けれども、兄さんは虚ろな目をぐるりと私に向けた。それで生きているのだと悟り、ほっとしたのもつかぬ間。
「ああ……か……久しぶりだな」
私の知っている兄さんは、声にも表情にも覇気があって、明るいひとだった。
でも今は、まったくの別人のように生気がない。
私は呆然としながら兄さんの姿を眺めた。
兄さんの手には酒の入った瓶。その隣には、大量の錠剤が転がっていた。
「兄さん……大丈夫?」
私はほとんど口先だけでそう声をかける。なぜか兄さんに駆け寄ることができなかった。
どうしてこんな姿になってしまったのか
「あのひとは、どうしたの?」
兄さんの恋人の名を告げるが、兄さんは力なく首を横に振った。
「ああ……あいつは半月前に出て行ったよ……ハッ……もう俺に付き合うのは無理だってさ」
兄さんは自嘲的に笑う。
そして、よろよろと隣の棚に捕まりながら、立ち上がった。
「……久しぶりじゃないか……驚いたよ、突然。事前に言ってくれたら、茶のひとつくらい用意しておいたのに」
兄さんの表情は柔らかいはずなのに、私にはどこか恐ろしく思えた。とっさに口をついて出たのは、ごめん、という言葉。
そんな私に「元気だったか?」と訊ねてくれた兄さんに、ようやくまともな返事を紡ぎ出すことができた。
「う、ん……。兄さん、エルヴィン……さんから手紙が届いてたでしょ?返事がないって、心配してたよ」
「ああ、訓練兵団の座学をやってみたらどうか、って話か」
エルヴィン団長が兄さんにそんな提案をしていたとは。
エルヴィン団長も、今の状況を
「それで、おまえはどうしてここに……?」
兄さんの口調は平常通りだったけれど、どこかぞっとするような瞳で私を見た。
私は何も答えられなかった。
「調査兵団の兵服、か……。大方近くで用件があったついでに寄っただけなんだろ。エルヴィンの差し金か……?」
「差し金というか、……心配してるんだよ……」
「心配?違うだろ。あいつは、俺が邪魔になったんだ……ただ席を置いて何の成果も貢献もできていない俺が、調査兵団から邪魔になったんだ……」
兄さんのようすがおかしい。
それは明らかだったのに、私は何もできなかった。何も考えられない。
私の目の前にいるのは、あの明るくて強くてまっすぐだった、兄さんなの。
「それで、おまえがリヴァイだろ……兵士長の」
兄さんが突然、私の斜め後ろに視線と言葉を投げつける。
「ああ」とひと言だけ答えたリヴァイ兵長の、表情や感情は想像できなかった。
兄さんは「そうか」と言いながら、突然声を上げて笑い出した。
「そこは!俺の!場所だった!俺が調査兵団で一番の兵士になって……団長になって……人類を救うはずだったんだ!なのに……」
兄さんは失った右腕を探すように、左手で自分の右半身を抱いた。
「利き腕がなくなったら、何もできないんだ……左腕で代用させようとしても駄目だ……立体機動もブレードもろくに使えやしない……」
「
それまでほとんど沈黙していたリヴァイ兵長が、静かに言った。いつもは粗野な兵長が、言葉を選んでいることははっきり伝わってきた。けれど初対面の人間には、そんなことがわかりはずもない。
兄さんは首を何度も横に振る。
「駄目なんだよ、それじゃあ。俺は兵士にならなきゃ駄目なんだ……巨人を殺さなきゃ駄目なんだ……死んでいった親父や仲間のために……やつらを殺さなきゃ……駄目なんだ」
私が兄さんの背中を追ってきたように、兄さんも父さんの背を追っていた。
そして、目の前で仲間や部下を失って。さぞ自分の無力さを痛感したことだろう。
たぶん
控えめに言っても、兄さんは異常だった。
「……自由の翼」
兄さんがぽつりと言った。そして、今度は私に顔を向けた。
いや、……虚ろな兄さんの瞳は、どこも見ていないように思えた。
「おまえは俺の代わりにそれを身に着けて、巨人と戦ってるんだな……おまえは俺にないものを持っている……右腕も、調査兵団での居場所も、ぜんぶだ!俺は、……おれは……」
兄さんは、寄りかかっていた棚から拳銃を取り出し
「譲ってくれるよな?俺に、腕と、居場所を」
兄さんが銃の引き金を引く。
私は動けなかった。
このままでは死ぬとわかっているのに、目の前の光景を何ひとつ受け入れられなかった。
けれども。
隣にいたリヴァイ兵長が私を右側に突き飛ばし、兵長と私はカウンターキッチンへと隠れる形で倒れ込んだ。
どさりと倒れるときの衝撃で、ようやく思考と身体が動くようになる。
