#06. FAKE CAFE
車で数十分走ったロンドンの郊外に、大きな倉庫とそれに隣接した小さな家があった。ルパンは家の前に車を停め、を中に案内した。
小ぢんまりした一階建ての家。室内は広いワンルームで、部屋の奥にキッチンがある。手前にはローテーブルを囲んで二人がけのソファがふたつと一人がけのソファがひとつ。キッチンの奥にも扉があった。恐らく隣の倉庫と繋がっているのだろう。
はひと通り部屋を見回した後、壁に寄りかかって置いてある一枚の絵に視線を移した。布がかけられているが、隙間から額が見える。大きさは畳半分ほど。
ルパンはそこへと歩いて行き、「これだ」と布を外した。
その絵が放つ異様な雰囲気に、は息を止めた。
ひと言で言うなら、おぞましい。けれども否応なく視線を引きつけられる絵だった。
全体的に暗い色調で、絵の多くが黒。中央には腰に布だけを身につけた男。そして男は、狂ったような表情で小さな犬を喰らっている。その男の目だけが、異質な光を放っていた。
はしばらく放心したように立ち尽くしてしまっていた。
まるで絵自体が力を持っているかのよう。
確かにこれを観た人々が隠すのも頷ける。当時の人には刺激的な絵だっただろう。
やがて我に返ったは、屈んで絵の表面やカンヴァスの後ろに触れた。
「
うっとりと絵を指でなぞりながら、は言った。 ルパンの感心したような声が上から降ってくる。
「へえ?それだけで判るもんなのか?」
はルパンを見上げて頷いた。
「ええ。こんなに異質な力のある絵は、晩年のゴヤンその人にしか描けませんよ」
「ほぉ、すごいな。それほど自信があるってか。どうやってその鑑定眼を身につけた?」
は答えなかった。実際に絵に没頭していたし、答えたくもない質問だった。
幸いルパンは追求せずに、「コーヒーでも淹れよう」とキッチンへ向かう。
しかし、次第に引っかかるものを感じたは、立ち上がってルパンの背中に問いかけた。
「信じるんですか?これが本物だって」
「そりゃあ鑑定士サマに言われちゃあ疑う余地なんてないだろ?」
ルパンは振り返らず、キッチンの棚をごそごそと調べてやかんを取り出す。
「私が間違った鑑定をしているかもしれないですよ」
「ああ。“鑑定士は完璧じゃない”、か
「ええ。数少ない完璧に近い鑑定ができるのが、……ヴァージル先生です」
“ヴァージルの能力は衰えている”と言った以前のルパンの言葉を否定するつもりでは言ったが、ルパンは「どうだろうな」と鼻で笑って、を見る。
「前にも言ったとおり、俺はヴァージルの鑑定眼よりも、
はきゅっと喉の辺りが縮こまるのを感じた。
息がうまく吸えない。胸が締め付けられるような。
お前の眼のほうが上。
そんなふうに面と向かって、お世辞を感じさせずに言われたのは、はじめてのことだった。
この人は口がうまそうだから、きっと方便に違いない。
動揺した自分を引きずっていたくなかったので、は強引に話題を変えた。
「でもこの絵、どうして今まで発見されなかったんだろう……どうしてマフィアが持っていたんでしょう?」
ルパンは再びキッチンに向き合い、背中で答えた。
「俺も詳しくは知らねえ……が、ゴヤンに近しい人間がこの絵を隠して、そのまま偽物だと信じられちまったみたいだな。さすがにこれはグロテスクだと思ったんだろ、周りの連中も。それで裏社会を歩いてきたらしい」
やはり正しい鑑定をされないと、闇に紛れてしまう絵も多いのか。せっかくのゴヤンの力作なのに、とは胸が痛んだ。
「この絵、どうするつもりなんですか?」
ガスコンロで煙草に火をつけていたルパンは、それを口に加えてを振り返る。
