Ⅱ. はじまりの記憶は赤とネオン ... 4



 いつもより早く目を覚ました私は、いつもより少し長く服を選ぶ時間がかかり、いつもより少し丁寧にメイクをし、いつもより少し念入りに髪をセットした。このときは無意識だったと思う    ううん、意識を向けないように、意識をしていた。今振り返ると。
 この日はルパンと食事をする予定があった。それを楽しみにしていると、気づかないようにしていた。

 前の日も、そしてこの日も展示会で忙しかったはずなのだけど、何をしていたかほとんど覚えていない。早く時間が過ぎないかと何度も腕時計を見た。父さんがプレゼントしてくれた、ピンクゴールドの腕時計を。
 父さんの絵を取り戻せるという期待、不安。そして、あの不思議な夢のようなドライブの晩を、頭の中で何度も反芻させ、胸が高鳴っていた。時間が経つにつれ、ルパンとの約束を心待ちにしている、という気持ちを押し隠せなくなっていった。
 久しぶりだなあ。こんなふうに誰かと会うことを楽しみに思うなんて。

さん、今晩空いてない? 一緒に飲もうよ」

 休憩時間に同僚が誘ってくれたけれど、私は予定があるからと断った。

「えー、なになに、デート?」
「ええっ? 全然、まったく、そんなんじゃないって」

 そう、断じて違う。あの人を恋愛対象として見てはいけない。第一に、あの人は泥棒。第二に、女の人、しかも美人が好きなようだから、私は眼中にないのだと思った。恋をしても叶うはずがない。好きになちゃいけない。はじめからそうわかっていたのに    
 思い切り否定する私に、同僚は怪しいなあと言いつつ、他の人を誘って仕事に戻っていた。


 お手洗いで髪とメイクを整え、心なしか急ぎ足で博物館を後にすると、外に赤いジャケット姿はなかった。春の夜の少し冷たい風が心にまで吹きつけたような気分になった。
 そう、あの人は泥棒。しかも世界的に名が知れている。私のような女ひとりとの食事の約束なんて、反故にする事情も理由もあるだろう。何を期待してたんだろう、……。
 一瞬、地の果てまで落ちていきそうになったけれど、歩みを進めていくとひとりの男の姿が目に入った。夜の闇に溶けてしまいそうな色のスーツ。同じ色の帽子を目深にかぶった男性が、煙草を吸って立っていた。

     次元。

 私はびっくりして立ち尽くしてしまった。彼が、なぜここにいるのだろう。
 次元は私に気がつくと、煙草を投げ捨て足で火を消し、「ついて来い」というように顎を引いた。戸惑いながらも、あたりに見知った顔がないことを確かめて、私は次元の後を追った。念のために少し距離を開けてついて行くと、次元は一台の車に乗り込んだ。この前ルパンの乗っていた車とは違うもの。国産メーカーの2ドアタイプのセダン。ルパンも次元もコンパクトでシックな車が好きなのかなと思った。
 乗って良いものか少しの間迷ってから、恐る恐る助手席の扉を開けた。

「あの……」
「乗れ。出るぞ」

 次元がエンジンを掛けたので、私は慌ててシートに滑り込み、ベルトを締めた。
 車が走り出してからも、次元は何も言わなかった。居心地が悪かった。とうとう沈黙に耐えかねて、私は訊いた。

「あの、ルパンは……?」
「あいつは“女”に会いに行って遅れる。だから俺が来た」

 女。心がざわりと揺れた。ちょっと裏切られたような気分になる。私との約束があるのに、と。でも、向こうのほうが先約かもしれない。動揺を気取られないように、私は言った。

「それは、どうも……わざわざありがとうございます」
「ま、俺も現場を見ておきたかったからな」

 次元がどういう人か計りかねていた私は、おそるおそる話題を選んで話を続けた。

「何か、わかりましたか?」
「たしかにあれは、“楽勝”だな。今回の件がなかったら一瞬で終わってただろ」

 次元は鼻で笑う。再び沈黙が続いた。
 次元はルパンとは違って無口なタイプなのかな、と思った。いや、でも、お互いほとんど初対面どうしだから、これが普通なのかもしれない。ルパンは話好き、というよりも、話を聞くことも会話を続けることも上手いから、昨日はすらすらと話ができていたけれど。本来、私もおしゃべりが好きというタイプではなかった。
 ぎこちない雰囲気、心地が悪いなあ。私はぐるぐるひとり内心で思考を巡らせていた。けれども赤信号で止まったとき、この空気を変えるために、質問をした。

