Ⅹ. 色とりどりの世界 ... 5
ひまわり畑の間にある小道を抜けて行き、小高い丘の上に出る。そこには一本の木が立っていて、日陰にもなるし、まわりにはひまわりが咲いておらず、見晴らしが良かった。
ここに咲き誇っているひまわりは、私の背丈ほどある大きなもので、嬉々として花を実らせていた。
視界すべてが、ひまわり。その黄色を彩るのが、澄んだ青空。白い雲。とても絵になる美しい眺めだった。銃で撃たれて昏睡状態に陥っていたときに見た光景も、この景色には敵わない。本物の天国があるとしたら、ここなんじゃないかとさえ思った。
「すごいね」
ルパンに視線を向けると、目が合った。ついどきりとしてしまう。
「気に入ったか?」
「うん、……とても。ひまわり、大好きだから」
ひまわり。私の頭のなかに、一輪の小さな黄色い花が浮かんだ。そうだ、あれもひまわりだった。
「私のお墓にひまわりを供えてくれたの
「んん? ああ、まあな」
「でも、あのお墓は空だって気づいてたんじゃないの?」
私が訊くと、ルパンは言いにくそうに目線を宙に浮かせた。
「あー、じつはなー、そんときは気づいてなかった。たまたま近くを通ったから、墓に寄ったんだ」
「そっか……でも、ありがとう。自分のお墓に花が添えられているなんて、不思議な気持ちだったけど、……ひまわり、うれしかったよ」
私は素直に、言った。あのときはそのうれしさが、かえって身を切るようなものだったけれど。
ルパンはすっと前に出て、私に背中を見せて景色を眺めた。ルパンのグリーンのジャケットが風に吹かれ、なびく。
空の青。花の黄色。ルパンのジャケットの緑。
一生忘れられない画になるような気がした。
胸がきゅうと縮こまる。
「
「えっ?」
私はルパンの背中に声を上げる。
「次元とここを走っててな。にも見せてやれたらいいなーって思ってたんだよ」
振り返ったルパンは、穏やかに微笑んでいた。
心がぎゅう、と締めつけられる。胸の奥底からルパンへの想いが溢れてきて、こみ上げてくる。目頭が熱くなって、鼻の奥がツンと傷んだ。
ルパンとまた、素晴らしい景色を見られた。最後にまた想い出を増やせるなんて、思わなかった。
ルパンはやっぱり、ずるいよ、……。
「ひとつ、忠告してもいい?」
「ん? なにを?」
「そういうこと……言うべきじゃ、ないよ。最後に別れようとしている、女の人に」
「」
精いっぱい、ルパンの優しさに抵抗するために、私は言った。
「でもね、私は、大丈夫だから。最後にちゃんと、伝えられたから。ありがとうも、さよならも、……自分の、気持ちも。だから、大丈夫だから」
私は、ルパンにも自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと言う。
私、大丈夫だから。もう前を向いて歩いて行けるから。優しいルパンは、心配しないで。
「今まで本当に、ありがとう。ルパンを好きになって、よかった」
今度はちゃんと、ルパンの目を見て言えた。でも、目頭が熱くなってきて、視界のルパンがわずかに涙で歪む。充実感と、幸福感と、どうしようもない切なさが、一緒くたになって私の涙腺を刺激する。私は目線を少し下げて、涙が零れ落ちないように、目を瞬かせないようにして堪えた。
ルパンのおかげで、私の世界に色が戻ったんだよ。
ルパンが隣にいたから、美しい景色もいっそう輝いて見えたんだよ。
ルパンと一緒だったから、心から楽しかったんだよ。
ルパンと出逢えて、幸せだったよ。
本当に、大好きだったよ。
視界の端で、ルパンはちょっとだけ面喰ったような顔をしたような気がする。しばらく黙っていた。
何度か頭をかいてから、ルパンは口を開く。
「最後にされる前に
先ほどよりも低いトーンの声。私は顔を上げた。ルパンは何かを迷っているように一瞬だけ視線を泳がせて、まっすぐに私を見た。深い瞳。私の大好きな、……。
風が私たちの間を通り抜けて、側の木の葉がさらさらと揺れる音が聞こえた。
「
「……うん」
「最初は……そうだな。同情、してたかもなー。はあんまり笑わなかったし、なのに目には光があって、女の子が苦労してんな、って。気が向いたらちょいと助けてやるか、って思ってたのは、ある」
ルパンの声の合間に、さらさらとした風の音が入る。
ああ、ルパンの“答え”が聞けるんだな、と思った。でも、聞きたくない。聞かずにこのまま別れたい。そんな気もした。
「でも、と話すのは俺も楽しかったよ。飯に行くのもな。おまえは頭がいいし、聞き上手だし、目が綺麗だ。だんだん笑うようになってきたし、な。嫌いじゃなかった。ただ、女として惚れてるのとは違う」
「……うん、……」
私はそっと目を伏せた。風になびく髪を耳にかけるふりをして、さりげなく、ルパンのイエローのタイを見つめる。
もう何を言われてもいいと覚悟をしたつもりでいたのに、やっぱり、堪える。『女として惚れてはいない』、か。
でも、そんなことはとうの昔にわかりきっていたはず。
ルパンは、しばらく間を置いて、続けた。
「でもなあ……このイタリアで、色んなを見て
私は声に出さずに呟いて、思わず目線を上げてルパンを見てしまった。ルパンは、いつも通りの、心のなかでは何を考えているのかわからない微笑を浮かべていた。
ルパン。いま、なんて言ったの?
