三章 背中 19



 兄さんの便りを受け取ってから一週間後の壁外遠征まで、私は生きた心地がしなかった。
 不安、恐怖、絶望感、あらゆる負の感情が頭の中を渦巻いて、何をしていたかまるで覚えていない。
 かといって。
 壁外遠征当日を迎えた今でも、心がからからに干からびているような気分は、変わらない。

 ウォール・マリアへの補給地点を確保し、各班が目標地点に合流した。
 ひと通り状況を共有し終えた後、ネス班長がエルヴィン団長のもとにやって来る。
 その手には、折れた剣とマント、そして布袋が抱えられていた。
 エルヴィン団長はネス班長の持ち物を確認し終えると、私を呼んだ。袋の中には片腕が収められていて、その手首には、革で編まれた腕輪が付けられていた。

「見覚えは?」

 エルヴィン団長が静かに訊ねる。エルヴィン団長は私の答えをわかっているのだろう。
 この瞬間を迎えて、激しく動揺するかと思えば、私の心は静かだった。

「……私が……子どものころ、兄さんの誕生日に作ったものです」
「そうか」

 エルヴィン団長は身体を失くした左腕から腕輪を取り外し、折れた剣、マントとともに私に渡した。
 片腕は、墓標に使うらしい。

「ネスさん……わざわざ馬から降りて拾ってくださったんですよね。ありがとうございました、本当に」
「いや……役に立てたのなら、何よりだ」

 私は口先だけでしゃべって、お辞儀をした。ネスさんは、「いや」と短く言って、頭に巻いていた布を取り、私に頭を下げ去って行く。

 もうあまりに痛くて痛くて、心臓がどこにあるのかわからない。


 帰路、壁の近くで、巨人の捕獲作戦が実行された。
 リヴァイ兵長率いる特別作戦班と、ハンジ率いる第四分隊の共同作戦。
 私はエルヴィン団長の隣で、巨人が捕まるさまをぼんやりと眺めていた。
 何の感情も持っていなかったのに、唐突に、腹の中から怒りがふつふつと湧いてきた。

 巨人を斬り刻みたい。
 やつらを根絶やしにしたって、この無力感は鎮まらないだろう。
 兄さんだけじゃない。やつらに、いったい何人の仲間を殺されたか。

 巨人との戦闘を回避する長距離索敵陣形も、巨人を捕獲する作戦も、今の私には歓迎できるものではなかった。

 戦いたい。
 やつらを殺してやりたい。
 たとえ刺し違えてでも、巨人を一匹でも葬り去れたら   

『俺が助けてやった命なんだ、無駄にするんじゃねぇ』

 不意に、リヴァイ兵長の言葉が胸に蘇る。

 そう、そうだ。
 私がここで命を散らしたところで、うまくいって一体の巨人を殺したところで、何が変わるわけでもない。
 私がすべきことは、調査兵団に貢献して、巨人の謎を解き明かして、これ以上悲しみを生み出さないことだ   
 それに。
 兵長が傷を負って助けてくれた命なんだと何度も言い聞かせることで、かろうじて平常心を保つことができていた。
 そして、私が死んだところで、なによりも兄さんが喜ばないはずだ、と。

 だから。
 私は。
 生きなきゃいけない。
 生きて生きて生き抜いて、一匹でも多くの巨人をこの世から消し去る。
 私と同じ目に遭う人を、減らすことができるように。
 兄さんと、父さんと、死んでいった仲間たちの無念を晴らすために。

 そんな正義感を抱えていなければ、正常な意識を保っていられない。




 壁外遠征から帰還して数日、兄さんの葬儀が終わった。先日の壁外遠征で亡くなった団員とともに行なわれた。
 グレン・と掘られた墓標の下には、兄さんの片腕が埋まっている。

 兄さんはもういない。
 それでも、陽は昇るし、風は吹くし、夜は来るし、世界は動いている。
 もっと兄さんと話をしておけば良かったと、どうしようもない後悔ばかりが脳裏を貫いてくる。


 私は、エルヴィン団長の指示で、捕獲した一体の巨人の実験資料をまとめる手伝いをすることになった。
 エルヴィン団長は容赦なく仕事を振ってきた。
 たぶん、動いているほうが気が紛れるだろうという配慮なのだと思う。
 まったくもってその通りで、本当にありがたかった。

 ミケさんは、私を見かけると沈痛の面持ちを浮かべ「残念だな」と心から言ってくれた。兄さんの死を悲しんでくれている人の存在は、少しだけ私の心を穏やかにする。


 私は実験を行なうハンジのもとを訪れた。
 そこには丸く大きな目をして、縛られた手をばたつかせている小型巨人がいた。
 実験に立ち会うのはこれがはじめてではない。
 私は、この巨人に相対するたびに、頭に血が昇って気分が悪くなった。
 こいつを殺してやりたい、と思った。
 でも、それは結果として多くの巨人を助けることになる。私が取るべき最善策は、実験をするハンジを補助すること。

