三章 背中 16

 ハンジたちと別れ資料室で書類の整理をしていると、モブリットがやって来た。
 彼の上司から捕獲実験の結果をまとめるよう頼まれたらしい。そのための資料を探しに来たのだと言う。

「明日までに……ですよ……この量を」

 モブリットは大量の紙束を抱えながら、泣きそうに言った。

「ご愁傷さま……ハンジが上官だと大変だね……」
「もう慣れました……ハンジ分隊長もエルヴィン団長のように無茶をされないといいんですが」
「エルヴィン団長も無茶は言うよ」
「ええ?」

 モブリットは目を丸くする。
 他の人が到底思いつかないような考え方をする人だ。これまで何度難題を振りかけられたことか。
 もっとも、それはエルヴィン団長が私にそれだけの能力があると思ってくれているからなのだと考えると、誇らしくもある。

「ただ、ハンジはたまに熱くなって周りが見えなくなるけど、エルヴィン団長はそういうことはないから、落ち着いていられるかな」
「そうですよね……」
「一度上官を交換してみたらおもしろそうね。私がハンジの副官をやるから、モブリットはエルヴィン団長の補佐をやってみるとか」
「あ、たしかに。でも私にエルヴィン団長の補佐ができるとは思えませんが」
「ハンジほど突拍子もないことは言わないよ、エルヴィン団長は。思考回路についていくのが大変だけどね」
「なるほど」

 副官同士、モブリットには共感するところがある。いずれゆっくり話をしてみたいと常々思っていた。
 もっと補佐官としての話題を掘り下げたいと考えていると、

「あの、さん」

 モブリットは遠慮がちに、私が並び替えていた資料を指差す。

「それ、上下が逆では?」

 指摘されて見ると、たしかに本の上下が逆になっているものが一冊あった。

「あ……ほんとだ」
「珍しいですね。さんがそういうミスをするなんて」
「ちょっと考え事をしてて」

 私は苦笑する。
 唐突に、胸にはびこる朧気な感情を、誰かに聞いてもらいたくなった。

「あのさ……そのひとと話をしたいのに、そのひとに会いたくない……っていうこと、モブリットにはある?」
「はあ……?」

 モブリットは首をかしげる。

「なぞかけですか?」
「そうじゃないんだけど」
「会いたくない、でも話がしたいというなら、手紙でも書いてはどうでしょうか」
「いや……形に残るからそのほうが恥ずかしいかな……絶対嫌な顔されるだろうし」
「難しいですね。一体誰のことです?」
「あ、……いや、誰というほどのことでもないんだけど」
「ううん……話したいことがあるなら、それができるときにきちんと話をしておくべきだと、思いますよ」

 本当にモブリットの言う通りだ。
 「あの話をしたかったのに」という後悔を、何度も繰り返してきたというのに。
 この残酷な世界では、できるときにできることをするのが、最善だというのに。
 私は一体何に、遠慮をしているのだろう。

「そうだよね、ありがとう」
「よくわかりませんが……疲れているなら、休んだほうがいいですよ」
「モブリットもね」
「そうできれば、そうします」

 苦々しく笑って、モブリットは去って行った。





 あらためて、兵長にこの前の感謝を伝えるべきだ、と思った。
 兄さんとの一件で、私の過去を   触れられたくない部分を兵長に見られてしまった気がして、なんとなく気詰まりだった。
 それと同時に、兄も私も救ってくれた感謝の気持ちが大きくて、兵長の強さや存在感を再確認した。

 私が強ければ、兵長を巻き込むことはなかったけれど。
 あのとき兵長がいてくれなかったら、兄さんの取り乱し様を見てもなお、平然といられただろうか。
 感謝なのか後悔なのか、名前のわからない感情を抱えながら書物を棚に戻していると、ぎしりと床がきしむ音が聞こえる。振り向くと、ミケさんだった。

「……グレンのこと、エルヴィンから聞いた」

 ミケさんは静かに切り出す。

「あいつとはもう二年近く会っていないな。さすがに今回は三人で押しかけるのはやめたほうがいいだろが、近いうちに俺もやつに会いに行こう」
「ありがとうございます。兄さんは幸せ者ですね。ミケさんからもエルヴィン団長からも気にかけられて」
「あいつはエルヴィンや俺と違ってとことん明るいやつだったからな。調査兵団には珍しい輩だ。だから、好かれていた」

 そんな兄さんが、あれほど落ち込んでいた。
 私は先日の兄さんを思い出し、目を伏せた。

「いい加減に見えて、誰よりも真面目なやつだった。だから……かもしれないな。腕も仲間も失ったことは、耐え難かったんだろう」
「そうですね……私も……そう思います」

 兄さんは、一心に父の背中を追おうとしていたのだろう。その願いが叶わなくなったと思いつめてしまった。
 でも。調査兵団にいてはできない、訓練兵を育てるということもできるはずだ。
 私は、エルヴィン団長の提案を兄さんに勧めてみようと思う、と告げると、ミケさんは頷いてくれた。

「ああ、いいと思う。案外向いているかもしれん」

 ミケさんは静かに微笑み、「グレンのことはまた教えてくれ」と言って去って行った。

 ミケさんもエルヴィン団長も兄さんを思ってくれている。
 兄さんは大丈夫だ。きっと立ち直れる。
 その願望は、確信に変わりつつあった。