三章 背中 17


 資料の整理が終わったのは、ミケさんが去ってから三十分ほど経ったころだった。
 次の仕事は壁外遠征に必要な物資を班ごとに振り分けるというもの。比較的頭を使う作業なので、その前に休憩を取り、兵長に話をしに行こうか。

 したい話があるときに、きちんと向き合っておくべきだ。

 兄さんの件で痛感したそんな当たり前のことを、モブリッドとの会話であらためて思い出し、先ほどから兵長へ伝える言葉を頭の中で何度も何度も組み立てていた。
 けれども。
 そのたびに、眩しそうな笑顔を浮かべて兵長を会話をするペトラの姿が頭をちらつき、なぜだか素直に足が運ばない。

 兵長に話をするのは、今度ふたりきりでそういう機会があったときにしよう。
 そう結論づけて、部屋を出ようとしたときだった。

 先ほどから何度も思い浮かべていた当人が部屋に入って来たので、私は「うわあ!」と声を上げて思い切り後ずさってしまった。

「なんだ、人を化けもんみたいに」

 兵長は明らかに不愉快そうな目線を私に投げかける。

「だって……いきなり……兵長が……」

 心臓がバクバク音を立てて鳴り止まない。

「扉が全開なんだ、ノックのしようもねえだろうが」

 いや。兵長の場合、扉が閉まっていたとしてもノックをするか怪しいと思うけれど。
 そんなことを考えながら、お腹でゆっくり息をして、鼓動を整える。
 今日はやけに資料室にひとが集まる日だな。

「兵長が資料室に来るなんて、珍しいですね。何かお探しですか?」
「こんな埃っぽいところで、冗談じゃねえ。するといえばまずは掃除だろう」
「あー、えっと、あいにく私は物資の振り分けをしなきゃいけないので……残念ながら」

 兵長と掃除をするなんて、体力がいくつあっても足りない。
 そんなことよりも掃除をしろと言われるかと思ったが、兵長は「エルヴィンはどこだ?」と言った。
 なるほど、エルヴィン団長を探していたのか。

「エルヴィン団長なら、この時間は団長室にいるはずです」
「いなかったが?」
「え?おかしいな……散歩ですかね」
「補佐が上官の予定を把握してなくてどうする」
「補佐だからって上官のことを何でも理解してるわけじゃないですよ」
「使えねぇな」

 失礼な。言葉が丁寧になるハーブがあったら兵長のお茶に入れてあげるのに。

「お急ぎですか?探しましょうか」
「いや、いい。班の編成について話したいだけだからな」

 特別作戦班のことか。
 私の脳裏には再度、ペトラの笑顔が蘇る。

「……そうですか。それなら、エルヴィン団長を見かけたら、兵長が話があることは伝えておきますね」
「ああ」

 会話の区切りがつき、兵長は部屋を出て行くかと思ったけれど、なぜか私の顔をじっと眺めていた。
 なにか?と訊ねる前に、兵長が口を開く。

「モブリットのやつが、おまえがおかしくなったと言ってやがったが」
「え……?」

 私のことだと気づくのに少し時間がかかった。

「いつも通りじゃねぇか」
「おかしく?」

 私はモブリットとの会話を振り返る。あまり変なことを口走っていないはずだけれど。

「俺はもとからだと言ってやったがな」
「失礼な。私ほどまともな人間がどこにいます?」
「掃いて捨てるほどいる」
「兵長、人を見る目がなかったんですね」
「おまえといいハンジといい、入る時期が同じだと頭の中身も同じなのか?」
「やめてください、ハンジと同じ括りにするのは」

 兵長はフン、と鼻で笑って踵を返す。

 兵長の言葉の内容は置いておいて、いつも通りに兵長と接することができた、と思う。
 先日の兄さんの件から、兵長に私の見られたくないところを見られてしまったというか、決まりの悪さというか、言葉にうまくできない感情が少し渦巻いていた。
 それを取り出してみようとすると、兄さんに会う前に兵長と歩いたエルミハ区の穏やかな町並みや、それ以前の兵長と過ごした記憶、それに相まってペトラの笑顔などが出てきてしまい、わけがわからなくなる。
 ただ、先日助けてもらったお礼は、混乱していた当時にしか伝えていないので、もう一度きちんと言いたい。
 
『話したいことがあるなら、それができるときにきちんと話をしておくべきだと、思いますよ』

 モブリットの言葉が再び頭を過る。
 せめて兄さんとは、今度こそきちんと話をしようと、思った。








 エルヴィン団長と私は、エルミハ区へと向かった。
 調査兵団団長の予定は常に詰め込まれている。商会が今度こそきちんと荷物の手配をしているか確認した後、私たちは早々に兄さんの診療所に向かうことになった。

 兄さんは、どんな様子だろう。
 私は不安でいっぱいだったけれども、それは杞憂に終わり、アルコールも薬の影響もない兄さんの表情は先日よりもだいぶすっきりしていて、心から安堵した。
 エルヴィン団長と私はベッドサイドの椅子に腰掛ける。
 兄さんは私の顔を見ると本当に申し訳なさそうな顔をした。

