#26. REAL EMOTION

 

 会場の外は既に日が落ちていた。薄暗い中、街灯を頼りに、は老紳士の姿を探す。遠目からではよく見えなかったが、髪は白く、細身の男性だったように思う。
 会場の入り口付近、裏手に回って探してもみたけれど、見つからない。人違いだったのか。もう去ってしまったのか。諦めたほうがいいと内心ではわかっているのに、は彼の姿を探すことを止められなかった。
 オークションが盛り上がりをみせている最中に、そっと去って行った老紳士。ルパンが変装していたのではないかと直感的に思ったけれど、よくよく考えるとただのゲストだったのかもしれない。
 今更ルパンがロンドンにやってくるわけがない   

 は立ち止まって、空を見上げた。
 ほう、と息を吐く。
 ルパンと出会った頃は、この息が白くなるほど寒い時期だった。
 最後にルパンと別れてから、数ヶ月。
 もっと話がしたかった。
 もっと伝えたいことがあった。
 それなのに、別れ際、何も言えなかった。
 そんな後悔ばかりが渦巻いていた。
 忙しく過ぎる日々の中に、彼の存在を忘れようとしていた。
 それがいいと思っていた。そうできたと思っていた。

    でも、実際は。
 こんなにも強く、ルパンの存在を意識してしまっていたなんて。

 ルパンの姿が見当たらないことと、自分がこれほどルパンに会いたがっていると認めてしまって、は泣きたくなった。

 これ以上傷つかないように、もう諦めようと言い聞かせて、会場に戻ろうと思った。でも、まだその決心がつかずにいたときに、鮮やかな青が視界に飛び込んできて、ははっとした。心臓が大きく鳴る。

「探しものは、もしかして俺か?」

 ルパン。
 は立ち止まり、そっと呟いた。
 ルパンはにやりと笑い、に近づいて来る。
 どくん、どくんと鼓動がうるさくを追い立てた。
 ルパン。ルパンがいる。本当に、ここに   
 何か言わなければ。
 今まで何度も、ああ言えば良かったと、台詞まで具体的に考えていたというのに、本人を目の前にして、何も浮かんでこなかった。口の中がからからに乾いていた。
 ルパンに会えた。
 嬉しいはずなのに、望んでいたはずなのに、まずやって来た感情は驚きと混乱だった。頭が真っ白になった。
 それでも何か口にしなければ不審に思われると、は言葉を紡いだ。

「あ、の……ダヴィンチと   ゴヤンは、……ルパンが?」

 ルパンは立ち止まって、を見下ろす。はルパンを見上げた。

「そ」
「マルチアーノって……イタリアの貴族からの出品だと聞きましたけど」
「まさかルパン三世だと名乗るわけにもいかないだろ。イタリア貴族になりすまして、な」
「てっきりルパンが貴族に売ったのだと思いました」
「オークションに直接出品するのが一番確実で一番カネが入るだろ?」
「そうですね……でも、鑑定士もクリスティアーズの方も大混乱でしたよ」
「そうだろうな。ま、無事真作ってことになって良かったぜ。にしてもトータルで五億八千万、か」

 ルパンは満足そうににやにやと笑った。
 は必死で動揺する心を押さえつけた。
 ルパンと会話をすることで、少しずつ冷静さを取り戻して来る。
 まずは、伝えなければ。今度こそきちんと言わなければ、この先ずっと、後悔する。そう奮い立たせて。

「あの、ルパン」
「ん?」
「ありがとう   ございました。お陰で伯爵の不正を公にできたし、私も鑑定士に戻れました」
「そりゃあ良かったな。おまけにゴヤンにダヴィンチ。ふたつの幻の大作を世に出してやったんだ。美術界の救世主だな、俺は」
「悔しいけど……本当に、そうですね」

 は微笑む。ルパンも笑った。

。おまえ、表情が明るくなったな」
「えっ」

 予想しなかった言葉に、は声を上げる。

「クールな女もいいけどな、おまえは笑ってるほうが似合う」

 は頬が熱くなるのを感じた。取り繕えず、慌ててしまう。

「また。口がうまいんですね」
「でも嘘は言わねえよ」

 穏やかな春の風がルパンとの間を吹き抜ける。
 何か言わなければ、ルパンは去ってしまう。会話を続けないと。
 わかっているのに、話したいことがたくさんありすぎて、は胸が詰まってしまった。
 ちがう。胸が苦しいのは、今度こそルパンに会えるのはこれが最後だとわかっているから。

「じゃ、俺はこれでおさらばだ」

 やっぱり。
 さよならだとわかっているのに、どうしても寂しいという感情が湧いてくるのを止めることはできなかった。
 それでもなんとか「そうですか」と平坦に返す。

「寂しいだろ?」

 心の中をそのまま読まれたかのような台詞に、は動じてしまいそうになる。首を横に振ることで誤魔化した。

「まさか」
「俺の前で嘘はやめたほうがいいぜ。女の嘘は山ほど見てきたからな、すぐわかる」

 どこか得意げなルパン。自慢するようなことじゃないのに。
 女好きで、ずる賢くて、自信家で、泥棒。
    なのに、目が離せない。

「ぜんぜん、寂しくなんかないです」

 きっぱりと言うと、ルパンは唇の端を吊り上げた。

「おやぁ?俺の口づけにうっとりしてたくせに」

 今度は動揺を隠せずに、「してないです!」と声を荒げてしまう。

「睡眠薬のせいでそう見えただけでしょう!あの件、私、結構根に持ってるんですよ!あんなふうに強引に引き止めるだなんて!」

 あんなふうにキスをしてくるなんて。
 は拳を握る。

「悪い悪い」

 ルパンはちっとも悪びれた様子なく言う。
 そして   に背を向けた。
 ああ、行ってしまう。
 は引き止める言葉を口にすることができなかった。それを言ったところで、ルパンがの元に留まるとは到底思えなかった。
 ただ。

「今度はミケランジェロの隠された遺作でも見せてやるよ」

 そう言い残し、背中を向けたまま手を振るルパン。
 鮮やかなブルーのジャケットは、夜の闇に溶けていった。

 

 

 この世界は、いつわりばかりで塗り固められている。
 小さな嘘、相手を傷つける嘘、喜ばせる嘘、隠しごと、作り笑い、不正、偽造、仮面をかぶった人々、……。

 それでも、そのなかでも、“ほんもの”は確かに存在している。
 たとえいつわりだらけの人生を生きてきたとしても、真実の自分を取り戻すことができる。

 そのことを私は、少し癪なのだけれど、あの人のお陰で知ることができた。

 あの人の最後の言葉が本当なのか、嘘なのか、   判明する日は、果たしてやってくるのだろうか。

 ミケランジェロの隠された遺作なんて、あるのかどうかもわからないけれど、それを鑑定できる日を楽しみにしてみてもいいかな、と思う。

 たとえ嘘だとしても、信じてもいいと思えるものがある。

 それは結構素敵なことなのだと、私は気づいたから。