Ⅹ. 色とりどりの世界 ... 1
久しぶりに訪れたフィレンツェは、すっかり夏を迎えていた。照りつける日差しがじりじりと肌に熱をもたらす。おかげで帽子とサングラスを身に着けていても、不自然ではなかった。万が一知り合いに会ったとしても、私だと判る人はいないと思う。
このふた月で、私の傷は大方癒えていた。胸に銃弾の痕は残ったけれど、開いた穴はきちんと塞がった。身体の治癒力に感動してしまう。
体力が戻りつつあった私は、夏の来訪とともに、オスカーさんたちのもとを去ることに決めた。ふたりのお店は居心地が良く、いつまでも彼らの厚意にすがってしまいそうだった。
「いいか。おまえと俺たちはもうこれっきりだ。今回の件は忘れろ」
オスカーさんは最後まで冷ややかな物言いだったけれど、私はすっかり彼の調子に慣れていたので、気を悪くすることはなかった。
それでも、“もうこれっきり”、と言われるのは堪える。もっとも、私のことが他に漏れて、オスカーさんとマルコさんに繋がってしまったら、ふたりに迷惑がかかる。ふたりが診てきた人たちにも。それに、私は、新しい人生を歩んでいかなければいけないんだもの。
「わかって、います。忘れます。誰にもしゃべりません。本当に、お世話になりました」
私が頭を下げると、オスカーさんはふんと鼻を鳴らした。マルコさんが隣で微笑む。
「大丈夫。僕たちは、さんのこと信頼してますよ。口の軽そうな人には、“仕事”の提案はしていませんから」
「勝手に言ってろ」
オスカーさんはそう吐き捨てて、店の奥へと行ってしまった。私はもう一度、頭を下げた。
本当に、ありがとうございました
私の命を救ってくれたこと。新しく一歩を踏み出すきっかけをくれたこと。感謝をしてもしつくせない。
せめて、オスカーさんとマルコさんに恥じない生き方をしたいと、強く思った。
マルコさんがイタリアまで乗せて行ってくれるというので、最後に甘えることにした。マルコさんは、一年に何度か、ミラノやフィレンツェに工具を買いに出かけることがあるのだという。昨日オスカーさんの『修理屋』を出発した私たちは、途中一泊して、フィレンツェへとやって来た。
ああ、懐かしい、
歴史を感じる街に、胸が詰まる。
ひとまず私は、新しい国籍でもあるオーストラリアに渡ろうと思っていた。それから先のことは詳しく考えていないけれど、まずは一番大きな都市であるシドニーに向かうことに決めた。
その前に、フィレンツェのアパートにある荷物を引き取りたかった。アパートの部屋はさっさと退去してしまえとオスカーさんには言われていた。何か月もそのままにしておくのは良くない、と。親戚のふりをして、部屋の荷物や契約を引き払ってしまうことは可能だったらしい。けれど、父さんにまつわるものなど、どうしても勝手に処分してほしくないものがあった。
そのことをオスカーさんに伝えると、渋々ながらも最終的には折れてくれた。そして、“”は死亡したことを大家さんに伝え、適当な名義を作って、私の親戚だと偽り、部屋を借り続けてくれた。後で“”の遺品の整理をしたいので、部屋はそのままにしておいて欲しい、と大家さんには説明してくれたようだった。
何から何まで、オスカーさんとマルコさんには頭が上がらない。
私は事故で亡くなったことになっているのだとか。 オスカーさんに聞いた話だと、私はあの銃撃戦の場にいなかったことになっているらしい。たしかに、新聞やニュースを見ていても、私の名前は見つからなかった。“あいつら”が隠してくれたのだろうと、オスカーさんは言っていた。
私は本当に、オスカーさんやマルコさんや、……“彼ら”にも感謝しないといけないなあ。
今こうして歩いていられるのも、人の助けのおかげなんだ。
私は一歩一歩踏みしめて、フィレンツェの石畳を歩いた。そして、ひとつひとつの風景を目に焼きつけようと努めた。気に入っていた美術館。ポンテ・ヴェッキオ。アルノ川。ヴェッキオ宮。シニョリーア広場。ドゥオモ。街の小道。人々のざわめき。古びた建物。歴史的な匂い。そういうもの、フィレンツェのぜんぶを。
もう、ここに来られる機会はないかもしれない。無我夢中で、最後のフィレンツェを噛み締めた。
私は、この街が大好きだった。今になって、痛いほど感じる。歴史ある建物のなかで暮らしていると、心が洗われた。数々の遺産や古い美術品を残した街。けれども、過去のなかに凍りついた街。
私はここを出て、未来への道を進まなきゃいけない。
大家さんは、“”の親戚と名乗ったマルコさんとその妻の私を、何の疑いもなく受け入れてくれた。大家さんとは二、三度程度しか会ったことがなかったし、髪を切ってパーマを当てて、つばの大きい帽子をかぶって、上品なワンピースを着ている私の正体に、大家さんが気づく気配はなかった。「気の毒だったね」と言って、マルコさんと私を部屋に入れてくれた。
かつての私の部屋。大家さんは、何もかもあのときのまま残してくれていた。
美術館に出勤するために出かけて行って、ベルトリーニに連れ込まれた、あの日のまま。ほんのニ、三か月前のことなのに、もう何年も前のことのよう。
