Ⅲ. 想い出の色はサンセットオレンジ ... 2
あくびを噛み殺しながら美術館の案内窓口に座っていると、ひとりの老人が歩いてきた。平日のお昼。久しぶりの来館者だった。
「こんにちは」と声をかけると、老人も「やあ」と口を開く。
「ここで一番に見ておくべき絵はどれかね?」
「そうですね、……聖母の絵は評価が高く人気ですよ」
作り慣れた営業的な笑みで答えると、老人は首を横に振った。
「いや。お嬢さんの個人的な好みを聞きたいね」
イタリアの男性は、いくつになっても女性に対して気さくだった。はじめはそのフランクさに戸惑ったけれど、すぐに慣れることができた。こちらも気軽になれば、相手も軽快に返してくれる。取り繕うことのない、率直なやり取りが心地良かった。
「私は
私の答えに、老人はなぜかくつくつと笑った。
「ほんっとに風景画が好きなんだなあ、は」
老人のものとは思えない若い声で
「ルパン?」
老人に扮したらしいルパンは、にひひと笑いながら頷く。いつものルパンの笑い方だ。
びっくりした。ルパンがここに来るとは思わなかったし、老人からルパンの声が聞こえてくるんだもの。
ルパンは私の反応を満足そうに眺めてから、変わらず笑みを湛えて言った。
「ここ、ひと通り回らせてもらったよ。なかなかいいところだな。広くはないけど落ち着いてるし、絵の選択も悪くない」
なんだ。もう先に観てきたところだったんだ。『ここで見ておくべき絵はどれか』なんて訊いておいて。
「『六月のシエナ』、
とくん。心臓が小さく鳴る音が聞こえる。ルパンの声で言われると、見た目が老人でも、胸が高鳴ってしまうから不思議。私が好きそうな絵だと思った、……か。
「
「ああ、それは認める。俺も『聖母』より好きだ」
そのとき、ルパンの背後から団体客がやって来て、急に騒がしくなった。後ろをちらりと振り向いてから、ルパンは早口に訊ねた。
「今晩、空いてるか?」
「え? ええ、まあ」
「それならディナーにしよう。七時に外で待ってる」
ルパンは私の返答も聞かず、行ってしまった。入れ替わりに団体客が押し寄せてくる。休憩に出ていたスタッフも戻ってきた。
実際に、決して断ることはないのだけど。
手早く荷物をまとめてバックオフィスを後にする。七時十分前。お手洗いに寄って、化粧と髪を整えて、美術館の外に出ると、七時五分前になっていた。
すっかり春になったフィレンツェはまだ薄明るく、夕暮れに入ろうとする青空には淡いオレンジ色が混ざりつつあった。美術館の側にはアルノ川が流れていて、川沿いに並ぶ街灯には明かりが点きはじめている。
私は、昼間にルパンが訪れてからずっと抱えていた興奮が、大きくなってゆくのを感じていた。久しぶりのルパンとの食事。心が躍らないわけがない。たぶん、ルパンと待ち合わせる前の、今のこの瞬間が、一番充実している気がする。これから過ごすであろう幸福な時間への期待。あたりを見回してルパンを探すときの弾む心。ゆっくり時間が流れればいいのにと思う反面、早くルパンに会いたいという気持ちの矛盾
ルパンの姿を見つけると、胸の鼓動は一段と大きく高鳴った。ルパンは川沿いの石垣に背を預けて煙草を吸っていた。右手で煙草を持ち、左手はポケットの中に入れている。傾きつつある太陽に照らされて、その姿は絵になっていた。
やがてルパンが私に気がつき、ポケットから左手を出しその手を振った。私はようやくはっと我に返る。ルパンが視界にいるのにルパンのことを考えて放心してしまうなんて。恥ずかしくて紅潮してしまいそうになるのを振り切って、ルパンに近づく。ルパンは煙草を足元に捨て、足で火を消した。
「よお、お疲れさん。郊外に出るか?それともこの近くがいい?」
うーん、と悩んだ時間は僅かだった。
「……郊外、かな。この辺りは見慣れてるし」
というのは建前で、本音は、ルパンと少しでも長くいられそうなのが郊外だから。
「よし。んじゃあ行きますか。車まで少し歩くぞ」
「うん」
ルパンは車をミケランジェロ広場に停めたらしい。フィレンツェの東南にある丘で、展望台として観光名所になっている場所なので、駐車場がある。フィレンツェは街自体が歴史地区として管理されているため、この前に次元が愚痴をこぼしていた通り、街中には車を停める場所があまりなかった。
広場へと続く坂道を、ルパンと一緒に上っていく。私たちが歩みを進めるにつれ、ゆっくりと陽が傾いていった。急な坂道も、ルパンとのおしゃべりが楽しく、煩わしさを感じなかった。
二十分ほど歩いて広場に辿り着いたころには、ちょうど夕暮れ時に差し掛かっていた。ミケランジェロ広場からはフィレンツェの街が一望できるので、観光客が多い。特に、今ごろの時間帯は夕焼けの街並みを眺めようと、地元の人たちもたくさん集まっていた。美しいその景色に、ルパンと私も足を止める。
