Ⅹ. 色とりどりの世界 ... 3



 あのおじさんがルパンから伝言を受けたのは、いつなんだろう。もしかすると、ルパンはもういないかもしれない。
 早足で、ミケランジェロ広場へと続く坂を駆ける。息が切れ切れ。足がもつれてもどかしい。ヒールの靴なんて脱いでしまいたかった。サングラスをかけたこめかみから汗が滴る。スーツケースと『アルノ川の春』は置いてきてしまった。「すぐに戻ります」という書き置きを残しておいたけれど、大丈夫だろうか。でも、かさばる荷物を持ってはいけない。。
 昼間のフィレンツェ。太陽がじりじりと身体を照らし、背中からも汗が流れるのを感じた。でも、暑さや喉の渇きなんて二の次で、とにかく広場へ急ぎたかった。
 ルパンと下ったときには、この坂が永遠に続けばいいとさえ思っていたのに。今は、延々と続くこの勾配が恨めしい。

 期待と不安。後者が勝ってきたとき、ようやく丘の上に辿り着いた。吹き出してきた汗を、ポケットから取り出したハンカチで拭う。呼吸を整えながら、ルパンの姿を探した。ミケランジェロ広場には、今日も観光客が多かった。

 もういなくなってしまったかもしれない。グリーンのジャケット。すらりと伸びた背丈。ルパンを探すのは難しくないはずなのに、見つからない。ざわざわと心にさざ波が立ちはじめる。私は誰かに見つかるかもしれないという怖れを忘れ、サングラスを外していた。

 神様。どうか、ルパンがいますように。
 決別したはずの想いが、蘇ってきてしまう。
 泣きそうになりながら、胸のなかで懇願した。

    そのとき、雑踏のなかにグリーンのジャケットを見つけて、息が止まった。坂を駆けあがったせいで乱れていた呼吸や鼓動が、一瞬にして静まる。周囲のざわめきが静寂に変わる。私の視界のなかの色は、そのグリーンだけになった。すべてがゆっくりと流れていって、止まった。白黒の写真のように、グリーンだけが際立っていた。
 あの後姿。煙草を吸う立ち居振る舞い。すらりとした身長。忘れられたくても忘れられなかった姿。
 ルパン。
 私はしばらくその場から動けなかった。足が完全に凍りついてしまっていた。
 ルパンは手すりに身体を預けながら、フィレンツェの街並みを眺めていた。
 ルパンが、いる。目の前に   

「……ルパン……」

 大好きなその名前が、口から溢れていた。唇が震えた。今まで言葉を封じ込めていた名前。瞬きも忘れていた。目を閉じたくなかった。もしそうしてしまったら、目の前からルパンがいなくなってしまいそうで。
 火照った頬に、夏の風が吹きつける。風の音だけが、聞こえた。
 数メートル離れた私のつぶやきは聞こえなかったはず。なのに、ルパンは後ろを振り返った。ルパンは私の姿を見つけて、右の口端を上げて笑った。

    ルパン。

 胸がぎゅうと押しつぶされる。目の前がくらりと歪むけれど、ぐっと堪えて足を踏み出した。ルパンのほうへ、ゆっくりと。お互いの声が届く距離になってから、煙草を捨て、ルパンが口を開く。

「もう傷はいいのか?」

 ずっと聞きたかった声。涙が出そうになる。私は頷いて、ルパンの隣に並んだ。
 こうしてルパンとフィレンツェを眺めるのは、三度目。何度も夢に見たかけがえのない想い出のシーン。まさかもう一度、この機会がやってくるなんて。
 何を言えばいいんだろう。頭が回らない。ルパンも何も言わなかった。私はなかなかルパンの顔を見る決心がつかず、フィレンツェの街並みを見下ろしていた。赤茶色やオレンジ色の屋根。時間の止まった街。
 柵に手をかける力を込めて、私はルパンを見上げた。言葉はとっさに思いついたものが出ていた。

「『青の結晶』は、無事……?」
「なんだよ。第一声がそれかぁ?」

 ようやく言葉を絞り出した私を見下ろして、ルパンが苦笑する。相変わらず、まっすぐに見つめ返してくる。

「だって……気になってたの。ヒビが入ってないか、とか」

 私が倒れたときは、ジャケットのポケットに入っていたはず。ルパンに渡したと思うのだけど、あのときの記憶があやふやだったので、ずっと心懸かりだった。ルパンのお祖父さんが大切にしていたものだから。

