ルパンは早速、次の日に『エリザベス一世の肖像画』を持ってきた。絵は、私が思っていたよりも状態の良い油彩画だった。ところどころ油絵具の浮彫や剥落、傷があるのと、色褪せている部分がある程度。
これなら私でもなんとかなるかな、と、期待を込めた笑顔を向けてくるルパンを尻目に、思った。
Ⅲ. 想い出の色はサンセットオレンジ
「どうだ?いけそうか?」
『エリザベス一世』を黙々と眺める私に、ルパンが心なしか不安そうに問いかける。
「うーん……たぶん……」
「そうかそうか、そりゃあよかった」
「どれくらいで仕上げればいいの?」
「特に急がないさ。どれくらいかかる?」
私は答えに迷った。時間をかけて作業をすればするほど、ルパンと会える頻度は多くなる、かもしれない。それとも、ルパンのため、もとい不二子さんのために、頑張って早く仕上げてあげるか。
悩んだ挙げ句、私は、少しだけ多く時間を見積もることにした。
「根詰めれば……うーん……二週間くらい、かな」
本当は、急げば、十日くらいで仕上げられるかもしれない。
「いいよ、根なんて詰めなくっても」
「そう……? それじゃあ、三週間、かなぁ。余裕をみてひと月くらい……」
まったく疑問を感じていないようすのルパンに、少しつけ込みすぎてしまったかな、と罪悪感を感じる。
「いいぜ、ひと月でも。それくらいなら俺たちもイタリアにいる。久々に観光でもすっかなあ」
「
“俺たち”という言葉にはっとして、さりげなさを装って訊ねてみる。
「次元と五エ門は一緒だ。不二子は、ええっとたしか、ロスに行くとか言ってたっけなあ」
「……ふうん」
こともなげに言うルパン。こういうとき、ルパンは本当に不二子さんが好きなのかなあ、と疑いたくなる。不二子さんは素晴らしい美貌の持ち主だから、放っておいたらいろいろな人に言い寄られそうなのに。ルパンはそれが不安じゃないのかな。
むしろルパンは、不二子さんがどこにいようがお構いなしというふうにさえ思えるときがある。でも、実際に不二子さんに会えたら会えたで、「不二子ちゃーん」なんて甘い声を出す。
ルパンの本心がわからないなあ、本当に。
そんな考えを巡らせてから、私は『エリザベス一世』に視線を戻す。もう一度、丁寧に女王の姿を見分してみる。何の道具を借りるか、どこをどういう手順で直すか、頭のなかで組み立てる。
それにしても美しい絵だなあ、と見惚れてしまった。エリザベス女王の表情が生き生きしていて、柔らかい微笑をたたえている。この絵を見るまでは半ば仕方なく修復に携わろうとしていたけれど、一目見て、私はこの絵が好きになった。もっとこの絵に触れていたいと、意欲的な気持ちが湧いてくる。でも、私がエリザベス女王の色を取り戻せるだろうか、……。
どれくらい絵を眺めていたのか、ルパンの視線に気づいてはっとした。顔を上げると、ルパンと目が合う。
その目がとても柔らかくて、私はどきりとしてしまった。頬が熱くなるのを感じる。
「……どうしたの?」
「いんや、ずいぶんと熱い視線を捧げてんなーと思って」
「どこをどう直すか考えてたの」
「前に絵の修復を頼んだときも、はそういう目で絵を見てたな」
「どういう目?」
「んー、強いて言えば、遠い昔を偲ぶような目」
「それは、……そうだよ。まずは、この絵がどういう絵か理解しないと」
「へえ。俺もそんな目で見つめられたいもんだ」
