三章 背中 14

 兄さんは目を開けたまま死んでいるのかと思い、息が止まった。視界がぐらつく。
 けれども、兄さんは虚ろな目をぐるりと私に向けた。それで生きているのだと悟り、ほっとしたのもつかぬ間。

「ああ……か……久しぶりだな」

 私の知っている兄さんは、声にも表情にも覇気があって、明るいひとだった。
 でも今は、まったくの別人のように生気がない。
 私は呆然としながら兄さんの姿を眺めた。
 兄さんの手には酒の入った瓶。その隣には、大量の錠剤が転がっていた。

「兄さん……大丈夫?」

 私はほとんど口先だけでそう声をかける。なぜか兄さんに駆け寄ることができなかった。
 どうしてこんな姿になってしまったのか   そうだ。

「あのひとは、どうしたの?」

 兄さんの恋人の名を告げるが、兄さんは力なく首を横に振った。

「ああ……あいつは半月前に出て行ったよ……ハッ……もう俺に付き合うのは無理だってさ」

 兄さんは自嘲的に笑う。
 そして、よろよろと隣の棚に捕まりながら、立ち上がった。

……久しぶりじゃないか……驚いたよ、突然。事前に言ってくれたら、茶のひとつくらい用意しておいたのに」

 兄さんの表情は柔らかいはずなのに、私にはどこか恐ろしく思えた。とっさに口をついて出たのは、ごめん、という言葉。
 そんな私に「元気だったか?」と訊ねてくれた兄さんに、ようやくまともな返事を紡ぎ出すことができた。

「う、ん……。兄さん、エルヴィン……さんから手紙が届いてたでしょ?返事がないって、心配してたよ」
「ああ、訓練兵団の座学をやってみたらどうか、って話か」

 エルヴィン団長が兄さんにそんな提案をしていたとは。
 エルヴィン団長も、今の状況を   長い間調査兵団に留まり続ける兄さんの現状を、良くないとも考えていたのかもしれない。

「それで、おまえはどうしてここに……?」

 兄さんの口調は平常通りだったけれど、どこかぞっとするような瞳で私を見た。
 私は何も答えられなかった。

「調査兵団の兵服、か……。大方近くで用件があったついでに寄っただけなんだろ。エルヴィンの差し金か……?」
「差し金というか、……心配してるんだよ……」
「心配?違うだろ。あいつは、俺が邪魔になったんだ……ただ席を置いて何の成果も貢献もできていない俺が、調査兵団から邪魔になったんだ……」

 兄さんのようすがおかしい。
 それは明らかだったのに、私は何もできなかった。何も考えられない。
 私の目の前にいるのは、あの明るくて強くてまっすぐだった、兄さんなの。

「それで、おまえがリヴァイだろ……兵士長の」

 兄さんが突然、私の斜め後ろに視線と言葉を投げつける。
 「ああ」とひと言だけ答えたリヴァイ兵長の、表情や感情は想像できなかった。
 兄さんは「そうか」と言いながら、突然声を上げて笑い出した。

「そこは!俺の!場所だった!俺が調査兵団で一番の兵士になって……団長になって……人類を救うはずだったんだ!なのに……」

 兄さんは失った右腕を探すように、左手で自分の右半身を抱いた。

「利き腕がなくなったら、何もできないんだ……左腕で代用させようとしても駄目だ……立体機動もブレードもろくに使えやしない……」
   だが、それでも調査兵団でできることはあるはずだ」

 それまでほとんど沈黙していたリヴァイ兵長が、静かに言った。いつもは粗野な兵長が、言葉を選んでいることははっきり伝わってきた。けれど初対面の人間には、そんなことがわかりはずもない。
 兄さんは首を何度も横に振る。

「駄目なんだよ、それじゃあ。俺は兵士にならなきゃ駄目なんだ……巨人を殺さなきゃ駄目なんだ……死んでいった親父や仲間のために……やつらを殺さなきゃ……駄目なんだ」

 私が兄さんの背中を追ってきたように、兄さんも父さんの背を追っていた。
 そして、目の前で仲間や部下を失って。さぞ自分の無力さを痛感したことだろう。
  たぶん   アルコールと安定剤を大量に服用しているのだと思う。
 控えめに言っても、兄さんは異常だった。

「……自由の翼」

 兄さんがぽつりと言った。そして、今度は私に顔を向けた。
 いや、……虚ろな兄さんの瞳は、どこも見ていないように思えた。

「おまえは俺の代わりにそれを身に着けて、巨人と戦ってるんだな……おまえは俺にないものを持っている……右腕も、調査兵団での居場所も、ぜんぶだ!俺は、……おれは……」

 兄さんは、寄りかかっていた棚から拳銃を取り出し   私に、向けた。

「譲ってくれるよな?俺に、腕と、居場所を」

 兄さんが銃の引き金を引く。
 私は動けなかった。
 このままでは死ぬとわかっているのに、目の前の光景を何ひとつ受け入れられなかった。
 けれども。
 隣にいたリヴァイ兵長が私を右側に突き飛ばし、兵長と私はカウンターキッチンへと隠れる形で倒れ込んだ。
 どさりと倒れるときの衝撃で、ようやく思考と身体が動くようになる。
 兵長は私をかばうように、私の身体をカウンターの奥へと押しのけた。
 その横顔には、傷があった。銃が頬をかすったようで、血が滲んでいる。
 兄さんの叫び声とともに、銃弾が部屋を飛び交った。棚に置いてある瓶が割れて、中の液体が辺りに散らばる。棚の木片が弾け飛ぶ。
 その銃声が止んだとき、兵長が短く言った。