「そのあとに、が死んじまって
ルパンの声が遠くに響いているような心地がした。ルパンの会話は、どこに向かっているんだろう、……。
「んで、まあ、何が言いたいかというとだ」
ルパンはまっすぐに私を見る。
「俺は、おまえの傍にはいられない。世紀の大泥棒様だし、ひとつのところに留まりたくない」
ああ、やっぱりそういう結論なのか。
心が塞ぎかけたとき、ルパンは、ゆっくり私に近づいてきた。
「それは、もわかってるんだったな?」
ルパンの瞳のなかに、溺れてしまいそうだった。深い色。黒のような濃いブルーのような。
私はかろうじて、一言だけ発することができた。
「うん、……」
「それでも一年に何回か会えればいい、と」
「……うん……?」
「なら、これまで通りといこう」
ルパンの言葉が信じられなくて、何度も目を瞬かせてしまう。
「え……?」
「ただ、親父さんの絵の件は抜きだ。それはもう終わり」
ルパンは片目をつぶる。
ルパンの言葉の意味が、把握できない。唖然としてしまった。
「で、でも……これで最後なんじゃ、なかったの……?」
「俺はひと言もそんなこと言ってないぜー? それとも何か、ちゃんは俺に会いたくないと?」
私は「そんなこと」と強く首を横に振ってしまう。ルパンは満足そうに笑った。
「でも……ルパンとは、……住む世界が違う、って……だから、最後にしなきゃって」
「ああ。俺もそうしようと思ってた。でもなあ、気が変わった。俺の勘が告げてるんだよ。とはこのまま別れないほうがいい、ってな。俺の勘はよーく当たるんだ。それに、いいだろ? 互いの世界がちょっと交わるくらい。泣くほど好きなんだろ、俺のこと」
私は顔が熱くなるのを感じた。本人にそんなふうに言われてしまうと、何も答えられない。
それに、癪だけど、動かしようのない真実だった。
「なんだか……うそみたい……もうルパンには会えないと思ってたから……」
「嘘じゃねえって。なんなら信じさせてやろうか?」
ルパンはどこか挑発的に目を細めて、私の顎を引き寄せる。ルパンの顔が近い
今度は一瞬じゃなくって、煙草の匂いとルパンの温もりを確かめる余裕があった。
私は目を閉じた。胸がどきどきして、息ができなくなるくらい、優しくて甘いキス。
ルパン
何度も何度も、大好きなその名前を、心のなかで呟いた。
胸が苦しい。でも今は、切なさとか不安のせいじゃない。突然にやってきた幸福感のせい。
ルパンはそっと私から顔を離して、代わりに右手で私の頭を抱き寄せた。私はルパンのジャケットに顔をうずめる。ルパンの匂い。煙草と風と太陽のにおい。
涙が出そうになる。ルパンが、傍にいる。手の届く距離に。すぐ近くに。
私は両手をルパンの背中に回して、ルパンの存在を確かめた。
これが夢なら、永遠に醒めないでほしい。
これが現実なら、永遠にこの時間が流れていてほしい。
泣きたくなるくらいに強く、そう思った。
「のいなくなった穴は
そう耳元で聞こえたルパンの声は、風のなかに消えていった。幻のように、遠くに。

top | back | epilogue
(15.10.3)