私は落ち着かない気分で腕時計を見た。時計の針は午後一時を指している。先ほどから一分おきくらいに時計に視線を落としている気がする。
午後一時
それに、待ち人は、忙しい人なのだから。
Ⅵ. パープルのシャドウと 再び仮面舞踏会
待ち合わせ場所に指定されたトラットリアは、清潔で、堅苦しくはないけれど、どこか高級な雰囲気を醸し出している。ミケランジェロ広場の隣にあるその店のテラスからは、フィレンツェの街が一望できた。
手持ち無沙汰も居心地が悪いので、先に紅茶を頼んでいた私は、カップに口をつけてちびちびと飲む。時計を見るか、広場や景色を見るか、紅茶を飲むか。十分前から同じ行動を繰り返している。でも、風景や紅茶の味といったその内容は、あまり頭に入ってこない。ただ、所在無く動作を繰り返しているだけだった。後悔と不安とが混じりあって、手に汗が滲んだ。
昨日、私は決心してルカに電話をかけた。ベルトリーニのパーティーからはニ日が経っていた。彼は早速翌日
父さんのことを何としてでも聞き出そうと、決意を固めて行動に移したはいいけれど、やっぱりやめておけば良かったという後悔が、胸の内の大半を占めていた。私のような庶民、相手にしてもらえるはずがない。そう簡単に父さんのことがわかるはずがない。それに、私はルカのことが苦手だった。彼の瞳に見つめられてしまうと、居心地が悪い。
でも、何か動いていないと、息が詰まりそうだった。あのパーティー以来、私の胸はずっとざわざわと奇妙な音を立てていた。
あの夜。幸福だったダンスから一変して、現実に引き戻されるような、突き落とされるようなキス。そして、ルパンの態度と言葉。「心底惚れてるってんなら、俺に止める筋合いはねぇけどな」……。
何度も何度も勝手に思い出されて、胸が締め付けられる。何か大事なものが失われつつあるような、そんな心地がした。
嫌な思考も感情も断ち切るために、私は足を踏み出すことにした。
昨日、ルカとの電話を切った私は、そのままトルナブォーニ通りに繰り出した。私の手持ちの服では、高級ブランドオーナーとは釣り合わない。ブランド店が集まる通りで、私が絶対に着そうになかったブランドものの服やアクセサリー、化粧品をいくつか買って来た。ライトブルーの細いストライプのシャツワンピース。オフホワイトのカーディガン。ベージュのパンプス。メイクとヘアセットは、先日パーティーのときにしてもらったやり方を見よう見まねでやってみた。とりあえず、いつもの私よりは多少整って見えるけれど、やっぱりまだ何かが違う。決定的に違う。これじゃ、だめ、……。
思い切って、私はドレスを買ったお店を訪ねることにした。それが、つい先ほどの出来事。取り合ってくれるかという不安はあったけれど、もう藁にもすがる思いだった。幸いお店は開いていて、お客さんは誰もいなかった。
「Ciao
この前も対応してくれた女性が、気さくに声をかけてくれた。
「あの、突然すみません。じつは、メイクをしてほしいんです」
遠慮がちに、でも必死さを込めて言った私の意図を察してくれたのか、女性は少し考えてから頷いてくれた。本当は予約制だったのか訊くと、その通りだった。でも、たまたま午前中の予約は入っていなかったので、快く対応してくれた。申し訳ない気持ちと、助かったという気持ちで、私は「ありがとう」と深く頭を下げた。今日は男性ではなく、この女性がメイクをしてくれた。
「デート?」
私の髪の毛にヘアアイロンをあてながら、女性はそっと訊いた。
「うーん……デート……ではないんですけど」
「この間の方と?」
それだったらどんなに良かったか。不意にそう思ってしまって、私は心底自分を恨んだ。胸が押し潰されるような苦しさに、顔を歪めてしまう。笑おうと努めたけれど、できなかった。鏡の中の私は、泣き笑いのような表情になっていた。
「いえ……」
ただ静かに首を横に振る私に、女性はアイロンを動かす手を止める。深追いすべきか迷っているようだった。
「
再びアイロンを動かしながら、さりげなく、彼女は訊ねた。優しい力加減で、私の髪をカールさせている。ふと、彼女に何もかも打ち明けてみたくなった。私、泥棒を好きになってしまったんです。そう告白したら、彼女はなんて言ってくれるだろう。でも、言えるはずもなく、私はため息とともに吐き出した。
「打ちのめされました
「あの人? この前、一緒にお店に来た方?」
「そうです」
それだけは正直に告白することにした。
「まさか。好きでもない人に、服なんてプレゼントする?」
「するんですよ、それが、あの人は。宝石だって綺麗な女の人にほいほいあげちゃうような人だし」
「あら……そうなの?」
彼女はどう答えるべきか目を泳がせている。代わりに、私が口を開いた。自分の決意を口にするために。
「それで、この前パーティーで会った人と食事をすることにしたんです」