「大丈夫だよ。何ともない」
「そっか。良かった……」

 私はほっと胸を撫で下ろすけれど、ルパンは眉を寄せていた。

「しかしだな。もしおまえが死んでたら、後味悪くなるところだったんだぜ? あれを見るたびに、冷たくなってくちゃんを思い出しちゃうでしょうに。そのへんわかってるのか?」

 ルパンは冗談めかしく言う。けれども、ふざけているようすはまったくなかった。ルパンの立場になって考えると、そうだろうなと思う。お祖父さんが気に入っていた綺麗な宝石をせっかく手に入れたというのに、それを持ったまま私が“死んで”しまうのだもの。その一部始終を目の当たりにしていたら、後味が悪いだろう。

「ごめん   あのときは、あいつを……ルカを油断させたくて。言われた通り、『青の結晶』を持っていったほうがいいと思って」
「俺はなあ、『青の結晶』のことを言ってるんじゃないの」

 ルパンは眉を吊り上げる。

「なんだってあんな無茶なことしたんだよ」
「あれは……一瞬でも隙を作れば、ルパンたちがなんとかしてくれると思ったから……」
「あのな、」
「ごめんなさい!」

 私は、思い切り頭を下げる。今まで激しく悔いていたことだった。

「私のせいで……ルパンたちが戦えないと思って……いつも助けてばかりだから……隙くらいなら作れるんじゃないかと思って……結果的に、思い切り足を引っ張ってしまったけど……」

 あとから冷静になって考えると、私が何もしなくても、ルパンならあの状況を切り抜けられたかもしれない。余計なことをしてしまったのだと思う。でも、あの場、あの瞬間は、何も考えられなかった。ベルトリーニに捕まりたくなかった。ルパンたちの役に立ちたかった。私の手で、何かしたかった。

「……ごめん、なさい」

 頭を下げたまま、もう一度呟く。ルパンは「頭上げろって」と言った。まだ怒っているのだと思ったけれど、顔を上げたとき、ルパンはため息を吐いていた。

「おまえが隙を作ろうとしてんのはわかってたし、たしかにおかげで転機になったけどな。撃たれてもいい、なんてルカと交渉しやがって、そのとおりになったじゃねえか」
「……うん……」

 ルパンに何を責められても、言い返せない。私は目を伏せた。

   まあ、それは過ぎちまったことだから、今とやかく言うのややめとく。でもな、」

 ルパンは語気を和らげて、続ける。

「俺は残念に思ってるわけ。助けたと思ったちゃんが死んだと聞かされた   でもじつは、“ふり”だったわけだ。恩人の俺たちを騙すようなことしてくれちゃって、ひどいじゃないの」
「あ……それは……どうしてわかったの? オスカーさんたちが言うとは思えないし」
「俺も最初は騙されたよ。ちゃんと墓まで用意してあるんだもんな。でもまあ、……俺様を欺こうなんざ百年早いってわけ」
「そっか、……」
「しっかし、オスカーたちの手際も慣れたもんだったな。“”はちゃーんと死んだことになってるよ。ベルトリーニと組んでたマフィア共も、には辿り着かないだろ。噂じゃICPOが手を入れるって話だからな。   あ、そういえばもう“”じゃないのか?」
「うん。新しい名前も戸籍ももらったんだけど……ミドルネームとして、自分のなかに残そうと思ってるの。本当は顔も変えたほうがいいって言われたんだけど……そこまでは踏ん切りがつかなくて」
「ま、女なら化粧でいくらでも変えられるから大丈夫だろ。今の、前とだいぶ雰囲気違うしな。新しい髪形もいいんじゃないの?」

 出た。ルパンのお世辞なんだか本心なんだかわからない発言。なんだか懐かしくて、表情を緩めてしまった。一方のルパンは顔をしかめる。

「いや、じゃなくてだな   俺たちを騙したのには、それなりの理由があるんだろうな? 五エ門なんて、『拙者の止血の方法が悪かったのかー』って嘆いてたんだぜ」
「五エ門が? そうだ、五エ門と次元も来てるの?」
「話をそらすなっつーの」

 ルパンはぴしゃりと言う。私は「ごめん」と決まりが悪くなった。

「それ相応の理由があるんだろうな? 俺たちを欺くほどの理由が」
「べつに欺こうと思ったわけじゃなくて……ただ、偽るなら徹底的に、って……ルパンたちにも隠したほうがいい、って」
「オスカーにそう言われたってのか?」

