Ⅳ. オーシャンブルーに囲まれた島で ... 4



 翌朝はきれいに晴れて、コテージから見える空も海も澄んだブルーになった。ふたつを隔てるのは水平線だけ。この前ルパンと見たフィレンツェの夕焼けが世界の果てなのだとしたら、この景色は世界のはじまりのような気がした。鮮やかで美しいブルーに囲まれた景色、……。
 私たちは予定通り、七時にコテージを出発した。足場の悪い急な崖を下りていき、海岸に出る。そこで四人がちょうど乗れるほどの大きさの手漕ぎ船に乗った。ルパンが主に船を漕いで、五エ門も手伝った。

「ここは洞窟に近い裏道さ。ほら、入り口はあそこだ」

 ルパンが指した方向を見ると、なるほど崖の中に入り口のような穴が開いていた。でも、洞窟の入り口と言われないと判別できない。次元が昨日言っていたように、入り口は海の中からひょっこり顔を出している程度で、洞窟というより崖に穴が開いているようにしか見えない。

   人がいないな」

 次元の呟きにはっとして周囲を見ると、確かに私たち以外の船はひとつもなかった。

「どうやった?」

 次元に問われ、ルパンはふふんと誇らしげに鼻を鳴らす。

「“巨大人喰いザメ”が出るって噂を流してやったんだよ」
「なんだって?」
「これさ」

 ルパンは悪戯っぽく笑い、アンテナのついた箱のようなものを取り出した。スイッチとバーのようなものがいくつかついている。ラジコンのコントローラーのようだった。ルパンが操作すると、どこからともなくサメのヒレがすーっと海の上を滑ってくる。

「くっだらねぇ……」

 次元は呆れたように呟く。五エ門も肩をすくめ、私は苦笑した。サメのヒレは本物のように見えるけれど、これで大勢の人を騙せるものだろうか。

「ま、いずれバレちまうだろうけどな。さっさと中に入るぜ」
「あんなに狭いところに入れるの?」

 今日はまだ波が高いのではないかと心配になって、私は訊ねた。

「任せとけって。いいか、入り口に入るときは身体を屈ませろよ」

 ルパンはどんどん船を進ませる。入り口にはチェーンが張られていて、ルパンはそれを取った。かと思うと、「ふせろ」と声を上げるので、全員身体を縮ませて頭を思い切り引っ込めた。入り口は本当に小さく、身体を伏せないと入ることができなかった。頭の上を堅い岩がひゅっと過ぎて行く。光がどんどん失われていく。ルパンがもういいぞと言い、私たちは身体を起こした。

「わあ……」

 開いた口がそのまま固まってしまった。次元も五エ門も、「おお」と唸るのが聞こえた。
 私が今まで出会ったことがない、幻想的な光景だった。入り口は狭かったのに中は広々としていて、先ほどまでいたコテージが入ってしまいそうなほど。洞窟の入り口から射す光を受けて、水面が透き通ったブルーに輝いている。水面のブルーが洞窟の天井の岩に反射していて、洞窟全体が神秘的な青に包まれていた。次元も五エ門も私も、言葉を出せずにいた。太陽が届かないはずの洞窟が、こんなに鮮やかな青の世界になるなんて。コバルトブルーの宝石をちりばめたよう。ううん、宝石よりも美しい。自然の力で輝くブルーの光は。

「きれい……」

 私は船から手を伸ばして、水に触れてみた。なんてことはない、ただの海水なのに。

「どうよ。『青の結晶』は、この洞窟を閉じ込めたと言われるほど美しいサファイアなんだけどな   ま、この景色には負けちまうだろうなあ」

 ルパンの声が洞窟の中に響き渡る。閉鎖された空間に広がる幻想的な青の世界。なんとか手元に置けないだろうかと考えて、『青の結晶』を作ったらしい。その作者の気持ち、わかるなあ。こんなに美しい光景、ずっと見ていたいもの。ルパンのお祖父さんが結晶を盗んだのも頷ける。きっと美しい宝石なのだろう、『青の結晶』は。でも、こうしてなかなか手に入らない自然の中にあるからこその神秘性も、この美しさの所以だとも思う。
 カメラを持ってこなかったことを一瞬後悔したけれど、写真ではこの感動は伝わらないだろう。それに今は、ファインダーを覗くよりも、この目でこの景色を焼きつけたい。
 ルパンと、次元と、五エ門と。美しく幻想的な青の景色と。
 頭の中にもカメラがあったらいいのに。この目で見たもの   島や海の美しさ、洞窟の壮大さ、鮮やかな色や空気を、刻んだ思い出とともにいつまでも色褪せることなく残しておけたらいいのに。