「ええ? その好きな男性を忘れるために?」
「うーん……そういうわけではないんですけど。今日会う人と恋愛関係に発展することはなさそうだし」
ルカの容姿は、誰もが振り返るようなもの。けれど、好きになることはない。父さんの絵を奪ったかもしれない人物だし、何より
「その人、イタリア人?」
「はい」
「イタリアの男って、日本人女性を口説くことが多いのよ。日本の女性は、大人しくて、言うことを聞くれて、清楚だとか思われているみたい。そのお相手の人がどうかはわからないけれど、気安く声をかけてくるイタリア人もいると思っておいて」
「はい……」
ルカが気安く声をかけてきただけだとしても
「でも、この前の人のこと、諦めてしまうの?」
いつの間にか彼女はすっかり気さくなようすになっていた。私も彼女に心を許しはじめていた。朗らかで友好的なのに、ずけずけと立ち入ってくるような感じではない。
「だって、女好きのくせに私に興味ないし、住む世界も違うし、いついなくなっちゃうかわからないんですよ」
ついつい愚痴っぽく私は言葉を連ねていた。これまで誰にも聞いてもらうことがなかった悶々とした想い。口にすると少しすっきりする、かもしれない。
「へえ……そういうふうには見えなかったのに」
彼女に促されて、私は目を閉じた。アイシャドウを塗ってくれるようだった。
「あのときのドレス姿、綺麗だったわよ。あの人も、似合うって言ってくれていたのに」
「ドレスだけ綺麗だって、ふだんの私を知っていたら、意味がないですよ」
「そんなことないわよ。アプローチしても振り向いてくれなかったの?」
アプローチなんて、一切していない。むしろ、気づかれないように必死で、逆のことばかりしていた気がする。それなのに、『どうせ私に興味ない』なんて文句を言うのは、お門違いなのかもしれない。でも、気づかれたらルパンは、私から去っていくだろうから、……。
「あの人
峰不二子さんの姿を思い浮かべて、私は言った。実際には恋人なのか確かではないけれど、ルパンが不二子さんのことを気に入っているのは事実。これには彼女も黙ってしまった。
「もういいわよ」と言われ、そっと目を開ける。パープルのアイシャドウが私の目を彩っていた。上品で綺麗なまつ毛のカール、肌とリップの色にあった薄いピンクのチーク。目のラインに丁寧に引かれたアイライナー。やっぱりプロってすごい。鏡の前でしみじみしてしまった。
「またいつでも来て。できれば今度は、あなたが心から愛する人とのデートの前がいいわ」
私は、彼女が提案してくれたローズピンクのスカーフを撫でながら、彼女とのやり取りを思い出していた。ベルトとして腰に巻くと素敵よ、と無償でくれたスカーフ。なんでも、この前のパーティーの時に、もらった金額が多すぎたのだとか。私が支払ったわけではないし、一度は遠慮したけれど、実際に彼女の言う通りにするとお洒落だったので、ありがたくもらうことにした。ライトブルーのワンピースにメリハリがついて、シックに見える。
彼女のことは好きになりつつあったけれど、もうあのお店にお世話にならなくても済むように、早いところルカから情報を得たい。もうこんな緊張感、心臓に悪い。本当にルカは来るのか。明るいところで私を見てがっかりして帰ってしまわないか。うまくルカから父さんの情報を引き出せるか。たくさんの不安と後悔が私の胸を圧迫していた。
時計を見ると、一時十五分。約束の時間からは十五分過ぎている。世界の一般では、これくらいは遅刻に入らないのかもしれない。
でも、私は、時間に遅れたことのない人とばかり約束をしていたから、余計に時間が気になってしまうのかも。
何を考えてるんだろう、私。今回でさようならということになってもいいように、ルパンに頼りたくないからここにいるというのに。もし、私ひとりで父さんの絵を取り戻せたら、父さんの死の真相を知ることができたら、私の足でこれからを踏みしめて行ける。そんな気がした。だからここに来たというのに。
紅茶をもう一杯おかわりしようかと、空になったカップを見つめながらぼんやりとしていたとき、ミケランジェロ広場から背の高い男性が早足で歩いて来た。ルカだとすぐにわかった。薄いグレーのスーツの上下、ジャケットの前を開けていて、ブルーのシャツを覗かせている。ノーネクタイでシャツの上のボタンを外していて、スーツなのにカジュアルに着こなしている。お洒落のオーラのようなものがはっきりと出ていて、広場の女性の多くが振り向いて彼の背中を追っていた。
こんな人と私は釣り合うのかな。不安が私の全身を逆撫でる。
けれども、もう遅い。待ち人は、来てしまったのだから。
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(15.8.26)