 『住む世界が違うんだよ』。そう言ったオスカーさんの言葉が思い出される。でもそれは、ルパンに語る必要のない話、……。私は曖昧に目を伏せる。

「一緒に飯食ったりカプリ島に行ったりした仲だろ? 死にましたなんて嘘、酷いと思わなかったわけ?」

 探るような目つきで見られて、私はルパンから視線をそらす。

「それともなにか? には俺たちが冷たい人間に見えるってのか? 目の前で女の子が死んだってなんとも思わない、って? どーせサッパリ忘れて遊んでるだろうって?」

 私は顔を引きつらせてしまう。そういう気持ちがあったのは、事実だ。

「いや、だって……ルパンたちはたくさんの死地を潜り抜けてきているから、いちいち知り合いの死を嘆いてはいられない、って……」
「って、オスカーが言ったのか?」
「いや……」

 そういうことを話してくれたのはマルコさんだけれど。どうせルパンは私のことなんてすぐに忘れるだろうなって、諦めるように言い聞かせるようにしていたのは、私。

「冷たいなぁ、ちゃん。俺様がーっかり。別れるにしたって、挨拶くらい言ってくれてもよかったでしょうに」

 ルパンは大袈裟に肩を落とし、泣き出しそうな顔までしてみせる。
 別れの挨拶くらいしてもよかった、というのはもっともだ。お世話になっているのに、お礼も言えずに死を偽ろうとした私を、薄情だと思う気持ちも理解できる。けれど、ルパンは本当にそのことを嘆いてくれているのかは少し疑わいい。言動に芝居がかっているもの。
    でも。
 ルパンの本心がどこにあるかはわからないけれど、私自身の本音は、伝えるべきだ。だから、ここに来たのだから。
 そういえば、ルパンはどうして私をここに呼び出したんだろう。もしかしたら、私に文句を言うため? きちんとお別れを言ってくれるため?
 きっと、その両方なのだと思う。ルパンは優しいから。私に苦言を言いながらも、綺麗に別れようとしてくれているのかもしれない。
 これが、別れ。最後のチャンス。それなら、私は、ルパンにぜんぶ伝えるべき。
 先ほど出逢ったおじさんの言葉が蘇る。

『自分の気持ちを押し殺したままで、これから先前に進めるのかい? 本当に好きな相手なら、素直になったほうがいい』

 きっと私は、後悔する。このままルパンと別れたら。結局ずるずるとルパンへの想いを引きずってしまうだろう。私は前に進めない。この街のように、永遠に過去に生きることになる、……。
 胸の鼓動が速まっていく。
 言うんだ。言うんだ、言うんだ。
 これが、最後だから。ルパンが離れていくのが怖いとか、傷つきたくないとか、そんな不安や羞恥心は無意味だ。

 本当に、ルパンのことが大好きだから。
 素晴らしい想い出をくれたルパンに、ちゃんと、言わなきゃ。

 私は、ルパンを見上げた。ルパンは身体を私のほうに向けているけれど、顔はフィレンツェの街を見下ろしていた。
 私は、口を開く。でも、声が出ない。喉がカラカラ。手が冷え切って震えている。息が苦しい。心臓の鼓動がどんどん激しい音を立てる。

 言うんだ。言わなきゃ。
 人生で一番の勇気を、奮い立たせる。

「ルパン、……   あの……」

 私が掠れた声で呼びかけると、ルパンは目だけをこちらに向けた。

「今回、その……私が死んだことにすることで   ルパンや、次元や五エ門に、お礼もさよならも言えないまま別れることになるのは、……辛かった……。ルパンたちにたいして、失礼だとも思った。でも、そうでもしないと……強制的にルパンたちとの関係を断ち切ろうとしなかったら……私は、いつまでもルパンたちのことを、忘れられない気がして……」

 何言ってるんだろう、私。言葉がまとまらない。
 ルパンは顔も私のほうに向けた。右肘は手すりに寄りかかって、私を見ている。でも、私はルパンの顔をまっすぐに見ることができなくて、少しだけ目を伏せた。ルパンのイエローのタイを見つめる。
 だめ。余計なことを色々考えて。遠回しに伝えようとしたって。
 私が伝えたいのは、たったひとつ。
 伝えるんだ。ルパンに。
 私は、そっと息を吸った。