 

 私たちは、洞窟を出ると何食わぬ顔で港に行き、フェリーに乗った。人喰いザメの噂は子どもの悪戯だということになっていた。
 ナポリでピザを食べ、二日ぶりに再会した車に乗り、帰路についた。はじめは次元が運転していたけれど、ローマで早めの夕食を取った後で、次元は一眠りしいと言い出し、ルパンと運転を替わった。必然的に次元が後部座席、私が助手席になる。
 すっかり陽が暮れてしまうと、次元も五エ門も目を閉じ眠ってしまったようだった。ルパンと私の間に沈黙が流れる。私は言葉を紡ぐ気力があまりなかった。窓の外を見上げると、月が浮かんでいる。カプリ島で見た月を思い出した。
 カプリ島    つい数時間前までいた場所が、どんどん遠ざかってゆく。旅の前はあんなに楽しい気持ちでいっぱいだったのに、帰路をゆく道は寂しさで心が埋め尽くされている。もう一度、旅の前夜に戻れたらいいのに。そうしたらもっと、エミリオさんと次元と五エ門とルパンと、話をしたい。島のあちこちをもっと見て回って。もっともっと、旅を堪能したい。もっと彼らとの時間を深めたい。

 今回は、ルパンたちはいつまでイタリアにいるのだろう。唐突に、不安になる。修復は、おそらくあと二週間もあれば終わってしまう。そうしたら、今度はいつ会えるだろう。ルパンと別れたら、今この瞬間のことも思い出すんだろうなあ。何度も、何度も。今の私にできる最大限のことは、後悔をできるだけ少なくすること、だ。

   ルパン」

 勇気を振り絞って、口を開いた。ルパンへの想いは口に出せなくても、せめて。

「ん?」
「ありがとう……カプリ島に連れてきてくれて。素敵な人にも会えたし、食べ物も美味しかったし、青の洞窟も素晴らしかった」

 ルパンも私も前を向いたままだったけれど、ルパンが微笑んだ気配がした。

「そりゃあ良かった。いい島だっただろ?」
「そうだね。きれいだったなあ……洞窟も島も海も空も空気も」
「ああ。じーさまが気に入って別荘を作っちまうのも納得だよ」

 そういえば、エミリオさんからルパンのことを聞きたかったな。私が知らないルパンのことを。
 しんみりした気分でいると、ルパンが言った。

「疲れたろ? 寝ててもいいんだぜ」
「大丈夫」

    あれ。このやりとり、前にもしたような。そう、フィレンツェ郊外で、ルパンと食事をしたときも。

「……そういえば……先週、一緒にご飯を食べた帰り……私、寝ちゃったよね…? ルパンが、送ってくれたの?」
「んー? ああ、そうそう」
「起こしてくれれば良かったのに」
「寝た子は起こすなって言うだろ?」
「子どもじゃないってば」

 私は顔をしかめる。ルパンにとっては、私はまだまだ“女の子”。いつまで、だろう。

「気持ち良さそーに寝てたぞー」

 くつくつとルパンは笑う。もう、完全に子ども扱い。そりゃあ私はルパンよりも年下だけど、立派な大人なんだけどな。でも、不二子さんのように、成熟した女性の魅力とはほど遠い。不二子さんような女性とばかり付き合っているルパンにとっては、私はまだ“女の子”でしかないのかな。
 黙り込んでしまった私の機嫌をとりなすように、ルパンは明るい調子で言った。