   ルパンが会いに行っているのは、恋人、ですか?」
「いや、違うな」

 べつにこの質問に意図はない。ただ、他に話題がなかったから訊いただけ。それなのに、次元の答えにどこかほっとしてしまった。でも、恋人でもない女性に会いに行くなんて、……。

「ルパンって、本当に女好き、なんですね」
「ああ、そうだ。呆れるくらいにな」
「えっと……それじゃあ、昨日言っていた不二子さんという人が、恋人……?」
「やけにルパンのことを知りたがるな」

 次元はちらりと横目で私を見る。たしかに些細なことを聞きすぎてしまったと、思う。私は首を横に振った。

「不二子さんという人のことが気になっただけです。この前、話に出てきたから。次元さん、言っていましたよね。不二子さんとルパンに散々振り回された、って。それで、私の顔を見るなり『女が関わるなら降りる』って言っていましたよね」
「悪かったな」

 次元はそう言って、運転席の窓を半分くらい開けた。私もそれを見て、少しだけ助手席の窓を開ける。冷たい春の夜の空気が入り込んできた。ひんやりとした中にも暖かさを感じる。車内の居心地の悪さも少しずつ入れ替わっていくような気がした。

「不二子は……ルパンが勝手に入れ込んでるだけだ。もっとも、やつが本当に惚れてるんだかは知らんし、知りたくもない。不二子は俺たちの側についたと思ったら、大抵は裏切りやがる。にもかかわらず、ルパンは不二子を受け入れる。ま、楽しんでるんだろうな、やつも。不二子の依頼もたまには退屈凌ぎになる」

 裏切られても受け入れる。そんなの、よほど好きじゃないとできないじゃない。そう思ったけれど、次元の言い方だとルパンと不二子さんの関係がよくわからなかった。
 いやだ、私。何をこんなに気にしているんだろう。
 いつの間にか車は首都高の入り口を通り過ぎ、下道を走っていた。

   ルパンのやつを気にしてるようだがな、あいつに惚れると苦労するぜ?」

 私は頬が紅潮するのを感じた。顔を歪めてしまいそうになるのを懸命に堪える。

「そんなんじゃないです。ただ、気になっただけで。それに、私……見込みのない勝負はしない主義なんです」

 次元は「ほお?」と興味深そうな声を上げる。

「ルパンって、女好きで、しかも美人でスタイルがいい人が好き、ですよね?」
「よくわかったな」
「私の同僚に声をかけていたみたいで、その子たちみんな綺麗なんです」
「なるほどな。ああ、そうだ。顔とスタイルのいい女には見境がねえな、あいつは。まったく、質が悪い。あいつがちょいちょい女からの依頼   なんて呼べるまともなもんじゃないが   そいつを受けてくるんで、俺たちがとばっちりを喰らうことも多い」
「へえ? ルパン、私には『俺は自分のためにしか盗まない』とか言ってたのに」
「はっ。やろう、格好つけやがって」

 次元は吐き捨てるように言う。

「……ともかく、私はルパンの好みじゃないことはわかっているし、わかっていながらルパンを好きになることはしません」

 そう。私は美人でもスタイルがいいわけでもない。そのくらい自分でわかっている。ルパンが私を好きになることはない。そうわかっていたのに、……。
 「そうかい」、と次元は興味がなさそうに呟いた。

