい。そんなことは、どうでも良いのだ。彼と、また会えた。それだけで、良いのだ。
そしてきっと、
それだけで。
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08/1/13