「そう拗ねるなって。ちゃーんと大事に部屋まで運んでやったんだから」
「“大事に”?」

 私はルパンに抱き上げられたところを想像してしまい、顔が赤くなる。全然、覚えてない。

「そ。後ろに積んである台車に乗っけてガラガラと」
「ええっ?」
「冗談だよ」
「もう!」

 ルパンは笑う。まったく、何が真実なんだか。勝手な妄想をしてしまった私が馬鹿馬鹿しい。私は落ち着くために、しばらく口を閉ざそうとしたけれど、ルパンが口を開いた。

「なあ、。『アルノ川の春』が手に入ったら、どうするんだ? しばらくあのアパートに住むのか?」

 ルパンの声の調子には、少しだけ真面目な様子が混じっていた。

「うーん……どうしよう。まだ他に行くあてがないし……フィレンツェが結構気に入っているから、しばらくはあそこにいるかな」
「そうか。ならさ、気が向いたらまたエミリオじいさんのところに行ってやってくれよ。年のせいか寂しいみたいでな」

 昨日は『また連れてきてやる』って言ってなかったっけ。やっぱりあれは口先だけだったのかな。

   ルパンが行ってあげればいいのに」

 声のトーンが極端に落ちないように配慮するのが、精いっぱいだった。
 ルパンはずるい。ルパンの気まぐれな性格は解かっているけれど。私に女として興味がないのは解かっているけれど。解かっていても、ルパンの態度に、一言に、期待てしまうんだよ。

「俺は忙しーの。世界を股にかける大泥棒だからな」

「ああ、そう。……わかった。フィレンツェからナポリならユーロスターで三、四時間程度で行けるしね」

 私は本心とは真逆の、気軽な調子で、口先だけでしゃべった。ルパンに期待しちゃだめなんだ。

「ま、気が向いたらでいいからさ」

 思えば。こんなに壁だらけの恋愛が、よく続いたものだと思う。そもそもルパンは泥棒で、色んな人間や組織から追われる身。くわえて、女好きで恋人のような素敵な女性も傍にいる。さらに、私のことは女として見てない。こんなに絶望的なのに、この想いを捨てきれないのはなぜだろう。
 なぜ、はじめて心から好きになった人が、ルパンだったんだろう。

「……寝る」

 これ以上ルパンと話していると、傷ついたり腹が立ったりしそうだったので、私は短く言って目を瞑った。本当は助手席の仕事   運転手を退屈させないこと   をしなければいけない身なのだけど。

「あら、どったの?」
「急に睡魔が襲ってきまして」
「なんじゃそりゃ」

 ルパンがぶつくさ言っていたけれど、やがて諦めて沈黙した。私はきつく目を閉じていたけれど、結局眠れないままフィレンツェに到着した。

 

 ルパンはアパートの前まで送ってくれた。その頃には次元と五エ門も起きていて、三人にありがとうとおやすみを言って別れた。ルパンたちの乗る車が去ってしまうと、急に周りの闇の濃さが増したような気がした。
 ふうと息を吐いて、アパートへ戻る。すぐにシャワーと浴びて、ベッドの上に横になった。
 疲れているはずなのに、全然眠くならない。
 ルパンが別れ際に言った言葉を思い出した。

『観光はそろそろ終わりにして、仕事の準備に取り掛かるつもり』

 そう言っていた。『青の結晶』を盗んだら、ルパンたちとはまたお別れ。次にいつ会えるのか、果たして会えるのかも分からない。ルパンの気が変わったら、父さんの美術品も眼中になくなるかもしれない。
 ルパンを追うのも、父さんの美術品を追うのも、そろそろ終わりにしたほうがいいのかも。
 そうじゃないと、前に進めないような気がする。いつまで経っても堂々巡りを繰り返すだけ。

 でも、それでもルパンの別れが寂しいと思ってしまう私は、どうしようもない。
 傷ついても傷ついても、ルパンへの気持ちはなくなるどころか、時が経つにつれ想いが強くなっていく。

「おまえがルパンのやつに惚れるような馬鹿な女だとは思わなかった」

 次元の言葉が唐突に蘇る。

   ほんとうに、馬鹿だよね……」

 呟きに応えるものは、当然何もなかった。

 

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