兵長は私をかばうように、私の身体をカウンターの奥へと押しのけた。
その横顔には、傷があった。銃が頬をかすったようで、血が滲んでいる。
兄さんの叫び声とともに、銃弾が部屋を飛び交った。棚に置いてある瓶が割れて、中の液体が辺りに散らばる。棚の木片が弾け飛ぶ。
その銃声が止んだとき、兵長が短く言った。
「悪いが、多少荒っぽくなる」
そう宣言するや否や、兵長はカウンターから飛び出した。
私が驚いてカウンターからその姿を追うと、兵長が兄さんに飛びかかるところだった。兄さんの腹部を蹴り上げ、後ろに回り羽交い締めにする。
鈍い音がして、兄さんは床に倒れた。
意識を失ったようだった。
私は床にへばりついたまま、立つことができなかった。
ただ倒れ込む兄さんの顔をぼんやりと眺めていた。
この一時に起こったことは、いったいなんなのか。
「治療を受けてる医者ってのは、近くにいるのか」
「え?」
私が顔を上げようとすると、兵長のほうが屈んでくれた。私は何度も首を縦に振っていた。
「はい……治療所は、ここから十分くらいのところに」
「なら、呼んでこい」
「え……」
「鎮静剤を打ちゃあ落ち着くだろ」
「そ……そうですね」
リヴァイ兵長は立ち上がる。
私もそれに倣おうとしたけれど、意識と身体の方向性がかけ離れすぎていたせいか、うまく立てなかった。
くらり、と身体が傾くが、兵長が私の腕を取って支えてくれた。
「しっかりしろ。多少おかしくなってるが、ちゃんと生きてる」
兵長に両腕を掴まれて、私ははっとした。
そうだ。
アルコールと薬のせいで混乱しているだけで、兄さんは兄さんだ。
「はい……」
私は何度も頷いて、診療所へと駆けた。

鎮静剤を注射し、兄さんを診療所へと運ぶ。
「何があったんですか?」
部屋の惨状を見た医師が訊ねる。
私はとにかく兄さんが暴れ出して、ということしか伝えられなかったけれど、この有り様を見れば兄さんが銃を撃ちまくったというのは明白だ。
でも。
「あんたは医者だ、見りゃわかるだろ。酒と薬のせいでおかしくなって暴れた。それだけだ」
兵長が有無を言わせない冷静さでそう言うと、医師は、
「……わかりました」
と言って引き下がった。
私はそこで思い至る。
銃撃があったのだ、呼ぶならば憲兵ではないのか。
それなのに兵長は医者を呼べと言った。
「病人はあんたたちに任せていいか?俺たちは上官に報告する」
「ええ、ああ、はい。落ち着いたら、来てください」
医師は私を気遣うように見て、そう言った。
「しばらく治療所に来なかったから、良くなっているのだと思ってましたが……逆でしたね……グレンさんのことはきちんと診ておきますから、安心してください」
「はい……すみません……ありがとうございます」
私は何度も頭を下げて、兵長とともに兄さんの部屋を後にした。
部屋を片付けないといけないけれど、今はそんな気力はどこにもない。
もう空は暗くなっていた。
半月より丸みを帯びた月が、空を照らしている。
私はぼんやりと兵長の背中の自由の翼を見ながら歩いた。
『自由の翼』
兄さんの声が蘇る。
『おまえは俺の代わりにそれを身に着けて、巨人と戦ってるんだな……』
兄さんに会うのを避けていた結果が、これだ。
兄さんの辛さに、歯がゆさに、悔しさに気づけなかった。寄り添えなかった。
私は、兄さんの背中を支えにしてきたというのに。
私は何ひとつできなかった。
それでも。
『多少おかしくなってるが、ちゃんと生きてる』
リヴァイ兵長がそう言ってくれたように、兄さんの右腕はないけれど、生きている。まだ私にもやれることが、ある。
リヴァイ兵長がいなかったら、私は確実に死んでいた。
その後の対応も何ひとつできなかった。
今だって、兵長の言葉がなかったら前に歩くことができなかっただろう。
「……兵長……」
ただ、今は、兵長の存在がありがたかった。
兵長は私を振り返る。その頬には先ほどの銃弾で受けた傷。
このひとに、傷を負わせてしまった。
「……ごめんなさい……」
私が足を止めて頭を下げると、兵長も立ち止まった。
そして。
ため息とともに、ぽんと、頭を叩かれた。
謝るなと、言いたいのだろう。
そうだ。伝えるべきは謝罪ではない。
「ありがとうございました……兵長がいてくれて、良かった」
私の言葉に、兵長は少し目を大きくさせる。
そしてもう一度、今度はがしりと強く、私の頭を叩いた。
どうせ私は口が達者だとまた思われているのだろう。