Ⅳ. オーシャンブルーに囲まれた島で ... 3



「ねえ、きみ、ひとり?」

 気がつくと声をかけられていた。顔を上げると、男性がふたり立っている。アメリカ英語の流暢さからすると、アメリカの男性なのかもしれない。

「オレたちと遊びに行かない?」
「こんな観光地にひとりでさぁ」

 私は顔をしかめて、「待ち合わせをしているので」ときっぱり答えた

「またまた。ウソでしょ? さっきからひとりでいるのを見てるんだから」
「ねえ、一人旅? オレたちは男二人旅なんだ。ご一緒しない?」
「結構です」

 私は短く言って、立ち上がった。素早くその場を後にする。後ろで男たちが舌打ちをするのが聞こえた。
 雨は止む気配なく降り続いている。私の気分は歩みを進めてもどんどん落ちてゆく。さっきの男たちの嫌らしそうな顔。気分が悪い。
 日本人女性は、おしとやかで何でも言うことを聞いている、という思い込みがあるのか、海外の男性からこうしてたまに声をかけられることがあった。私のことなんて、何も知らないくせに、……。

 私は迷わずコテージへの道をつき進む。帰ったら、持ってきた本でも読もう。
 誰か戻って来ているかと思ったけれど、家の中にはがらんと静けさが漂っていた。次元は釣り。五エ門は散策。ルパンは……?
 何か飲もうとリビングに入ると、ふとアップライトピアノが目に入った。ルパンのお祖父さんは、ピアノを弾いたのだろうか。そのピアノは、多少古さは感じるけれども、大切に扱われている印象を受けた。黒く光る蓋をそっと開くと、ワインレッドのカバーがかけてあった。それを半分めくり、白と黒の鍵盤に触れると、心が安らいでゆくのを感じた。鍵盤をいくつか押してみると、驚いたことにきちんと調律がされていた。汚れもない。誰かが手入れをしているんだ。不思議と、先ほどの憤りや暗い気持ちがすうっと消えてゆくのを感じた。

 椅子を引いて座り、カバーを外す。目を閉じて、目の前のピアノのことだけを考えた。耳に聞こえるのは雨の音だけ。自然と指が動いていた。
 ジャズにアレンジされた、『Over the rainbow』。柔らかい曲。昔から雨の日に聴きたくなる曲だった。

 虹のむこうの空では、描いた夢がかなう。
 悩みはレモンドロップのように溶けておちる。

 たしか、そんな歌詞だったと思う。夢がかなう場所があるのだとしたら、私も行ってみたい。子供のころから何度もそう思っていたけれど、今ほど強く願ったことはなかった。
 たったひとつでいいから。私の願いが、叶えばいいのに。
 空のむこう、虹のかなたに、私は行けるだろうか    

 曲が終わり、鍵盤から指を離すと、背後でパチパチと手を叩く音が聞こえた。驚いて振り向くと、ルパンがリビングの入り口に寄りかかっていた。

「いやあ、最高だね。『Over the rainbow』か」
「ルパン! いつの間に」
「上にいたんだよ。ピアノが聴こえてきたから下りてきたんだ」

 驚きは、しだいに喜びに変わっていった。会いたかった人が、目の前にいる。

「誰もいないかと思ってた……」
「次元と五エ門はいないな。俺はさっき戻ってきたとこ。を探してたんだよ」
「私を?」

 ルパンが私を探してくれていた。理由はどうあれ、その事実だけでも嬉しかった。
 ルパンはこちらに近づいてきて、とんとんとピアノを叩く。

「エミリオじいさんが、こいつを定期的に調律してくれててな」
「エミリオさん、調律ができるんだね」
「そ。こいつも調律されるだけじゃ可哀想だろ? に弾いてもらおうと思ってな。な、もう一曲聴かせてくれよ」

 ううん、どうしよう。わざわざ聴きたいと言ってくれるほどピアノの腕に自信はない。でも、ピアノを見つめるルパンの表情が、普段にはない色を携えていて    穏やかで寂しげで優しくて、首を横に振れなかった。
 私の知らないルパンがたくさんある。手を伸ばしても届かない。なのに惹かれてしまう。
 でも、今なら。ほんの少しだけ、触れられそう。

「……もう一曲だけ……ね」

 静かに声に出すと、ルパンは微かに笑って、ソファに行き腰掛けた。
 私はそっと鍵盤に手を触れ、目を閉じる。曲は既に決めていた。と言っても、得意な曲から選ぶのなら選択肢はほとんどないけれど。
 今、この場所、この雰囲気、このピアノに相応しい曲は、ひとつしか思い浮かばなかった。誰かのためにピアノを弾くなんて、すごく久しぶり。
 願わくば、少しでもルパンに気に入ってもらえますように。