「悪いが、多少荒っぽくなる」

 そう宣言するや否や、兵長はカウンターから飛び出した。
 私が驚いてカウンターからその姿を追うと、兵長が兄さんに飛びかかるところだった。兄さんの腹部を蹴り上げ、後ろに回り羽交い締めにする。
 鈍い音がして、兄さんは床に倒れた。
 意識を失ったようだった。

 私は床にへばりついたまま、立つことができなかった。
 ただ倒れ込む兄さんの顔をぼんやりと眺めていた。
 この一時に起こったことは、いったいなんなのか。

「治療を受けてる医者ってのは、近くにいるのか」
「え?」

 私が顔を上げようとすると、兵長のほうが屈んでくれた。私は何度も首を縦に振っていた。

「はい……治療所は、ここから十分くらいのところに」
「なら、呼んでこい」
「え……」
「鎮静剤を打ちゃあ落ち着くだろ」
「そ……そうですね」

 リヴァイ兵長は立ち上がる。
 私もそれに倣おうとしたけれど、意識と身体の方向性がかけ離れすぎていたせいか、うまく立てなかった。
 くらり、と身体が傾くが、兵長が私の腕を取って支えてくれた。

「しっかりしろ。多少おかしくなってるが、ちゃんと生きてる」

 兵長に両腕を掴まれて、私ははっとした。
 そうだ。
 アルコールと薬のせいで混乱しているだけで、兄さんは兄さんだ。

「はい……」

 私は何度も頷いて、診療所へと駆けた。

 診療所へ行くと見知った医師が対応してくれて、何人かの人手を引き連れてすぐに兄さんのもとに駆けつけてくれた。
 鎮静剤を注射し、兄さんを診療所へと運ぶ。

「何があったんですか?」

 部屋の惨状を見た医師が訊ねる。
 私はとにかく兄さんが暴れ出して、ということしか伝えられなかったけれど、この有り様を見れば兄さんが銃を撃ちまくったというのは明白だ。
 でも。

「あんたは医者だ、見りゃわかるだろ。酒と薬のせいでおかしくなって暴れた。それだけだ」

 兵長が有無を言わせない冷静さでそう言うと、医師は、

「……わかりました」

 と言って引き下がった。

 私はそこで思い至る。
 銃撃があったのだ、呼ぶならば憲兵ではないのか。
 それなのに兵長は医者を呼べと言った。
 
「病人はあんたたちに任せていいか?俺たちは上官に報告する」
「ええ、ああ、はい。落ち着いたら、来てください」

 医師は私を気遣うように見て、そう言った。

「しばらく治療所に来なかったから、良くなっているのだと思ってましたが……逆でしたね……グレンさんのことはきちんと診ておきますから、安心してください」
「はい……すみません……ありがとうございます」

 私は何度も頭を下げて、兵長とともに兄さんの部屋を後にした。
 部屋を片付けないといけないけれど、今はそんな気力はどこにもない。

 もう空は暗くなっていた。
 半月より丸みを帯びた月が、空を照らしている。

 私はぼんやりと兵長の背中の自由の翼を見ながら歩いた。

『自由の翼』

 兄さんの声が蘇る。

『おまえは俺の代わりにそれを身に着けて、巨人と戦ってるんだな……』

    私は、妹失格だ。
 兄さんに会うのを避けていた結果が、これだ。
 兄さんの辛さに、歯がゆさに、悔しさに気づけなかった。寄り添えなかった。

 私は、兄さんの背中を支えにしてきたというのに。
 私は何ひとつできなかった。

 それでも。

『多少おかしくなってるが、ちゃんと生きてる』

 リヴァイ兵長がそう言ってくれたように、兄さんの右腕はないけれど、生きている。まだ私にもやれることが、ある。

 リヴァイ兵長がいなかったら、私は確実に死んでいた。
 その後の対応も何ひとつできなかった。
 今だって、兵長の言葉がなかったら前に歩くことができなかっただろう。

「……兵長……」

 ただ、今は、兵長の存在がありがたかった。
 兵長は私を振り返る。その頬には先ほどの銃弾で受けた傷。
 このひとに、傷を負わせてしまった。

「……ごめんなさい……」

 私が足を止めて頭を下げると、兵長も立ち止まった。
 そして。
 ため息とともに、ぽんと、頭を叩かれた。
 謝るなと、言いたいのだろう。
 そうだ。伝えるべきは謝罪ではない。

「ありがとうございました……兵長がいてくれて、良かった」

 私の言葉に、兵長は少し目を大きくさせる。
 そしてもう一度、今度はがしりと強く、私の頭を叩いた。
 どうせ私は口が達者だとまた思われているのだろう。