、大丈夫かい」

 ハンジが心配そうに私を見下ろしていた。

「顔色が、あまり良くないよ」
「そうかな……?」

 私は少し迷って、数少ない友人には本当のことを告げたくなった。

   ハンジ。私は、今、この巨人を殺したくて仕方がないよ」
「……そうだろうね」

 いつもの調子で、「そんなことやめてよぉ」と言ってほしかった。
 代わりに、私が「そんなことはしないけどね」とおどけてみせた。
 ハンジは苦笑して、しばらく沈黙を続けた後言った。

、きみは少し感情を抑えるところがあるから、もっと発散したほうがいいんじゃないかな」
「そうかな」
「うん。もっと、泣いたり喚いたりしてもいいよ。大事な人が、亡くなったんだから」

 そうできたらどんなにいいだろう。でも、立ち止まって泣いて喚いたりしたら、もう二度と立ち上がれない気がして。
 私はあいまいに「そうだね」と答えた。ハンジは何も言わず、巨人に近づき、挨拶だの天気だのの話をしはじめた。

さん、大丈夫ですか?このところ執務ばかりで寝ていないのでは」

 ハンジがいなくなると、モブリットが気遣わしげに近づいて来る。優しさはありがたく、同時に傷口に沁みるようでもある。

「大丈夫。忙しいほうが今はありがたい、かな」
「そうですか……。あの、手伝えることがあれば言ってください」
「ありがとう」

 ああ。きっと、みんな、痛みを知っているんだ。大切な人を亡くす悲しみを。
 ここには、変わり者で、意志が強くて、優しいひとばかり。
 調査兵団にいる限り、私はやっていける。
 兄さんがいられなかった居場所で、私は   歩いていくんだ。

 団長室の掃除をしていると、リヴァイ兵長がやって来た。

「全然なってねぇ」

 兵長は部屋を見渡しながら言う。

「雑巾がけは?」
「やってません……箒とはたきだけです」
「俺が上官だったらやり直させるがな」
「エルヴィン団長が、兵長ほどきれい好きじゃなくてよかったです」

 兵長といったら、きれい好きを通り越して潔癖症の域だ。塵ひとつ許してはもらえない。
 なんとか掃除の話題をそらせたいと思っていたところ、兵長のほうが話を変えた。

「エルヴィンはどこだ?」
「訓練兵の受け入れが来月なので、その件で打ち合わせをしてます」
調査兵団うちに入りてぇなんてもの好きが、何人いるかだな」
「うーん……今年は優秀な訓練兵が多いらしいので、ひとりでも多く入ってくれたらいいですね」

 「どうだろうな」とため息交じりに呟いて、リヴァイ兵長は書棚に目を向けた。埃が残っているなどと怒られるかとひやひやしたけれど、間を置いて言ったリヴァイ兵長の言葉は、違うものだった。

「おまえは……悲惨な面しやがってるくせに、それでも目だけは前を向いていやがる。昔もそんなことがあったな……なぜだ?」

 昔も。
 もしかして、ウォール・マリア奪還戦の、あの地獄のような戦いのときのことだろうか。
 そういえば、そのときも心が折れかけて、兵長が隣にいた。

「それは……目が前についてるからじゃないでしょうか」

 私が答えると、兵長は無言で睨みを利かせてくる。でも、冗談のつもりで言ったわけじゃない。

「目が前についているから、前に進むしか、ないんです。後ろを振り返ってしまったら、立ち止まってしまったら、もう動けなくなる気がして……調査兵団ここにいられなくなる気がして」
「べつにおまえが調査兵団を辞めようが、責めるやつはいないだろう」
「私は、ここ以外では、生きられないと思います」

 父も、兄も、調査兵団で生きてきた。たくさんの仲間と出会って、失って。
 もう戻れない。
 この悔しさを抱えたまま、巨人と無縁の場所で、安寧に生きていくことなど、できない。

 兄さんもきっと同じだったんだ。
 でも、腕を失い、調査兵団で巨人と戦うことができなくなってしまった。
 だから、半ば自棄のようになってしまって、……。

「私たちが……私ができるのは、失い続けた無念を、途切れさせないことなんじゃないかって思うんです。死んでいった家族や仲間が、死んでしまった意味を、作りたい。壁の外を夢見て死んだみんなの墓標に、無駄死にじゃなかったよって、いつか伝えられるように」

 そう思って前に進まないと、この残酷な世界では、生きられない。

「それに、兵長に恩返ししないと。寝覚めが悪いですからね」

 命を無駄にするなと、あのとき言ってもらえなかったら、私は兄さんの後を追いかけていたかもしれない。
 兵長のように強くなることは難しいだろうけれど、せめて、足を引っ張らない程度には、役に立てたらいいなと、思う。
 兵長は「フン」と鼻を鳴らした。けれども、その眼差しには、以前兄さんと私を助けてくれたときのような、温かさが見えた   ような気がした。

「利息つけて返せよ」
「はい。兵長が抱えきれないくらい返せるように、がんばります」
「なら、まずは掃除だ。雑巾を持って来い」
「え……ええと、ここは団長室なので勘弁してもらえませんか」
「エルヴィンの部屋だから手を抜いていいってわけだな。そう報告しといてやる」
「あー、ええと、私、仕事を思い出しました」
「てめぇ、一生利息まで返す気ねぇだろうが」

 前言撤回。
 兵長に恩を返すには、身体がいくつあっても足りそうにない。