「私   ルパンのことが   好きだった」

 私の耳から、音が消える。風の音も、人の声も、物音も、何もかも。自分の心臓の音だけが、ただばくばくと聞こえた。
 ルパンの反応が怖い。ルパンが何かを言いだす前に、私は続けた。

「ルパンが泥棒だっていうのはもちろんわかってるし、住む世界が違うんだっていうのもわかってたし……ルパンには不二子さんがいるのも、わかってる……。それに、ルパン、女の人が好きなくせに、私にはぜーんぜん興味がなさそうだったから……何度も諦めようと思ってた。でも   ルパンと話すのはすごく楽しくて……一緒にいるのも楽しかった……年に一回でも、会えたらそれで良かった……。何回も何回も諦めようとして、できなくて、その繰り返しだった。だってルパン、ずるいよ   私が諦めようとするたびに、ダンスに誘ったり、助けに来てくれたり、するんだもの……」

 ルパンのネクタイが風で揺れる。。

「でも、   今回、改めて、ルパンとは住む世界がちがうんだ、って目の前に叩きつけられて   いい機会だと思った……。私は、ずっと父さんのコレクションを追うことで前に進もうとしていたけど、……それは結局前進ではなくって……ただすがっていただけだった。ルパンに、何もかも。だから   最初からやり直そうと思って……ルパンの前から消えて、戸籍も経歴も人間関係も、ぜんぶリセットしようと思ったの」

 ルパンはどんな顔をしてるんだろう。目線を上げることが、できない。戸惑っているだろうか、呆れているだろうか。それとも、何も思わないだろうか。

「ルパンたちにも私が死んだことにしていたのは、そういうわけ……」

 ああ、言った。言ってしまった。私の気持ち、ぜんぶ。
 達成感と充実感と不安感が入り混じって、複雑だった。言えた。良かった。でも、ルパンの反応が、怖い。思い切り拒絶されたら、どうしよう、……。
 実際には少しの間だったのかもしれないけれど、この沈黙が、私には果てしなく永い時間に感じられた。その静けさのなかに、ガランガラン、ゴーンゴーン、と鐘の音が鳴り響いた。時間的に正午の時鐘だと思う。フィレンツェに点在する教会の鐘楼が、さまざまなトーンの鐘の音を響かせた。たっぷり、一分程度の鐘の演奏会。
 緊張が少しだけ収まっていくような気がした。言ってしまったのだから、もうどうしようもない、あとはなるように任せるしかない。早鐘を打つ心臓を、思考で落ち着かせようとする。
 私は勇気を振り絞って、視線を上げた。ルパンは身体をこちらに向けて、相変わらず右肘を手すりの上に載せていた。けれども、顔はフィレンツェの街を眺めている。
 かと思ったら突然、「あ、そうだ」と明るい顔を私に向けた。

「これからどこに行くんだ?」

 そんな質問が急にやってくると思わず、私は戸惑う。困惑しながらも、答えた。

「え、えと……オーストラリア」
「オーストラリア? いつ?」
「まだ……決めてないけど……飛行機が取れたら、かな……。とりあえず空港に……ローマに行こうと思ってて」
「ほー。俺もちょうどローマへ行くところなんだ。乗せてってやるよ」
「え、?」

 この展開は、予想していなかった。

「何か予定でも?」
「ううん、……ないけど……でも、いいの?」
「ついでついで」

 ルパンはにんまりと笑う。
 ルパンはいつも通りのようすで、少し安心した。でも、まるで私の告白なんてなかったかのよう。
 もしかして、これって、うまくかわされたのかな、……。
 でも、ルパンともう少しだけ一緒にいられるのは、嬉しかった。

「じゃ、出発するか」

 歩みはじめるルパンの背中に、私は咄嗟に「待って」と呼びかけていた。ルパンは振り返る。

「あと少しだけ   もう少しだけ……フィレンツェの街を、目に焼きつけたいの」

 ルパンは微かに笑って、頷いた。

「しばらく、来られないと思うから」
「いいよ。好きなだけ見てるといい。急ぐ旅じゃないしな」

 私も笑い返して、身体をフィレンツェに向けた。爽やかな空の青。赤茶色の屋根屋根。アルノ川の流れ。ドゥオモのクーポラ。美しい街。大好きだった街、……。
 そして   たくさんの想い出。夕焼け、夜のドライブ、   ルパンのキス……。ルパンの横顔と、煙草の匂いと、温かさ。
 しっかりしっかり胸に刻もう。いつか甘酸っぱい良き想い出として、振り返れるように。

 

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(15.10.3)