Ⅹ. 色とりどりの世界 ... 2
とめどない想いの流れにただ身を任せて座っていると、コンコン、と扉がノックされる音が聞こえて、はっとした。音のしたほうを振り向くと、開かれた玄関に中年の男性が立っていた。人の良さそうな顔。帽子をかぶって作業着のような服を着ている。ややぽっこりとお腹が出ていて、鼻の下には豊かな髭が生えていた。男性は遠慮がちに口を開く。
「あのー、荷物を取りに来たんですが」
「荷物?」
私は立ち上がって、男性のほうに歩いて行く。
「あ、処分するものを引き取ってくださる方ですか?」
「ああ、ええ、はいはい、そうです」
「この箱に入っているもの、全部です」
私は積み重ねられた段ボールを指差す。
「これですね。わかりました。全部で五つ、と。じゃあ運んじゃいますんで」
男性はそう言ってから、私に背中を見せる。けれども、思い直したように振り返った。私の背後に視線を移す。
「あの……どうかしました?」
訊ねながら、何か変なところでもあるかなと、内心ひやりとする。
「ああ、いやね
「ああ。あれは、この部屋の備えつけのものなので、大丈夫です」
なんだ、ピアノを見ていたんだ。私はほっと胸を撫で下ろす。
「そうですか。お客さん、ピアノを弾かれるんですか?」
「え? ええ、まあ。少しだけ、ですけど」
なんだ、ピアノを見ていたんだ。私はほっと胸を撫で下ろす。
おじさんは、「ふうん」と頷いて、少し考えてから、躊躇いがちに言った。
「あのー、厚かましいお願いなんですが
「えっ?」
「いやね、こう見えて私、音楽が好きでねえ。もし聴かせてくださったら、料金サービスしますよ」
私は苦笑する。
「そんな。サービスしてもらうほどの腕じゃないですよ」
「いいんですいいんです。ピアノの音色が好きなんですよ。孫のきらきら星にだって感動しちゃうんだから」
おじさんはにこりと微笑む。
ふと、弾きたいなという気持ちが膨らんでくる。この部屋で、最後に。想い出にそっと蓋を閉めるために。この人懐っこいおじさんになら、聴いてもらってもいいかな。
「わかりました……拙い演奏ですが、聴いてくださいますか?」
「ああ、ありがとう」
私はピアノの椅子に腰かける。おじさんはぱちぱちと拍手をして、どっしりとした段ボール箱に腰掛けた。
私は、目を閉じ、そっと息を吐く。指が自然に動いていた。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第八番、『悲愴』。本当は違う曲を、明るい曲を弾こうと思っていたのに、手が勝手に動いていた。目を開けると、白と黒の鍵盤の上を私の指が滑っていた。
思えば。このフィレンツェで私の時間が動き出したのは、この曲からだった。この曲が終わったら、扉の外にグリーンのジャケットの
それから色々なことがあったっけ。息を呑むほどの美しい夕焼けと、オレンジ色のフィレンツェの街並みを一緒に観た。トスカーナの丘陵を抜けてドライブをして、ディナーを食べて。カプリ島への小旅行。澄み切ったブルーの空と海。雨の島でも、この曲を弾いた。素敵なおじいさんとの出逢いもあった。そして、どんな宝石よりも美しい青の洞窟に入った。
その、あとは。綺麗なピンクのドレスを纏って、ルパンとダンスをした。ヴァイオリンの音色と、リズムと、……ルパンの息遣いと、温もり。ミケランジェロ広場でルカに迫られているところを助けてくれたルパン
ルカに連れて行かれて、もう絶望的かと思われたときも、駆けつけてくれた
それから、……撃たれた私を抱きかかえてくれた。そのときの真剣な表情と声が、ルパンの記憶の最後。
ルパンはいま、どうしているだろう。私のことなんてもう忘れてしまっているかな。
ルパン
「親父さんの絵は盗んでやるから、大船に乗ったつもりでいな」
「に会いたかったから来たんだろうに」
「さっすがちゃーん! ありがとー!」
ルパンの声が、次から次へと頭のなかに蘇ってくる。
「『六月のシエナ』、
「俺も好きだよ、のピアノ」
「じゃ、お姫様。一曲お願いできますか」
「やっと笑った」
「ドレスはよく似合ってるよ」
ルパン、……
「今のは、俺以外の男の誘いに乗った罰」
「、無事か?」
「ごめんな。怖い思いさせて」
「馬鹿やろう! なんだってこんなことを!」
ルパン……。
「」
ルパン。
明るい声、低いトーン、甘い表情、遠くを見る目、無邪気に笑った顔、自信満々の口端、真剣な横顔、
だめだ。私のなかには、こんなにたくさんのルパンがいる。ルパンとの色鮮やかすぎる想い出が。ルパンの面影が。
消えないよ。どうしても、……。
何度も何度も忘れようとしたけれど、どうしたって消えてくれない。
胸が詰まって、苦しくなって、涙が溢れた。止められなかった。
私、前に進めるかな? もう一度、これほど人を好きになれるかな?