さらりと言ってのけるルパン。私は恥ずかしさで顔が紅潮するのを隠すために、「何言ってるの」と軽くたしなめる。ルパンのこういう冗談は、本当に心臓に悪い。
私は『エリザベス一世』と向き合うのをそれくらいにして、向かいに座るルパンに問いかけた。話を変えたかった。
「それで、
「ああ、本題な」
今日はワインを飲みながら、ルパンは口を開いた。
昨晩と同じ八時にやって来たルパンと、キッチンにある小さなテーブルを挟んで向かい合う。テーブルの上には赤ワインのボトルと、グラスがふたつ。チーズの盛り合わせが一皿。
このシチュエーションは、完全に恋人同士なんだけどなあ。ルパンはあくまで私に“依頼”と“盗みの相談”をしに来ただけなんだもの。ムードも何もない。
昨日は、父さんの持っていた絵画『アルノ川の春』がこのイタリアで見つかった、という話までしか聞いていなかった。
「『ベルナルド・ベルトリーニ』……知ってるだろ?」
「ファッションブランドの? ここ最近よく耳にするけど……たしか、本店はミラノだっけ」
「そそ。やつら、どうも奥が深いみたいだ。美術品の転売を副業として資金繰りをしてたんだとよ。表向きは“美術品集めが趣味”のオーナーだがよ、裏じゃあいろんな手で美術品をさばいてやがる」
「そうなの? ハリウッドスターとかセレブも愛用してるブランドだよね」
「ああ。それが、ここニ、三年の間に急にトップに登りつめたみたいだな。ベルナルドの息子のルカ、ってのが経営に携わるようになってからだ。それまでは、目立たずとも固定ファンがいるようなブランドで、美術品の転売も、単なる趣味のレベルだった。だが、ルカが関わるようになって、変わった。広告を派手にやるようになって、有名人も身につけるようになった。その資金が美術品繰りから出てるって噂だ」
ここニ、三年。少し、引っかかる。父さんが殺され美術品が奪われたのが三年前。偶然だろうか。ルパンがこの話を持ちかけてきたのは、もしかして、……。
険しくなってしまった私の表情を見て、ルパンが頷いた。
「関係あるかもな。親父さんの美術品を奪ったやつらと」
大手ブランドのオーナーが、父さんの美術品を所持していたなんて、盲点だった。私は、ファッションブランドまでは調べたことがなかった。
それにしても、ルパンはよく調べがついたなあと感心してしまう。もっとも、彼は裏の世界にもコネクションが多いから、調べるのも難しくはないのかもしれない。私だけじゃ、たどり着けなかった。
「今回は久々におもしろくなりそうだ。根が深そうだからな」
ルパンはにやりと笑う。出た、ルパンの“おもしろくなりそう”発言。ルパンは本当に楽しそうに見える。
「そういえば、ルパンも盗みたいものがあるんでしょう?」
「ああ。あのな、『青の結晶』。知ってるか?」
「ううん……聞いたことない、かな」
「なら、カプリ島の『青の洞窟』は?」
「それなら、写真で見たことあるよ」
フィレンツェからずっと南。ローマよりも先、ナポリ近くにある島、カプリ島。その島の、たしか海の中にある洞窟で、水面が青に輝き洞窟全体を照らすので『青の洞窟』という……そういう話をどこかで読んだことがあった。
「『青の結晶』はな、その青の洞窟をイメージして加工された、世界最大のサファイアだ」
サファイア。また不二子さんのために盗むのかな。けれども、ルパンの次の言葉は予想外のものだった。
「そいつをな、じいさまが一度盗んだんだ。だが行方不明になっちまって
じいさま。ルパンのお祖父さん。つまり、アルセーヌ・ルパン?