眼下に広がるのは、建ち並ぶ赤茶色の屋根、その中からはドゥオモの丸いクーポラ(ドーム)とヴェッキオ宮の塔がひょっこり顔を出している。手前にはアルノ川の流れ。フィレンツェの特徴的な景色。それだけでも美しいけれど、さらに今の時間は、オレンジ色の夕日が屋根屋根を照らして、街全体がいっそう輝いて見えた。
「わぁ」
なんて美しい景色だろう。私は思わずため息が漏れていた。フィレンツェの街が、燃えるようなオレンジ色に包まれている。世界の果てがあるのだとしたらここなんじゃないか、と思えるくらいに、神秘的で、胸を打つ光景だった。
隣をちらりと横目で見ると、ルパンも目の前の景色に見入っているようだった。ルパンの横顔も夕日に照らされて赤く染まっている。ルパンの瞳が赤い光に照らされてきらきらと煌めいて見えた。
今なら世界が終わりを迎えてもいいかもしれない、とさえ思えてしまう。この上なく美しい景色を、大好きな人と眺められる幸せ。目頭が熱くなってくる。涙が零れ落ちないように、一瞬を逃さないように、瞬きを堪えた。
この瞬間を全身に焼きつけたい。この美しい黄昏色の街並みを。頬を撫でる風の感触と柔らかなにおいを。隣にいるルパンの気配を。
もう少しこのままでいたい。時間が止まればいいのにと、心の底から願った。
「
ぽつりとルパンが言った。私はゆっくりとルパンを振り向く。ルパンと目が合った。
「……見たことあるの?」
「写真で、な。まさに今、この瞬間の景色を描いた絵なんだな」
そう。父さんが愛した『アルノ川の春』は、この丘からフィレンツェの夕暮れを描いたものだった。今私たちが観ているものと同じが景色が描かれた絵。
「うん
「も親父さんも風景画が好きなんだな。『フォロ・ロマーノ』といい」
「そうだね。私は……風景画は、その時代やその場所に触れられる気がするから、好きなのかな」
「俺は絵には詳しくないけどな。わかる気がする」
ルパンは静かに笑った。
もしルパンが『アルノ川の春』を盗み出してくれたら、私はきっとその絵を観るたびに思い出すんだろうなあ。この瞬間のことを。そしてきっと、今の私に嫉妬するに違いない
夕暮れの景色から夜景に変わりはじめたころ、私たちは車に乗った。薄いイエローの、小型のイタリア車。ルパンとのドライブは、これでニ回目。私はルパンと車に乗る時間を気に入っていた。ハンドルを握るルパンも、ルパンの横顔も、好きだった。狭い車内にふたりだけというのは緊張するけれど。
「フィレンツェの夜景って、香港や東京やニューヨークのとは全然違うよね。煌びやかな美しさはないけど、優しくて温かい感じ。地味だって言う人もいるけど、私は好きだなあ」
窓の外に移りゆくオレンジ色の街灯を眺めながら、私は呟くように言った。
「そうだな。香港やニューヨークがダイヤだとするなら、
「ルパンは……ダイヤのほうが好き?」
「いんや、そんなことはないさ。もちろんダイヤは好きだが、原石も悪くないね。ダイヤは完成された輝き。原石は、未完成の、手を加えられてない輝きだな。自らの美しさを隠してる」
「……詩人みたい」
「だろー? 我ながら巧い例えだ」
「でも、意外だなあ。ルパンは、派手で煌びやかなものが好きだと思ってた」
「んなことねえって。ちゃーんとそれぞれの魅力に精通してんのよ、俺は」
女の人はきらきら輝いてる人が好きなくせにね、と言いたくなるのを堪え、私は窓を開けた。少し冷たさもあるけれど、確実に春の暖かさを含んだ風が入り込んでくる。あたりは郊外に入ったようで、すっかり暗闇に包まれていた。けれども、満月に近い月が煌々と輝いているので、外の景色がぼんやりと見える。なだらかな丘が続いていた。
「この辺は夏になるとひまわり畑になるんだとよ」
外の景色を眺める私に、ルパンが言った。
「あたり一面がひまわりの黄色一色になる
「へえ」
ガイドブックを読むなんて、ルパンは本当にイタリアを観光するつもりなのだろうか。
「ひまわり……か。いいね。私、花の中で一番好きだな」
夏になったらルパンと一緒に来たいな。なんて可愛らしい台詞は言えなかった。ルパンの返事が怖い。ルパンは「いいよ」と言ってくれるかもしれない。でも、そんなの単なる口上に過ぎないのだと、わかってしまうから。期待してしまうのは嫌だった。ルパンは時間にも場所にも囚われない人。時期を限定してしまう約束なんて、重荷になるだけ、……。
「ふーん。珍しいな」
「そうかな?」
「ああ。女が好きな花といったらバラだろ?」
ルパンが好きそうな華やかな女性はね、と内心毒づく。それとも、ルパンは色んな女性にバラの花束を贈ってきたのだろうか、……。
