エピローグ
オーストラリア、シドニー。
私が当面の間、腰を落ち着ける場所に選んだ土地だった。さまざまな国籍の人が暮らす大きな都市だし、住んだことのない場所だったというのが主な理由。
フィレンツェとは百八十度違う都会的な雰囲気や、オーストラリア英語の訛りやスラングに最初は辟易したけれど、少しずつ慣れつつあった。高いビル群やコンクリートの多さにはまだ馴染めなくて、フィレンツェがたまらなく恋しくなることもあるけれど。ただ、都会のなかにも自然や歴史的な建物があって、ほっとできるスペースがあるのは良かった。
特に、考古学を学び直すために通いはじめた大学。市街地にありながら、そこだけ時代から切り離されたような、昔の教会のような佇まいは気に入っていた。
イタリアとは季節が反対のシドニーは、冬が終わろうとしていた。けれども風はひんやりとしていて、吹きつける冷たい風に身を強張らせる。寒い休日だったけれど、こんな日でも、私は散歩が好きだった。
お気に入りは、ハーバーブリッジとオペラハウスを同時に眺められる、海沿いの遊歩道。ジョギングする人、犬の散歩をする人、抱き合うカップル、写真を撮る観光客。たくさんの人が、思い思いに過ごしていた。
私はベンチのひとつに座り、先ほど買ったホットコーヒーをすする。熱い液体が喉を通って、お腹から身体を温めてくれた。
フィレンツェを離れてから、もうすぐ三か月。
イタリアでの最後の日。あの日のことを、私は一生忘れないと思う。どこまでも広がる青空とひまわり畑の黄色。そして、ルパンのグリーンのジャケット。あのときのルパンの言葉、温かさ、匂い、風の心地、ぜんぶ。
あのときルパンに会えずにオーストラリアに渡っていたらと考えると、ぞっとする。きっと今ごろ、後悔や甘い想い出に捕らわれて、日々を過ごしていたと思う。
でも
あのときのルパンの提案は、未だに実感がない。あれでルパンと会えるのは最後だとばっかり思っていた。それが、そうはならなかった。といっても、今までルパンに片思いをしていたころと、何も変わっていない。だいたいルパンの女好きは変わらないし
前途洋洋とは、とても言えない。結局ルパンが私のことをどう思っているのかは、わからずじまいなのだし。
けれど、私の心は昔とは違っていた。父さんとおじいちゃんの死ばかり引きずっていた私。何かにすがっていなければ、前を向いて歩けなかった。ルパンへの想いにたくさん悩んで、不安になって、嫉妬して、傷ついて。そればかりに囚われていた。
それでもたしかに、ひとりの男性を心から愛することができた。そういう人に出逢えた。その人に想いを伝えることができた。そのことで、私は一歩、大きな一歩を踏み出せた。少しだけ違う私になれた。そんな心地。
私が愛した人は、世界に名の知れた泥棒で、女好きで、自由を愛し、退屈を嫌う人。
私の世界を色とりどりに染め上げてくれた人。
最後にローマまで送ってくれたルパンが、別れ際に言った。
「がどこにいても、俺が見つけてやるから」
私はただ自分の進みたい道を進むだけ。その道がルパンと重なる日を、楽しみにして。
「恋人でも待ってるんですか?」
ぼんやりともの思いにふけっていると、男性の声が近くで聞こえてはっとした。見上げると、ブルーの清掃服を着て、つばの長い帽子をかぶっている男性が横に立っていた。
「いいえ、そんなんじゃないです。ただの散歩です。そんなふうに見えます?」
「ええ。見えますね」
清掃の男性は、馴れ馴れしく私の横に腰掛ける。
「惚れた相手を想ってるような、そんな目をしてらっしゃる」
でも、ここにいるはずがない。昨日の新聞に、フランスの美術館から骨董品を盗んだって書いてあったもの。
ルパンのことを考えていたから、何もかもルパンに重ねてしまうのかな、……。
男性は足を組んで、言った。
「待ち人がいないなら、一緒に食事でもどうです?」
「ううん、どうしようかな……やめておこうかな」
「へえ。よっぽどその想い人がいい男なんですねぇ」
「さあ……どうでしょう。格好つけたがりだし女の人は好きだし、気まぐれだし」
「でも、惚れてるんでしょ?」
「どうかなぁ。その人より素敵な人が現れたら、わからないな」
私は探るように男性の顔を見る。でも、帽子で隠れてしまって表情が見えなかった。ただ、口元は笑みを浮かべている。
「いるんですかね、そんなやつ」
「たくさんいそうです」
微笑んで答えると、一瞬男性は口元を強張らせた。
「
男性は私の言葉を聞いて満足そうに頷く。
「そりゃまあ、一生出会えないでしょうね」
私は答えなかった。男性は帽子をゆっくりと脱ぐ。
「で、今晩、どうですか? 食事でも」
「
私は笑って、頷いた。
The End...
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(15.10.3)