ルパンはグラスに入ったワインをじっと見つめていた。ルパンの瞳にワインレッドが映り込む。そのせいで、瞳が燃えているような力を放っていた。
そのとき、コンコンと強めのノックが聞こえて、私は顔を玄関の扉に向ける。誰だろうと考えた矢先、「おいルパン!」という声が聞こえた。
久しぶりに聞く声
私はルパンの顔を見る。ルパンは何も言わず、優雅にワインを飲みながら、手を振って「開けてやって」と指示した。私は言われるがまま玄関まで行き、鍵を開錠し、ドアを開ける。
そこには、ブラックのスーツの上下に帽子を深々とかぶった、相変わらずの姿の次元があった。
懐かしい気持ちが湧きあがってきて、「久しぶり」と声をかけると、次元が言った。
「よう、久しぶりだな
次元は声を荒げながらl大股でルパンのもとへ近づいていく。私は戸を閉めて施錠し、次元の後を追った。
「すぐに戻るって言ってたじゃねぇか!」
「いや、さすがに絵だけ渡してオサラバじゃ素っ気ないでしょうが。せっかくだから一杯、と思ってな」
「なーにがせっかくだから、だ! 人をいつまでも待たせやがって」
「ええ? 次元、今まで待ってたの?」
「ああ、下に車を置いて、な。ここじゃ
「まあまあ、次元も一杯どうだ?」
しれっとグラスを掲げるルパン。
「俺はバーボンしか飲まねえ!」
「んな堅いこと言うなって。なかなかいけるぜ、ワインも。さすがは
「うるせぇな。同じ一杯ならバーボンがいいんだよ」
「わがままだな」
「わがままはてめぇだろうに」
変わらないなあ、このふたり。私は微笑ましくて、くすりと笑ってしまった。ルパンもにやっと笑って、立ち上がる。
「じゃ、今日のところは退散すっか。、明日は仕事だろ?」
「うん」
「休みは?」
「月曜日と火曜日」
「で、今くらいの時間には終わってるわけだ」
「七時には終わるかな」
「んじゃ、今度メシでもおごろう」
ごちそうさま、と言ってルパンは不機嫌そうな次元を引きつれ、去って行く。
賑やかだった部屋に、一瞬で沈黙が下りてくる。ルパンと別れた後の、なんとも言えない沈黙の重さ。
でも
私はルパンが置いていった『エリザベス一世』を見つめた。この絵の修復が終わるまでは、またルパンに会えるチャンスがあるということ。しばらくイタリアにあると言っていたし、もしかすると何度かは会えるかもしれない。
でも、私はルパンの連絡先を知らない。ルパンは私の連絡先を知っているのに。だから、私がルパンに会いたくても、待つしかない。一方で、ルパンは気まぐれにひょっこり現れて、気まぐれにいなくなってしまう。
私に銭形警部並みの嗅覚があったら、いつでもルパンを捕まえられるのになあ。
そんなことをぼんやり考えながら、空になったルパンのワイングラスをしばらく眺めていた。
フィレンツェは何度か父さんと来たことがある街だったから、馴染みがあった。イタリア語の知識も少しだけあったので、多少は勉強がしやすかった。日本語と英語とイタリア語と、学芸員の資格と美術の知識と。父さんに追いつきたくて、父さんの美術品を取り返したくて、必死に身につけたもの。
そのおかげで、フィレンツェの美術館に勤めることができた。それほど大きい規模ではないにせよ、たくさんの美術品の情報が入ってくる場所。だから父さんの美術品の手がかりも分かるかなと思っていたけれど、それをもたらしたのは、またしてもルパンだったのだけど。
父さんの美術品を集めることに関しては、なんだかルパンに頼りきりだなあ。でも他に方法がないし、何よりおかげでルパンに再会できているから、少し複雑だった。
街全体が芸術であるフィレンツェでは、優れた修復師が大勢いた。美術品のスタッフに適当な嘘をついて、修復師の集まる工房やお店やを聞き、道具を揃える。図書館でエリザベス一世と作者について調べる。そして修復に取りかかる。ここまで数日を費やした。
我ながら、健気だなあと自嘲気味に笑う。好きな人のためではなく、その人の好きな
それでも、絵と向き合っているとすべてを忘れることができた。作者ニコラス・オニールという人物になりきって、エリザベス一世を見つめてみる。何を思ってどういう気持ちでこの絵を描いたのか。細かい傷や失われつつある色をどう補うか、少しずつイメージが湧いてくる。
おじいちゃんに修復について学んだときは、まさかこんなふうに、歴史的に価値がある絵を修復することになるとは思わなかった。プロの修復師ではないけれど、私の持つ知識や技術を総動員して、この絵を仕上げよう。ルパンのためでも不二子さんのためでもなく、作者オニールのために、敬意を表して。
私はそう、決めた。
top | back | next
(15.7.18)