「うーん……バラが嫌いな女の人はあまりいないだろうけど、女性といったらバラが好きだと思うのは早計じゃない?」
「そうだなー。ま、の意見のほうが少数派だと思うけどな?」
「……そうかな」
「はさ、最初は大人しそうな子だと思ったのに、けっこう行動派だよな。考古学者になりたいだとか、冒険したいだとか。ひまわりみたいな明るい花が好きだとか」
考古学者になりたいと話したのを覚えていてくれた嬉しさ反面、ルパンが良い意味で言ってくれているのか不安になった。
「そう……かな」
私は行動派なのかなあ。そうだとしたら、ルパンへの想いもぐずぐず引きずっていない気がするけれど。でも、外に出るのは好きだった。仕事も事務的なものよりも、動いているもの
「そ。俺のまわりにはいないタイプだ」
「それ、良い意味?」
「もちろん」
思わず訊ねてしまったけれど、さらりとルパンは答える。
本当かなあ。
ルパンのことは好きなのだけど、ルパンの女性に対する姿勢は疑いたくなってしまう。女性に対しては旨い言葉ばかり言うんだもの。私に対する多少の甘い言葉も、後で訊いたら「そんなこと言ったっけ?」と忘れているに違いない。
「
少し経って、私は試すつもりで訊いた。
「ん?そうだったか?」
ほら、覚えてない。どうせ色んな女の人を助手席に乗せてるんだろうな。
「最初もちょうど今くらいの季節だったよ」
「ああ、とはじめて会ったときだな。東京の」
「そう」
思い出してくれたのかな、と少し嬉しくなる。
「それにしても、よく素性の知れない男について来たなあ」
「……『ルパン三世』だって気づいてたからね」
「にしたって、得体が知れないのには変わりないだろ。俺が悪人だったらどうするつもりだったわけ?」
「悪人に見えなかったし」
「見た目で判断しちゃあいかん。男はみーんな狼なの」
「そんな歌あったね」
ルパンがわざと怖い顔をして言ってみせるので、私は思わずくすくすと笑ってしまう。ルパンも笑った。
「
普段から出逢って間もない男性の車に乗るような女じゃないと、暗に含ませるために、私はそっと切り出した。
「また会えたら何かの縁だと思ったから、話すだけ話してみようかなと思って……だから、ふたりきりになれるなら都合が良かった。他の人には聞かれたくなかったし」
そう。最初はルパンは新聞やニュースの中の人だった。それなのに、今はこうして隣にいる。それがたまに実感のないことに思えて、ふわふわと浮ついた気分になることがある。本当に私の前に現れたのはあの“ルパン三世”だったのか、と。
「ま、俺様は紳士的な泥棒だしな」
「……ルパンこそ、どうして私を食事に誘ったの? ターゲットの情報を得たかったから、なんだろうけど……それなら他の人でも良かったわけだし」
さりげなく訊ねてみる。ルパンは「んー、なんでだろうなー」と首をひねった。
「覚えてねぇな。親切そうな子だったからか? さっき言ったように、大人しそうだったから、訊けばなんでも教えてくれるんじゃないかと思ったのかもな。色々詳しそうだったし」
「ふーん」
それならもっと可愛い子がいたでしょう、と訊きたくなるのを堪える。「なんでそんなに知りたがるんだ?」と逆に訊ねられたら切り返せない。
「ああ、あと、この子は博物館に対して何か不満があるんじゃないかと思った」
「ええ?」
「自分も博物館のスタッフなのに、自分を外に置いてる感じがしたんだよ。何かあるなー、と直感したわけだ」
短時間でそこまで細かいことを察するなんて、ルパンの洞察力にも、ルパンの直感とやらにも舌を巻いてしまう。でも、そのおかげでルパンと再会できたのだけど。
「ま、はじめはお互い利用しようとしていたわけだ」
「……そうだね」
“はじめは”。本当に最初だけだっただろうか。私はルパンに絵を盗んでもらっている。ルパンは私に絵を修復してもらっている。はじめだけじゃなくて、今でも利用し、利用される関係なんじゃないのかな、と思ってしまった。現にこれからの食事も、私が絵を修復してあげている見返りなのだろうし、……。
シチュエーションはデートのようなのに、本当にそうならないのは、ルパンが私に気がないから。私たちの関係は、あくまで両者の利害が一致する関係、なのかもしれない。
そこまで考えて、私の気分は暗くなってしまった。馬鹿馬鹿しい。あることないことを想像して勝手に落ち込むのは良くない。ルパンは、少なくとも、私のことは嫌っていない。だから、ついでだとしても父さんの絵も盗んでくれるのだし、食事にも誘ってくれたのだと思う。
“嫌われてはいない”。今はそれで、充分じゃない
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(15.7.25)