「さあて、どうしようかねえ。俺としちゃあ金になると思ってついでに盗んだもんだが、鑑定士サマが本物だと鑑定してくれなきゃ値はつかねぇ」
ルパンはの様子を興味深そうな目つきで見る。
「取り引き、っていうことですか」
「ま、そうだな。その絵をやる代わりに、君は俺に協力する。悪くない話だろ?にしてみりゃあ伯爵の持つ一流の贋作も鑑定できるんだからな?」
は目線を落とす。
そう、たしかに。クロフォード伯爵の持つコレクションには興味はある。でも。
「あいにく伯爵とは顔見知りなので、頼めばコレクションを観せて頂けると思います」
「どうかな」
ルパンは煙草を吹かす。
「ついでに言うと、ヴァージルと伯爵も知り合いなんだろ?そんなヴァージルが、俺が盗んできた伯爵のコレクションを正しく鑑定するとは思えねえ。、おまえはそれを知りながら“ヴァージルに鑑定させればいい”と言っていた。そんときにヴァージル以外には鑑定できないとも言っていたな?あれはどういう意味だ?」
言ったことをいちいち覚えているなんて。は内心で唸る。
ルパンの調査力ならヴァージルと伯爵の繋がりには早々に気がつくだろうと思っていたけれど、が何気なく言った言葉を覚えているとは。
は動揺を気取られぬよう、冷静に答える。
「言葉通りの意味ですよ。ヴァージル先生以外に、伯爵の持つ優れた贋作を鑑定できる人はいないだろうと、そういう意味です」
「いや、違うな」
ルパンはゆっくりと首を横に振る。
「おまえも知ってるんじゃないのか?あのふたりの裏の顔に」
ルパンはの瞳の奥を覗きこむように見て来る。距離が少し離れているから良かったものの、近くでこんなふうに見つめられたら動じてしまっていたかもしれない。
けれども、は「どういうことですか?」と平然と答える。
頑ななの態度に、ルパンは先程よりも強い視線で、低く訊いた。
「この前、ヴァージルのことを一度だけ呼び捨てで呼んだだろ」
まさか。は先日のルパンとの会話を顧みる。そんなはずは……。が返答を逡巡していると、ルパンがふと笑った。
「なんてな。本当は呼んでない。でも今の躊躇い、あいつに何か後ろめたいことでもあるんじゃないのか?」
「根拠のないことを言わないでください」
「ああ、根拠はない。俺の勘だよ。でもな、あの鑑定会のときといい、おまえにはヴァージルを敬ってる様子が感じられねえんだ」
こんなことを言われたのははじめてだった。
がヴァージルを尊敬していると、誰もが考えているはず。
押し黙るに、ルパンは続ける。
「なあ。おまえが協力してくれるんならそのゴヤンはやるし、おまえの望みを聞いてやってもいいんだぜ」
「私の望み?」
ああ、とルパンは頷いて、キッチンに置いてあった灰皿に煙草を押しつける。
「金、宝石、有名絵画
は眉をひそめる。
この人は、こんなふうに宝石やお金で女の人を誘ってきたかもしれない。
「要りません。でも、そうですね
今度はルパンが眉をひそめた。
「そりゃできねえ相談だ」
「そうでしょうね。それなら私もお断りします。他の鑑定士を当たってください」
ルパンはふてくされたようにをじっと見ていたが、やがて諦めたようにふうと息を吐いた。
そして「まあコーヒーでも飲めよ」とに背を向ける。コポコポとカップに湯を注ぐ音とともに、コーヒーの匂いがふわりと香ってくる。
このままルパンと話をしていると、ついイエスと口走ってしまいそうな気がした。この人に協力してもいいかも。そんなふうに思えてきてしまう何かが、ルパンにはある。
湖の底のような瞳の色。その中でも光を失わない強い目。淀みのない口調。頭の回転の速さ。テンポよく返ってくる言葉。胸に響く低い声
こんな人、今までに会ったことがない。わずかな時間で、強烈な印象を放っていく男。
