#15. REAL FACTS

 

 目を開けると、木造の天井が目に入った。無思考のまましばらくぼんやりした後、は自分の状況を振り返る。
 明らかにいつものように就寝して起床した   というわけではない。思い出すのに、それほど時間はかからなかった。
 やってきたヴァージル。スタンガンを持つ手。そして火の海になった自分の部屋。逃げたいのに身体も意識も動かすことができなかった。もうだめだと思った。なのに、生きている。

 ゆっくりと上半身を起こした。が眠っていたのは使い古されたソファ。ワンルームの部屋。コンパクトなキッチン。見覚えがある。そう、ここは   

 が部屋の中を見回していたとき、出入り口の扉が開いた。二つある扉の、外へと繋がるほう。
 入ってきたのは、鮮やかな青いジャケット姿の男。彼はを認めると、微笑んで扉を閉めた。

「よお。具合はどうだ?」

 ルパン   はルパンの姿を見て、ほっとするような胸が温かくなるような心地を感じた。
 訊ねられてからはじめて、は自分の体調を窺う。服はところどころ焼けてしまっている。手の甲には若干の火傷の痕。顔も少し焼けつくような痛みを感じるから、同じように傷があるのかもしれない。喉と目の奥がヒリヒリする。けれども、大事はなさそうだった。

「大丈夫……です……   あの、ルパンが助けてくれたんですか?」

 意識が途切れる前に、ルパンの声を聞いた気がした。
 「ああ」と答えたルパンは、キッチンへと向かう。何やら紙袋を抱えており、その中身を並べはじめた。缶詰、パン、カップ麺、酒瓶、などなど。そしてやかんに水を入れ、火にかける。

「どうして……助けてくれたんですか」
「命の危険に晒されてる女を助けるなんて当然だろ?」

 それに、とルパンは空になった紙袋をくしゃりと丸めて、足元のごみ箱に投げ捨てた。

「鑑定会でヴァージルの殺気を感じたからな。あれは何かやらかすんじゃないかと思ったんだよ」
「……見ていたんですね」
「ああ。俺のゴヤンがどう鑑定されるか気になってな」

 ゴヤン。鑑定会での出来事を思い出して、は顔をこわばらせた。ルパンの背中にぽつりと呟く。

「あれは……本物の『黒の絵』だと思ったのに……」
「だが、ヴァージルは贋作だと判断した。で、おまえは反論したわけだ」

 は膝下で固く拳を握る。
    ルパンには見られたくなかった。
 不意にそう思った。大衆の前でヴァージルの意見を真っ向から否定しておいて、結果が覆され、大恥をかいた、……。そんな無様な姿を、この人に見られたくなかった。

「冷静なおまえが噛みつくとは予想外だったぜ。ヴァージルが怒るのは目に見えてただろ?」

 そう、わかっていた。あの場でヴァージルに反論したところで、揉み消される可能性が高いということは。
 なぜ口を開いてしまったのだろう。はあのときの気持ちをなぞりながら、ぽつぽつと語った。

「だって   幻の一作ですよ、ゴヤンの。それがあんなふうに一蹴されてしまって……贋作と誤解されてしまうなんて、美術界にとっても大きな損失です……それに、……ヴァージル先生は、ゴヤン以外にも鑑定のミスがあったし……今までにも何度も……それで……堪えきれなくなってしまって」
「へえ。今まで抑えてきたのにあそこで爆発した、ってわけか」

 ルパンはどこか面白そうな調子で言った。に背中を見せてキッチンに向き合っているので、表情は読めない。ガスの火を止め、お湯を注ぐ音が聞こえる。
 ルパンの言う通りだった。今まで堪えてきたのに、どうしてあそこで反発してしまったんだろう。
 どうもルパンに出会って以来、何かがうまくいかなくなるような、調子が狂うような、いつもの自分ではいられないような、そんなことが少しずつ重なっている気がする。
 それなのに、ルパンを憎むどころか、彼の存在を強く感じてきつつある   
 青いジャケットの後ろ姿に「あなたのせいですよ」と投げつけたくなった。
 そのルパンの背中がくるりと回転したので、は少しどきりとしてしまう。ルパンの手にはマグカップがふたつ握られていた。ルパンはこちらに近づいて来て、カップのひとつをソファに腰掛けるに差し出す。