「でも、少し疑問なんです。そんな私の依頼を、ルパンはなぜ受けてくれたのかなって」

 なぜルパンが父さんの絵を盗もうとしてくれたのか、まだどこか腑に落ちなかった。

「そうだな……。ひとつは、あいつ自身が言っていたように楽しみのためだろうよ。全部盗んでやる、ってな。そのついでさ。もうひとつが   

 次元は煙草をくわえ、片手で火をつけながら言った。

「あんたの目、だとよ」
「私の……目?」
「あいつは    あんたの目を放っておけなかったんだとよ」

 目。そういえば、五エ門にも言われたのだった。父さんが殺されたことを、私の目を見て言い当てた五エ門。

「私……そんな酷い目をしてますか?」
「そういうわけじゃないだろ」

 このことについて、次元にもっと訊きたかったけれど、次元が先に続けた。

「悪いが、あんたの親父のことを調べさせてもらった。あんたにハメられる可能性も否定できなかったんでな。俺はルパンと違って、女は好きじゃないし信用もしてねえ」

 それまでよりも少し低いトーンで次元は言う。

「あんたの親父   去年、ニューヨークの路地で撃たれたそうだな」
「……そうです」

「新聞じゃ通り魔の仕業だと書いてあったが」
「はい……。そうなのかも、しれません。でも、それじゃ納得できなかったんです。父が死んですぐに、父の所持していた美術品がすべて奪われてしまって。ブローカーに、不正に美術品を集めていたと言いがかりをつけられて。話ができすぎていると思ったんです」
「つまり、ブローカーが犯人なのか?」
「私は、そう考えています。でも、調べても全然辿り着けなくって」
「まあそうだろうな。闇ブローカーなら奥が深い。一般人は裏社会には手を出せないだろうよ」

 次元の言い方では、次元たちも裏社会の人間ということ。
 それは、薄々感じていた。そもそも泥棒という時点で普通ではないし、彼らのまとう雰囲気が、普通の人とまったく違うから。
「もし犯人が分かったら   どうする?」

 次元はそう訊いて、車を停めた。気がつくと薄暗い場所に来ていた。街灯が少ない、建物と建物の間の駐車場だった。

「そう、ですね……まず真実が知りたいので……その望みは叶ったことになります。でも、もし私に力があったら   何かしら鉄槌は下したいですね……できないだろうけど」
「復讐、か?」
「本当は、そうしたい気持ちもあります。犯人も、警察も、父の美術品を奪ってきたブローカーたちも……みんな、憎いです。でも、相手は多すぎるし大きすぎるから、復讐をするにも私の命がいくつあっても足りないです」

 私は苦笑した。
 はじめは、犯人やブローカーがとにかく憎くて、復讐したいという気持ちが強かった。相手を憎むことで、悲しみや虚しさに押しつぶされないようにしていた。でも、調べていくうちに、父さんを襲ったのは何か巨大で深くて、私には入り込めない世界の仕業だということはわかった。だから、復讐は諦めるしかなかった。
 憎しみの代わりに、私は何か目標を持ちたかった。

   だからせめて、父の絵は取り戻したいと思ったんです」

 そうか、とだけ次元は言って、エンジンを切りキーを抜いた。

「辛気臭い話をして悪かったな。着いたぞ」

 

 次元の後について、煉瓦造りの建物の裏手に回る。街灯はひとつしかなく、ちらちら点いたり消えたりしているのでかなり薄暗い。けれども次元は何の迷いもなく進んで行き、私は暗い足元のなかを早足で歩かなければなかった。
 やがて彼は木製の扉の前に着き、戸を押した。

「気をつけな。階段がある」

 中も薄暗いけれど、下の方から光が漏れている。下へと続く階段があるのだろう。次元はすたすたと階段を下りて行き、私も壁に手をつけながら後に続いた。
 階段を下りきると再び扉。次元は扉を開け、私も彼の後について中に入る。
 ここはいったいどこなんだろう。煉瓦の壁、カウンター、落ち着いたオレンジ色の照明。バーのようだった。
 お客さんは誰もおらず、バーカウンターの中でマスターらしき初老の男性がコップを磨いていた。

「よお、マスター」
「次元か。久しぶりだな」
「ルパンは?」
「奥にいる」

 次元はカウンターの前を進んで行く。ぼんやりとあたりを見渡していた私は、慌てて後を追った。マスターがちらりと私に視線を投げかけたけれども、何も言わなかった。
 店の中にはいくつかテーブル席もあったけれど、いずれも空だった。このお店、経営的に大丈夫なのかなあと余計な心配をしてしまう。
 店の一番奥の席に、彼はいた。どこにいても目につく赤いジャケット。
 その姿を見て、不覚にも心が一段階華やいだ気がした。

 

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(15.7.10)