涙が頬を流れて、私は演奏を止めて頬を拭う。もう散々泣いたはずなのに、まだ涙が残っていたなんて。
ああ、私ったら、情けない。自分がこれほど失恋を引きずるタイプだとは、思わなかった。
でも。でも、これで最後だから。最後にしなきゃ。
「どうしたんだい?」
気がつくと、おじさんが隣に立っていた。
「ごめんなさい」
涙を拭いきってから、顔を上げ、口を開く。
「ちょっと……思い出してしまって。この街での想い出を。もうすぐここを去るものですから……」
「
おじさんの優しい声に、また涙が溢れそうになる。ぐっと堪えて、頷いた。
「そうですね……とても」
ふと、語りたくなった。押し込めていた想いを。誰にも語ることのなかった気持ちを。言葉にしたかった。外に出したかった。そうすれば、前に進める気がしたから。
「大好きだった人との
私が口を開くと、おじさんは目を細める。
「へえ? 好き、“だった”?」
「
私はおじさんから視線を外して、涙を流さないようにと、眉間に力を入れた。おじさんは、苦笑したように言った。
「泣くほど好きな相手じゃないのかい?」
「でも、……住む世界が、違うんです。はじめからわかっていたんです。望みがないことなんて」
「へぇ
「その人には、恋人のようなすごく素敵な女性がいるんです。なのに女好きで、そのくせ私には興味なんてなくって
ぽつりぽつりと話しはじめると、もう止まらなかった。
「はじめから、手が届かなかった
おじさんが無言でいることをいいことに、私はしゃべり続けた。
「その人が運んでくる、日常から離れたものが好きなんだろ、って……人からは言われたけど……たしかにそれもあるけど……でも、私は
おじさんは、急にこんな話を聞かされて戸惑っているのだろう、ずっと押し黙っていた。どんな顔をしているだろう。呆れているかもしれない。
私は身の上話をべらべらと語ってしまったことが急に気恥ずかしくなてきて、おじさんの顔を見ることができなかった。じっとピアノの鍵盤を見つめる。
「ごめんなさい、こんな話」
「それで、あなたは、どうしたんだい?」
私とおじさんの言葉が重なる。おじさんは静かに私の言葉を待った。私はそっと答える。
「
「なぜ? 自分の気持ちを言わずに?」
「だって……自分の気持ちを言ったら、その人は私の前からいなくなってしまう気がして……言えなかったんです。結局は会えなくなってしまったけれど」
「それでも、忘れられないんだろう?」
私は苦々しく笑う。
「そうですね……だから、こうして“強制的に”、その人の前から消えることにしたんです……」
「それであなた……そいつの気持ちは考えたことあるのかい? 黙ってそいつの前から消えちまって」
「えっ?」
私は顔を上げる。おじさんの優しい眼差しが困ったように微笑んでいた。
「心配してるかもしれないよ」
「どうかな……もう二か月や三か月くらい経つし……忘れていると思います。女の人を口説いたり、“仕事”だったりに忙しいかも」
「ははあ、嫌なやつなんですね。いなくなったあなたをサッパリ忘れて女と遊んでる、と」
「いや、そんなふうに言われてしまうと……私はべつに、その人の何でもなかったわけですし」
「でも、ちょっとは親しかったんだろう?」
「うーん……どうかなあ……ちょっとは、……そうですね……そう思いたいけど」
「だったら相手も、後味が悪いんじゃないのかな? あなたが急にいなくなって」
「どうかなあ」
私は力なく言った。私が“死んだ”ことを、ルパンはどう思っているだろう。多少は気落ちしてくれただろうか。それでも、盗みや女の人を口説くのに忙しいんだろうな。きっとルパンは、立ち止まることなんて、ないだろうから。
「ま、そいつの話はいいよ。あなたのほうはどうなんだい? これで前に進めるのかい?」
おじさんの瞳はまっすぐに私を捉えた。年長者の割に綺麗な目だなと思った。
「自分の気持ちをそうやって押し殺したままじゃ、さ。本当に惚れた相手なら、素直になったら? このままじゃあ、ずーっとずるずる引きずっちゃうよ」
至極もっともなことを言われて、私は目を伏せる。