「ほら。今度はコーヒーじゃなくて紅茶にしてやったよ」

 湯気が立つカップの中には、確かに紅茶のティーバッグが浮かんでいた。ルパンのカップからはコーヒーの香りがしたので、わざわざのために買ってきてくれたのだろうか。
 心遣いが嬉しくて、は素直に「ありがとう」と言ってマグカップを受け取った。ルパンはテーブルを挟んでの向かいのソファにどざりと腰掛ける。
 はふうと何度か息を吹きかけてから、カップに口をつけた。熱い液体が身体の血の巡りを促し、少しぼんやりとしていた頭がクリアになっていく。

。おまえ、これからどうするつもりだ?」

 はカップから顔を離し、ルパンを見た。けれども、考えるために再び視線を落とし、手に抱えるマグカップの水面を見つめる。

   まだ何も考えていません……。ヴァージル先生に嫌われたら鑑定会ではやっていけないし」

 は自嘲的な笑みを浮かべる。ヴァージルはを殺したと思っているだろう。火災現場からの遺体がないと知ったら、再度口封じに来るだろうか。ならば、ヴァージルの目が届かない土地で、美術とは縁のない世界で生きていくのが最善か、……。
 は目の前が真っ暗になるのを感じた。前途多難だ。
 せっかくここまでやってきたのに。どうにかしてリカバリーできないものだろうか。でも、どうやって?
 がだんまりと思案しているのをしばらく眺めていたルパンは、口を開いた。

「ヴァージルの鑑定結果が正しいと言っていた研究所の男   あいつ、ヴァージルに金を握らされてる」

 ははっとしてルパンを見る。コーヒーカップをテーブルに置いたルパンは、煙草に火をつけた。

「俺は絵のことはよくわからねぇから、細かいことは知らねえけどな、その責任者が言うには、アルノワールは贋作、ゴヤンは真作だそうだ。つまり、の見立てのほうが正しい」
「そんな……そう、ですか……先生はそんなことを……でも、どうしてルパンがそれを……?」
「責任者の男に“丁重に”訊いたんだよ。おまえが望むなら、そのことを公表させることもできる」

 ルパンはにやり、と笑む。単なる善意で提案してくれたわけではなさそうだった。

   それで……条件は?」
「話が早いな。俺が望むのは一つ。今回の件に協力してくれ」
「今回の件?」
「伯爵のお宝の件だよ」
「諦めてなかったんですね」
「俺は一度盗むと決めたら必ず盗む」

 ルパンは鈍く目を光らせる。

「でも……ターゲットが存在していないんじゃ仕方ないでしょう?」
「いや。伯爵はどこかに絵を隠しているだけだ」

 はじっとルパンを見つめていたが、再び目線を紅茶の上に落とした。

「私を疑ってるんじゃなかったんですか?」
「俺は疑ってねえよ。おまえの鑑定眼も、な」

 とくん。の持つ紅茶が波打つ。

   どうして……?」
「そうだな   、おまえ自身が自分の眼に信頼を寄せてるから、だろうな。それほど自分の眼力に自信があるんなら信じてみたくもなる」

 ルパンは煙草を灰皿に押しつけ、をまっすぐに見た。

「鑑定士ってのは、知識、勘、経験、どれも必要なんだろ?だが、おまえほどの年齢でそう安々と身につくようなもんじゃねえ。それだけ鑑定眼に自信を持てるほどには、な。何か訳があるんだろ?」

 は目を伏せたままルパンの声を聞いた。

。おまえが隠してることをそろそろ話せよ」

 は少し間を置いた後、ルパンを見上げた。

「隠してるわけじゃなく……語る必要がないと、思ったんです」
「でもな、この件はもう、おまえ一人でどうにかできる範疇を超えてるだろ」

 そう。その通りだ。ルパンに洗いざらいを話して協力を仰ぐのが、一番確かな   いや、唯一の残された道かもしれない。
 でも、力を貸してくれるだろうか。彼が求めているのはあくまで伯爵の絵なのだ。
 けれども。この人なら、信じてみてもいいかもしれない。たとえ裏切られても。一度くらいなら、信じてみても。

「そうですね……わかりました。お話します」

 はそっと目を伏せながら、言った。