Ⅴ. 偽りだらけのパーティは、コーラルピンクのドレスを ... 5
「
「ここでは私がルールなのでね」
ルカは自分の仮面を外し、胸ポケットにしまった。ルカのまっすぐな眼差しが露わになる。
「あなたの素顔が見たい」
「きっとがっかりします」
「そうは思いませんね」
ルカは右手を伸ばし、私の仮面に手をかける。咄嗟に後ずさりしようとしたところで、彼の左手が私の腰に伸びてきて。阻まれてしまった。
まずい、どうしよう。
仮面があったからこそ、ルカは私に興味を持ってくれたのだと思う。好奇心、のようなもの。でも、私の素顔を見たらきっと、幻滅する。
ルカの腕を振りほどいて身をよじらせようとする前に、視界が開けた。目の前には仮面を手に持ったルカの姿。彼は私をじっと見つめている。
しまった。私は、彼から顔を背けた。
「
ルカの一言は予想外のものだった。彼は一歩前に出て、身体を私に密着させる。唐突過ぎることの連続に、私は、頭も身体も動かすことができなかった。ルカによって、私の背中は大理石の手すりに押しつけられる。後ろは手すりと空。前にはルカの身体。逃げ場がない、……。
「私は、自分が美しいと感じたものは手に入れないと気が済まない質でね」
「あなたは……普段の私を知らないんです。今の私は、化粧やドレスで着飾っているだけ。月明かりの下だから、良く見えるだけです」
「それでいい。着飾っていようが今のあなたは美しいことには変わりがない。私のところに来ればもっと綺麗にして差し上げますよ。それに、あなたの内面の美しさにも興味があります」
ルカの右手が私の頬を撫でる。背筋が凍った。身体が強張る。
「あなたの本当の名は? ユキコという名前は本名ではないのでしょう?」
私は答えなかった。ルカがその気になれば、名前なんて調べられてしまうかもしれない。顔を見られてしまったのだから。でも沈黙は、私の最後の抵抗だった。
私に力があったら。ルカを突き飛ばして捻じ伏せてやるのに。そうして『アルノ川の春』や父さんのことを力づくで聞き出してやるのに。あるいは、不二子さんのような美貌があったら、彼を翻弄して聞き出せたかもしれない。
でも、今の私には、肉体的な力も財力も後ろ盾も美貌も、何もない。それなら、ルカの好意
私を置いて行ってしまったルパンなんて。
ルパン。私は
押し黙る私の顎をすくって、ルカは
途端に、目の前が真っ赤に染まった。はじめて会ったときに、ルパンはがていたジャケットの色。次はオレンジ。フィレンツェを照らす夕日の色。そして、ブルー。カプリ島の空と海の色。最後は
ちがうのに。私が触れたい相手は、この人じゃないのに。
この人と一緒でも、私の世界に色はない。
神様はいじわるだ。大好きな人は全然振り向いてくれないのに、どうして、別の男にキスされるなんて。
胸のあたりから熱いものが込み上げてくる。顔で、腕で、足で、全身で抗っているのにびくともしない。キスが深まっていくのと同時に、何か大切なものが遠のいていく気がした。頬を温かいものが伝う。ルカの手が一瞬弱まった隙をついて、私は渾身の力で彼を押し離した。彼は抵抗しなかった。顔は離したけれども、身体は離れなかった。私はルカに涙を見られたくなくて、うつむいて頬と唇を拭った。
「私のもとに来れば、あなたの望むものすべて差し上げますよ」
ルカを見上げると、彼は自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「私が……本当に望むものは
「それはおもしろい」
ルカは再び私の顎をすくう。抵抗しようと振り上げた手を、彼はあっさりと掴んだ。にやりと笑うルカ
「イタリア人は手が早ぇなあ」
明るい声がルカの背後から聞こえて、彼は私を解放し、声のほうを振り返る。私は抵抗していた勢いで、後ろにあった大理石の手すりに背中をぶつけた。でも。痛みを感じる余裕はなかった。
この声、……。
「人の女に手ぇ出すなんて」
月明かりに照らされて現れたのは、ルパンだった。仮面をつけていても、声でわかる。私は全身の力が抜けてしまいそうになり、なんとか柵にもたれて身を支えた。
「今さらお出まし、か。きみと彼女は恋人同士ではないのだろう? そちらこそ、別の女性を口説いていたようだが?」
「俺は“用事”があって女の子に声をかけてただけだ」
「どうでしょうね」
背中を向けているのでルカの表情は見えないけれど、声には随分と余裕が感じられた。でも、それはルパンも一緒。
「
「ああ」
「『ヴィーナスの憂い』はいらない。代わりに彼女が欲しい」
「ほお」
ルカはちらっと私に横顔を向けた。私は顔を強張らせる。そんなこと、ルパンに訊かないでほしい。もし『好きにしろ』なんて答えられたら……私は、どうしたらいいの。ルパンの答えを聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。
「こちらの『ヴィーナス』のほうが、私はいい」
「こいつにそんな