ルパンに、何も告げずに離れてしまった。お礼も、別れの言葉も、私の気持ちも。
そのことは後悔していた。特に、きちんと感謝をしたかった。それに、最後になるならいっそ、ぜんぶ伝えてふられてたほうが、すっきりしたかもしれない。
そうか
けれど、その後悔は無意味だ。私はルパンの連絡先を知らないんだもの。ルパンに会うすべが、ないんだもの……。
「
おじさんはそう言って私に背を向け歩き出す。そのとき、部屋の入り口に布のかけられた額縁があることに気がついた。
「あれ……?」
思わず声に出してしまって、おじさんが振り返る。さっきまでは、あんな額縁はなかったはず。持って行く絵は、スーツケースに入る大きさで、すでに中に詰めてあった。そうでない絵は、マルコさんにあげてしまっていた。
私がじっと一点を見つめていることに気がついて、おじさんは言った。
「ああ、そうだった。これ、このアパートに入るときに頼まれたんだった。あなたに渡して欲しい、って」
「え……?」
なんだろう。なんだか、胸がざわざわする。
私はその額縁のもとに駆け寄って、膝をつき、布を外した。
どくん。心臓が大きな音を立てて鳴る。
美しいオレンジ色。
手が震えた。口が開いたまま塞がらない。
うそ。まさか。そんな。どうして。
その絵は
私は弾かれたように立ち上がる。おじさんがいなくなっていた。慌てて駆け出す。おじさんの後を追った。階段を下りはじめていたおじさんの背中に声をかける。
「おじさん! 待って!」
私の大声が階段中に響き渡る。でも、そんなことを気にしている余裕はなかった。おじさんは立ち止まって、私を見上げる。
「あれ、あの絵! あれ、どうして……どこで? 誰が……?」
興奮で舌がうまく回らない。手足の震えも止まらなかった。
「ん? 緑のジャケットを着た男だったかな」
まさか、うそ。そんなはずがない。でも、グリーンのジャケットで、しかも『アルノ川の春』を持っているなんて、ルパン以外にありえない。
どうして? その言葉が、頭を埋め尽くす。
私が生きていると知っているの? どうしてここがわかったの?
頭が完全にまっしろになった。どうしてどうしてどうして。その言葉だけが繰り返される。
「そうだそうだ」
動揺と混乱で朦朧としていた私は、おじさんの声に我に返った。
「伝言があったんだった
「うそ」
その場に立ち尽くしてしまった私を尻目に、おじさんは階段を下りて行った。
うそだ。ルパンが。そんな、……。
私は震える足で歩みを進めて、部屋へと戻った。もう一度、絵を眺める。嘘でも幻でもなく、絵はしっかりとそこにあった。まぎれもない『アルノ川の春』、そのもの。美しいフィレンツェの夕暮れ。父さんが愛し、ベルトリーニに奪われた絵。ルパンが取り戻してくれた絵、……。
どうしてルパンはこれを持ってフィレンツェに現れたんだろう? どうして私のアパートに? 私が生きているってわかったの? オスカーさんやマルコさんがルパンに話したの?
ううん、オスカーさんたちがばらすことは、きっとない。それなら、ルパンが気がついたということ? 私の死が偽造だ、って?
ルパンは頭がいい。オスカーさんや私の嘘を見破ることなんて、容易いのかもしれない。
その疑問よりも、それよりも、今は。
ルパン
『絵の場所で待ってる』、……。
もう一度、ルパンに会える。
でも、会ってどうするというの? せっかく忘れようとしているところなのに。新しい人生に踏み出そうとしていたのに。オスカーさんやマルコさんが、ルパンたちとの関係を断つように提案してくれたのに。
けれど、……。
『前に進めるのかい?』
先ほどのおじさんの言葉を思い出す。
私はきっと、このままじゃ
ルパンにありがとうもさようならも、……私の気持ちも、何も伝えられないまま別れたのでは。
最後にひと目でも、会いたい。
こみ上げてきた想いに突き動かされて、私は駆け出していた。
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(15.10.3)