「エルヴィン、も……よく来てくれた……この前はすまなかったな……いや、謝って許される問題ではないが……意識が朦朧としていた」
「兄さんが無事ならそれでいいよ」

 私はどっと肩の力が抜けた。
 良かった。多少元気はないけれども、いつもの兄さんだ。

「リヴァイ兵士長にも、謝罪と感謝を伝えてくれ」
「……うん」

 私は頷く。エルヴィン団長が口を開いた。

「グレン。少し環境を変えたらどうだ?考えてみたらどうだ、訓練兵団の教壇に立つことを。訓練兵団に事情を話したら、実地経験のある兵士の話は貴重だと快諾してくれた」

 兄さんはエルヴィン団長の目を見ずに、じっと自分の手元を見つめていた。

「兄さん、私もいいと思うよ。兄さんに合っているような気がする。最初は講演みたいな形で臨時で立たせてもらうとか」
「ああ、それもいいだろう」

 私の提案にエルヴィン団長が同意してくれる。

「……少し……考えさせてくれ」

 兄さんはしばらく間を置いた後、そう言った。

「俺は……村で一番の狩り人で、調査兵団の上官だった親父の背中をずっと見ていた。そんな親父や、同期や仲間が殺されて……巨人を殺ることが生きがいだと思っていたし、今もできることならとそう考えている。ただ……直接は手を下せなくとも、俺の技術や意志を誰かに伝えることはできる……な」

 兄さんは静かに語りながら、わずかに泣き出しそうな子どものような表情をした。
 兄さんと私は、同じだった。
 兄さんは父さんを、私は兄さんをずっと追いかけてきた。
 仲間を殺された痛みを巨人への憎しみに変えてきた。
 だからこそ、腕が自由に使えなくなり、さぞかし悔しかったことだろう。

「ああ、結論は急がない。検討してくれ」

 エルヴィン団長は言った。

「ところで、俺の妹はどうだ、エルヴィンよ。おまえの副官なんだろう?団長補佐ってのはずいぶんな出世じゃないのか」

 兄さんが明るい表情になると、エルヴィン団長の顔もほぐれたようになった。

「ああ、はよくやってくれている。俺の足りないところをよく補佐してくれている」
「いや……エルヴィン団長に足りないところなんてほとんどないですけど。一日中たまに飲まず食わずで作業されているので、お茶を持っていったりとか」
「エルヴィンはに生かされてるってわけか」
「そうかもしれないな」

 私たちは、和やかに笑いあった。
 もっとこんな日がくればいいと、思った。







「グレン。最後に確認させてほしい」

 もう退出しようと、エルヴィン団長と私が立ち上がったときだった。エルヴィン団長がそう切り出した。

「おまえは、このまま調査兵団に席を置き続けるか?」

 兄さんは目を細める。じっと考えた後、どこか自嘲的に笑った。
 私はぞっとした。

「俺みたいな出来損ないが名前だけ存在しているのは迷惑か」
   そんなことは言っていない。ただ俺は、おまえの意志を確認したいだけだ。このままでいいのかと」
「いいわけないだろ」

 兄さんはこの日はじめて、はっきりとした怒りを滲ませていた。
 けれどもじっとその怒りを飲み込むように、固く目を閉じた後、再び穏やかな口調で言った。

「だが……そうだな。あと五日、待ってくれ。それまでにすべて答えを出す」
「いや、急がなくていいと言っただろう」
「あまりずるずると引きずっていても仕方ないだろ。そうだ、もっと前に決めるべきだったんだ……」
   わかった。五日だな。そのころに便りをくれ」
「ああ」

 エルヴィン団長は頷いて、部屋を去る。

「兄さん、訓練兵団のこと前向きに考えてみてね。ミケさんも向いてるんじゃないかって言ってたよ」
「ああ、ミケか。懐かしいな……」

 兄さんは遠い目をした。

「なあ、おまえはできる妹だから、調査兵団のむさ苦しい男連中に仕事を押し付けられたりしてないのか?エルヴィンは優しいか?」
「みんな……優しいよ。変わり者が多いけどね」
「そうだな、あそこは変人の巣窟だ。俺たちはまともだよな」

 兄さんは笑い、私も表情を崩した。

「おまえが   俺のようになりたいと言ってくれたのは嬉しかった。だが、今はもう、俺を追う必要はない、よな。調査兵団の中にも強い連中はいるだろ?ミケもそうだし、あのリヴァイという男もそうだ。エルヴィンも」
「どうしたの、急に」

 もしかして、訓練兵団に入ることを真剣に考えてくれているのだろうか。

「兄さんがどんな選択をしても、私の憧れは兄さんだよ。訓練兵団で兵士を育てるのだって、すごくかっこいい仕事だと思う」
「……そうか」

 兄さんは小さく言って、私の頭をがしがしと撫でた。
 髪が乱れるくらいに、強く。兄さんはいつもこうだった。

「親父や俺の後を追って調査兵団に入ったことを、後悔したことはないか?」
「え……ないよ……後悔をしたことは、ない。ただ……仲間が死んでいくのは辛かった。今でもそう」
「そうだろうな。女の……と言ったら怒られるかもしれないが、おまえがよくここまでやってこられたものだと、感心するよ」
「うん……私もそう思う。でも、仲間のおかげ、かな。私が立ち止まってしまいそうなときに、前に進む気力をくれたのは。死んでしまった仲間も、今生きている仲間も」
「そうか……おまえは自分の居場所を見つけられたんだな……。ま、兄貴としては妹に嫁に行って幸せになってほしい気もするが、それはそれで複雑だしな。おまえがやりたいように、生きたいように生きろ」

 もう一度がしがしと私の頭を撫でて、兄さんは言った。

「エルヴィンを待たせたらいかんな。さ、行った行った」

 兄さんに促されて、私は部屋を出た。






「思ったよりも元気そうでしたけど、無理もしていましたね……」

 診療所を出て厩舎に向かう途中、私はエルヴィン団長の背中に呼びかけた。
 エルヴィン団長は振り返らずに「そうだな」と答える。

「兄さんは……訓練兵団の話を受けてくれるでしょうか」
「あいつがどう選ぶか、だな……」
「あまり無理強いはできませんしね」

 エルヴィン団長はしばらく歩いた後、言った。

「俺は、グレンが何を選択しても、それを支持しようと   思う」









 それからちょうど五日後だった。
 兄さんからの便りが届いたのは。