 目を開けて、静かに演奏をはじめた。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第八番『悲愴』第ニ楽章。
 丁寧に、ゆっくりとしたペースで指を動かす。ひとつの音、ひとつの旋律に想いを込めて。初めの『悲愴』メインの旋律は美しく、優しく。中盤から曲調が変わるところからは、少しテンポを上げて、情熱的に。
 切ない美しさに満ちたこの曲に、想いを込めて。

 五分を越える演奏を終えて、鍵盤から手を離す。間違わずに弾けて良かった。ふうと小さく息を吐いて、間を置いてから後ろを振り向いた。
 ルパンは窓の外を見ていた。ううん、どこも見ていないような、遠い目をしていた。私の好きなルパンの横顔。

   俺の、今一番聴きたかった曲だよ」

 ルパンは静かに言って、私のほうに顔を向けた。私は一度立って、身体をルパンのほうに向けて座り直す。
 なぜだか、胸がぐっと締めつけられた。ルパンが切ない瞳を浮かべている気がして。

「昔……俺がガキのころ、ここでばあさんがよくその曲を弾いたんだ。まだ若かったエミリオも一緒に、な。エミリオはばあさんの演奏に感動して、それ以来そのピアノの調律を引き受けてくれたんだよ」
「……そうなんだ」

 ルパンが『悲愴』を聴いたときに浮かべた表情の意味は、昔を偲んでいたのだろうか。

「だろ? じいさん」

 ルパンがそう言ってリビングの入り口を見たので、驚いて私も同じ方向に視線を向けた。初老の男性が部屋に入ってきて、ルパンと私を交互に見つめた。

「調律の道具を忘れてしまってな……取りに来たのだが」

 この人が、エミリオさん、なのだと思う。ルパンは“じいさん”と呼ぶけれど、年齢ははっきりと分からなかった。見たところ六十代後半のようだけれども、肌は皺が刻まれているのに艶やかだった。白髪交じりの頭と鼻の下の髭。目の横の皺が優しそうでもあり、厳格さも漂わせている。

「まさか、このピアノで『悲愴』が聴けるとは」

 しみじみと言ったエミリオさんに、私は小さくなった。ルパンとルパンのお祖母さんとエミリオさんの思い出に立ち入ってしまった気がした。私の拙い演奏が、上書きされていないと良いのだけれど。

「すみません……」
「いやいや、お嬢さんの演奏は美しい。心がこもっている。聴いていて胸がさらわれそうだ」

 エミリオさんはしみじみと言ってくれたので、私は顔が熱くなった。

「そんな、私のピアノなんて趣味レベルで……そんなふうに言って頂けるなんて、勿体ないです」
「プロでも趣味でも関係ない。大切なのは技術ではなく、気持ちの入った演奏かどうかだと、私は思う」
「ああ。俺も好きだよ、のピアノ」

 エミリオさんの言葉だけでもありがたかったのに、ルパンの一言で私は天にも昇る気持ちになった。『俺も好きだよ』……ルパンの言葉がリフレインされる。

「ルパンよ。珍しくおまえが訪ねてきて、ピアノを調律しろと言ったのは、このためか」
「まーね」
「私にも教えてくれても良かったものを」
「だってじいさん、疲れてたから昼寝するって言ってただろ?」
「こんな機会があるのに昼寝なんぞしとる場合か!」
「はいはい、まあ座れよ。コーヒーでも淹れてやっから」

 ルパンは立ち上がって、カウンターキッチンへと向かった。
 エミリオさんは、ルパンを横目で追ってから、私の近くにやって来る。ピアノの横に置いてあった工具箱を拾い上げ、私に優しい微笑みを向けてくれた。

「お嬢さん……さんと言ったかね」
「はい」

 エミリオさんはちらりとカウンターの奥にいるルパンを見やってから、声をひそめて言った。

「さっきの演奏にどんな想いを込めて弾いたのか聴きたいものだね」

 ぱちんと片目をつむるエミリオさんに、私は慌てる。

「どんな想い、って……?」
「愛する誰かを想って    たとえばそんなところかな」
「ははは……まさか……なぜそう思うんですか?」
「あんな演奏は恋でもしてなきゃできん。惚れた相手に聴かせるような演奏だったよ、あれは。私にはわかるさ」