でも、この人は泥棒。犯罪に協力はしたくない。今まで順調に歩んできたものが、崩れてしまうかもしれない。
けれど
いや。ルパンが協力してくれるとは限らない。
それに、これ以上彼のペースにはまってしまうと、抜け出せなくなってしまいそう、……。
「
は思い切ってルパンの背中に声をかける。ルパンは振り向いた。
「コーヒーは結構です。私はこれで失礼しますから」
「おい」
はくるりと後ろを向いて、家の出入り口へと向かう。背後からルパンが足早にやって来る気配がしたが、構わずに歩いた。
「!」
強く呼ばれて、ドアノブに手をかけていたは、頭だけを後ろに向けた。
「どうしても協力は無理、か?」
はゆっくりと頷く。
ぴりっと部屋の空気が一瞬だけ張り詰めたのを感じた。ルパンの調子は今までと変わりはないのに、眼の奥がぎらりと鈍く光ったように見えた。
「なぜ私なんですか?他にも鑑定士は大勢いるのに」
沈黙が降りてくることが怖くなって、は訊いた。静かになれば先ほどの固くなった空気が際立つ恐ろしさがあった。
ルパンは両手を黒いズボンのポケットに突っ込みながら、ゆったりとした足取りでに向かって歩いて来る。
「さっきも言った通りだ。おまえはヴァージルに反抗心のようなもんがある気がしたから、協力してくれるんじゃないかと思った」
に触れんばかりの距離でルパンはぴたりと止まる。
はドアノブを回すことができなかった。
手が動かない。
ルパンの瞳から、逃れられない。
湖の底のような暗い瞳。でもその中心にぎらぎらと燃える光がある
「もうひとつはなあ」
ルパンは腕を伸ばし、ドアノブを掴んでいたの手首を押さえつける。
「時間がないからだ。じつはもう予告状を出しちまってね。今夜伯爵のコレクションを頂きに行く」
「なっ、」
「おまえにはここでおとなしく待っていて欲しいわけだ」
ルパンの顔が近づいてくる。
背中にはひんやりとした硬い扉の感触。目の前にはルパン。
ぐっと身体を押しつけられる。ルパンはそれほど腕にも身体にも力を入れているわけではないのに、抵抗ができない。
ルパンの瞳から目がそらせなかった。ルパンもまっすぐにを覗いてくる。
ルパンはの腕を掴んでいないほうの手で、ひょいと口の中に何かを入れた。何か錠剤のようなもの。
けれども、それに疑問を感じる前に、意識が飛んだ。
ルパンの顔がぐいと近づいてきて
咄嗟のことに、の思考がすべて吹き飛ぶ。反射的に目を閉じてしまった。
温かな唇の感触。煙草の匂い。手慣れたようなキス、……。
ルパンの舌がの唇を割って強引に入り込んでくる。
思わず身体をぴくりと反応させてしまった。
先ほどルパンが口に入れた錠剤のようなものが、の口内に入ってくる。けれども押し戻す余裕がまるでなく、飲み込んでしまった。
それを確認してから、ルパンはゆっくりとから顔を離す。
は息をするのを忘れていた。
身体中に熱が駆け巡っている。
いま、何が起こったの。
ぼんやりとしていると、ルパンが言った。
「コーヒーを飲んでくれりゃあ良かったのに」
「どういう、」
訊き返そうとした瞬間、の視界がぐらりと傾いた。
足に力が入らなくなり、膝から崩れ落ちるのを、ルパンが支える。踏ん張ろうとしているのにできない。
まさか、毒?嫌な感覚が脳裏をかすめるが、その思考も急速に衰えていった。
頭の中も視界も真っ白な靄に包まれていく。
「な、にを……」
意識が朦朧とする合間に訊ねると、耳元でルパンの声が聞こえた。
「単なる睡眠薬だ。悪いようにはしねえよ。しばらく眠っててもらうだけだ」
すいみんやく
「悪いな」
ルパンの言葉と同時に、の意識が途切れた。