嘲笑するルパンに、ルカの肩がわずかに震えた気がした。
「答えは“ノー”だ」
私は再度身体の力が抜けそうになる。膝から崩れ落ちそうになるのを、手すりに寄りすがって必死にささえた。
ルパン、……
「まあ、今日のところはいいですよ」
ルカはふうっと息を吐き、私に向き直った。胸ポケットから私の仮面を取り出し、半ば強引に私に握らせる。
「しばらくはフィレンツェにいますので、いずれまたお会いしたいですね」
ルカは背中を見せて、歩いて行く。再び仮面をつけ、ルパンとすれ違う。ルパンはじっとルカの顔を睨みつけるけれど、ルカのほうはルパンに目もくれず、この場を後にした。
ルカの気配が消えてしまうと、ルパンは仮面を外しながら私のほうに歩み寄ってくる。
「ったく、大人しくしてろよ」
脱力してしまっていた私は、足に力を入れてルパンに向き直る。
「ルパンがどこかに消えちゃうから……」
私を置き去りにして消えてしまったルパンに、少しむっとして答えたけれど、安堵のほうが大きかった。ルパンが来てくれた。
でも。ルパンは、私が
「俺はここを偵察してきたんだよ。給仕係の女の子にも色々聞いたりな」
ああ、そういうこと。女性を口説いていたというよりも、話を聞いていたのか。ルパンに腹を立てて申し訳なかったなと思うけれど、あんな場所にひとりで置いて行かれた私の身にもなって欲しい。
「気をつけろよ。イタリア男は女好きだからな」
「女好きの泥棒に言われても全然説得力ない」
「ひっでぇなぁ。助けてやったのに」
「助けなら」
もっと早くに来てよ。私はその言葉を呑み込んで、ルパンに背を向けた。ひんやりとした大理石の手すりに手を載せる。
その言葉を言ってしまったら、ルカに何かをされたと言っているのと同じ。でも、私の抵抗は虚しく崩れ去った。
「なんだー? まさか、あいつに惚れちまったわけじゃねぇよな?」
否定しようとしたけれど、思いとどまる。どうせルパンは、私がルカを好きになろうがなるまいがどうでもいいくせに。ルカを好きになったと言ったら、少しは心配してくれるだろうか。
「
私ははっとしてルパンを振り向いた。ルパンは苦笑して肩をすくめている。
まさか
それに。
最初にキスをされたときに、どうして助けてくれなかったの。
それじゃあ本当に、私のことを、どうでもいいって思るんじゃない。
最悪だ。
また涙が出そうになって、私は再びルパンに背を向けた。
「おいおい……わかってるのか? あいつは親父さんの絵を奪ったかもしれない男だぞ?」
ルパンは私の沈黙をイエスと捉えたのか、諭すように言ってくる。
そうだ、父さんの絵。あいつは、『アルノ川の春』を持っている。ルパンの手を借りずに、絵を取り戻せたら。そうしたら、ルパンへの依存心のような気持ちも、断ち切れるだろうか。
私は手元の仮面を見下ろした。ルカから返された仮面。その下には一枚のカード。名刺の下に、電話番号が書かれている。
口を閉ざす私の背に向かって、ルパンは大きなため息を吐いた。
「ま……心底惚れてるってんなら、俺に止める筋合いはねぇけどな。余計なお世話ついでに言わせてもらうんなら
「大丈夫」
何が大丈夫なのか自分でもわからないけれど。ただ大丈夫大丈夫と、呪文のように胸の内で唱えていた。
それからすぐに会場を後にしたルパンと私は、次元と合流して車に乗った。私はほとんどしゃべらなかった。今日は本当に、精神的にも肉体的にも疲れた。綺麗なドレスを身につけて出た仮面舞踏会。ルパンとダンスをして、『似合う』と誉めてもらえた。舞い上がっていた気持ちが、今は嘘のように沈んでしまっている。シンデレラの十二時の魔法が解けてしまったかのように、何もかもが形を変えていくような気がした。ドレスはぼろ布になり、高級車はカボチャになり。運転手の次元はねずみになるんじゃないだろうか。
でも、シンデレラと違うのは
ルパンは何か考え事をしているようで口数が少なく、次元もしゃべらなかった。ただ、ラジオから小さな音量で音楽が流れている。なんとなく聞き流していたけれど、ある一曲だけ耳に入ってきた。ベートーヴェンの『悲愴』をアレンジして、歌をつけたものだった。ルパンを横目で見ると、聞いているのかいないのか、わからなかった。
原曲よりポップで軽やかだけれども、ロマンティックでどこか寂しさを漂わせる曲。歌っているのは男性だけれど、歌詞は今の私にぐっと沁みこんでくるものがあった。
たった一度のスローダンス
今夜は私のもの
ここにいるのはあなたと私だけ
明日はずっと遠くにある
この夜は永遠につづく
いくつもの夜 あなたを想ってきただろう
あなたを抱きしめたい
でもきっとあなたはもういない……
私はそっと目を閉じた。今度は何の色も見えなかった。
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(15.8.22)
最後の歌は、Billy Joelの『This Night』という曲です。歌詞は意訳しました。とても素敵な曲です。