 エミリオさんは、鼻歌を歌いながらコーヒーの準備をするルパンの背中に視線を向けた。
 何もかもお見通し。そんな口調だった。エミリオさんといい次元といい、私、うまく隠してるつもりなんだけどなぁ。

「手強い相手なんだろうね。あんなに切ない音色を奏でるなんて」
「……手強いですね……すごく」

 今回は諦めて、エミリオさんの話に乗った。

「私は応援するよ。きみの想いが叶ったときにどんな『悲愴』を奏でるのか、聴いてみたいからね」

 エミリオさんは再び片目をつむった。

 

 それからすぐに次元が帰って来て、色鮮やかな魚をたくさん釣ったと披露した。エミリオさんが魚をさばき、一緒に夕食を取ることになった。ルパンがエミリオさんを手伝い、次元と私は街へ買い出しに行った。途中五エ門と会い、三人で野菜と肉を買い揃え、コテージに戻る。エミリオさんと、驚いたことにルパンも料理の手際が良く、あっという間に夕食ができあがった。
 五人で色々な話をした。主にカプリ島の話。昔の島はどういう様子だったのかとか、どんな魚が釣れるとか、五エ門が島を一周してきたとか、青の洞窟についての話とか。

「明日なら洞窟に入れるだろうが、観光客が多いぞ」

 ワインで上機嫌になっているエミリオさんが言った。

「わーってるって。人が多いんじゃ嫌だからなー。ちゃんと手は打ってある」

 ルパンは得意気に言ってみせる。

「洞窟の入り口まで行ってみたが、入り口が半分以上水に隠れてるうえに狭かったな。ありゃ確かに波が高いと入れないな」

 と次元が言う。ルパンは頷いた。

「そ。小さい船じゃないと中に入るのは無理だ。で、光の角度の関係で午前中のほうが綺麗に見えるんで、朝から小舟の行列ができるのさ」
「色んな会社がツアーを企画してるもんね」

 私の言葉にルパンは「ああ」と答え、続けた。

「ただ、青の洞窟の中に入れるか入れないかは運次第だ。次元が言ったように、波の状態や天気によっちゃ入れないからな。特に冬は天気が安定しないから無理なことが多い」
「へえ。そういう意味でも神秘的な洞窟なんだね」
「そうさ。ま、お楽しみにーっていうことだ」

 

 夜も遅くなり、エミリオさんが「そろそろ帰ることにする」と言った。ルパンと私は、コテージの外まで見送る。雨はすっかり上がって月が見えた。

「俺たちは明日洞窟を見たら、フィレンツェへ戻るからな」
「そうか」

 エミリオさんが一瞬寂しそうな色を瞳に覗かせた    気がした。私自身がエミリオさんとの別れを惜しんでいたから、そう見えたのかもしれない。エミリオさんのことも、この島のことも、すっかり好きになっていた。また会えるかな。しんみりとした気持ちで胸がいっぱいになっていたところ、エミリオさんが私に顔を向けた。

。良かったらまたピアノを弾きに来ておくれ」
「えっ? あ、はい……」

 そんな日が来るといいなと思う。エミリオさんは静かに笑って、今度はルパンに視線を向けた。

「ルパンよ。おまえは、次に会うときまでに少しは馬鹿を直しておけよ」
「だーれが馬鹿だってんだ」

 ルパンもエミリオさんも笑っていた。それじゃあ、とエミリオさんは去って行く。

   素敵な人だね」

 月に照らされるエミリオさんの背中を見ていたら、自然と言葉が溢れていた。

「ま、頑固おやじだけどな」

 ルパンも私も、エミリオさんの姿が見えなくなるまで、彼の背中を追いかけていた。エミリオさんが消えてしまうと、無性に寂しさが押し寄せてきて、私は胸に抱える思いを外に出さずにはいられなくなった。

「また会いたいな……」
「連れてきてやるよ。じいさん、のことが気に入ったみたいだしな」

 えっ。振り向いたときには、ルパンはもう背中を見せていて、コテージに歩いて行くところだった。

「明日は早いからもう休めよー。七時にはここを出るからな」

 かろうじて“七時”という単語だけ胸に留めておくのに精いっぱいだった。ルパンの先ほどの台詞が頭の中で鳴り響く。
 『また連れてきてやるよ』……。ルパンがそんな台詞を言うなんて思ってもみなかったから、驚いた。それって、しばらくは私の前からいなくならないっていうことなのかなあ。そう期待してしまっていいのかな。
 私は目を閉じた。月に照らされたルパンのグリーンのジャケットと、ルパンの言葉をそっと胸にしまうために。

 

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