ああ、私はほんとうに遠くに来たんだなあ、と感じた。もうあのときには戻れない。二度と。至極当たり前のその事実が、私の胸を貫いた。
この部屋で、色んなことがあったっけ。ひとりでたくさん悩んで傷ついて、不安になって、喜んで、幸せを噛み締めて。イタリア語を必死に勉強したり、エリザベス一世の絵と向き合ったり……。
私は、ここに残すものと持って行くもの、捨てるものとを手早く分けた。家具と家電は備えつけなので、ここに置いていく。服や装飾品は最低限のものを残して、あとは新しく買い揃えるつもりだった。なるべく今まで身につけなかったようなファッションにしたほうがいい、というマルコさんのアドバイスを受け入れて。雑貨や日用品の類も最小限にして、ほとんどを捨てることにした。パソコンのデータもすべて消して、本体自体も始末。
父さんのコレクションリストは
そして
胸がぎゅっと鷲掴みにされたように痛んだけれど、持って行ったってしかたがない。いつまでも想い出に浸っていたら、前に進めない。私は心を凍りつかせようとした。何も感じずに済むように。
結局持って行くものは、気に入ってここで買った絵を、お土産程度に数点と、最低限の下着や化粧品、日用品、くらいだった。これならば、オスカーさんたちに処分してもらっても良かったかもしれない。けれど、こうして自分の手で捨てていくことで、新しい一歩を踏み出せるような、気がした。
ただ、日本の金庫にある、父さんの美術品だけが唯一の心残りだった。これまでに取り戻すことができた、五点のコレクション。私の銀行口座や貸金庫は、オスカーさんが遺言書をでっち上げてくれて、架空の人物に相続されるよう手続きをしてくれた。お金については、その架空の口座から、裏が取られないように複数のルートで引き出して、別の新しい口座に入れることができた。でも、父さんの美術品は貸金庫に入ったまま、空っぽの口座に入ったまま。いつか取り戻せるだろうか。
荷物をすべて分別し終えて、スーツケースをロックして、部屋を去ろうと立ち上がった。
けれど
もう少し。あと、もう少しだけ、ここの空気を吸っていたい。最後だから。もうこれで、おしまいにするから。
あのソファ。あの椅子。あのテーブル。あのキッチン。あのピアノ。たくさんの想い出が、この部屋に、そしてフィレンツェに詰まっていた。持って行くわけにはいかないから。抑えつけても、あとで苦しむだろうから。ここできちんと、消化させないといけないから。
「マルコさん……もうここで、大丈夫です。もう少しだけ、……ここにいたいので」
マルコさんの背中に、私はそっと言った。マルコさんは、処分する段ボールに、ガムテープで封をしてくれていた。マルコさんは立ち上がって、私を振り返る。
「駅まで送りますよ」
「いえ
感慨深いようが伝わってしまったのか、マルコさんも神妙になって、「わかりました」と頷いた。
「本当に、何から何までありがとうございました。お礼の申し上げようもありません」
「いいえ。仕事ですから」
マルコさんはにっこりと笑う。
ああ、この人懐っこい笑顔、もう見られなくなっちゃうんだな。
そう思うと、寂しさに心が震えた。このふた月、毎日顔を合わせていた明るいマルコさん。口の悪いながらも、気遣いのあるオスカーさん。ふたりに会える日は、もう来ない。私との再会を、彼らはきっと喜ばない。そう考えると、マルコさんと別れがたくなってしまって、息が苦しくなった。
でも、私は前に進まなきゃならないんだ
ぐっと噛み締めて、私は明るく言った。
「オスカーさんにも、よろしくお伝えください」
「ええ、伝えます」
私は差し出されたマルコさんの手を、しっかりと両手で握った。
「お元気で。あなたのこれからの人生が幸多きものでありますように」
マルコさんの言葉に、微笑みを返す。
「ありがとうございます。マルコさんも」
私はソファに腰掛け、ぼんやりと部屋を眺めた。早く見切りをつけて去ったほうがいいという思いと、まだここにいたいという思いの間で揺れていた。ここで感傷に浸ったところで、胸にぽっかりと開いてしまった空白を埋めることはできないのに。撃たれた傷は癒えたけれど、代わりにもっと大きな傷を心に負ってしまったように思えた。
遅かれ早かれ踏ん切りをつけなければいけなかった人間関係とはいえ、こんなに喪失感に苛まれるなんて。
オスカーさん。マルコさん。そして、
長い一生のなかで、死ぬまで付き合いのある縁なんて、多くない。たくさんの人との出会いがあり、そして、別れがある。別れの悲しみに、いちいち落ち込んでいたら身がもたない。乗り越えていかなきゃいけない。
そうわかってはいるのに、胸が押し潰されるような切なさが、消えない。
強くならなきゃ。
ここを出たら、きちんと前を向いて歩いて行くから。
だから、今だけは、もう少しだけは、甘い想い出のなかに身を寄せていたい、……。
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(15.10.3)