結局、またあのお店のお世話になってしまった。デジャヴかと思うほど先日とそっくりな光景が通り過ぎてゆく。仕事を終え、そのままトルナブォーニ通りへ。あのときの女性に、今回は洋服も選んでもらって、メイクとヘアセットも頼んだ。
そして、私はひとり、ミケランジェロ広場へと続く坂を上ってゆく。広場を真っ直ぐ突っ切って、トラットリアの入り口で予約の名前を告げる。
ウエイターの顔色が変わり、丁重すぎる接待で店の奥の席に案内された。大きな窓があるその席からは、フィレンツェの夜景が見えた。
Ⅶ. 白刃踏むべし
八時五分前。照明がやや薄暗い店内は、カップルだらけだった。昼間の活気があるようすとはまた異なる雰囲気だった。
私はお手洗いに行き、身なりを整える。ブラウンのカットソーにパステルピンクのカーディガン。アイボリーの膝丈のフレアスカート。濃いブラウンのストッキング。艶やかに輝く黒のパンプス。この前のパーティーでも身につけていたパールのネックレス。
これをもう一度つけることになるなんて、思わなかった。できれば身につけたくはなかったけれど、以前、あのブランド店の女性に、何かアクセサリーがあったほうが良いと言われたので、一応持ってきた。私が持つアクセサリーなんて高級なものがなかったから、仕方ないのだけれど。
席へ戻ると、八時を少し回ったところだった。ルカの姿はまだない。
かつてルパンと一緒に見た夜景を眺めていると、そんな想いが突然湧いてきた。その想いは止めどなく身体中を巡って、頭をぼんやりとさせる。あのときの景色、雰囲気、匂い、ルパンの言葉、私の言葉。ひとつひとつが丁寧に思い出される。
ルパンとの食事は、楽しかった。待っている間も幸福だった。でも、今の私の気持ちには、楽しみの欠片もない、……。
ルカは十分遅れでやって来た。ダークグレーの細かいストライプのスーツに、ブルーのシャツ。今日もノーネクタイで首元のボタンは開けている。恋人と一緒に来ている女性も、一瞬ルカのほうを振り向いて、うっとりとした表情を浮かべていた。そして、私と彼が頬を合わせる挨拶をすると、つまらなそうに恋人に視線を戻す。
「待たせてしまったかな」
「いいえ」
ルカは席に座り、ワインをふたつ頼んだ。
乾杯。グラスのぶつかる乾いた音。一口、ワインを口に含むと、爽やかな香りが舌の上に広がる。
なんだか遠いところに来てしまった心地がする。私はルカの話をぼんやりと聞きながら、そう感じていた。半分夢の中にいるかのよう。でもそれは、けっして良い意味ではない。自分の型を無理やり違う型に押し込もうとしている感じ。高い服を着飾って、綺麗にメイクをしてもらって、背伸びして、無理やり笑いを作って。
これで、本当にいいの?
周囲の恋人たちが醸し出す甘い雰囲気に包まれていると、自分がなぜここにいるのか忘れてしまう。とびきりハンサムな人と、食事をしているのに。でも、私には彼への好意がない。ルカは私の父さんの死に関わっているかもしれない。私はそれを知りたいだけ。何かきっかけのようなものを掴んで、聞き出さなくては。
でも、ルカには、隙がない。薄々感じていたけれど、それがしだいに確信へと変わってゆく。ルカは甘いマスクで優しい声で接してはいるけれど、その仮面の裏には何かが隠されている。きっと。私じゃ太刀打ちできない。そんな気がした。ここで下手に父さんのことを探ろうとすれば、私の正体がばれてしまう。ルパンと繋がっていることも、何もかも。
どうして軽々しく彼に電話をしたり、食事の誘いを受けたりしたんだろう。ルカの瞳の奥には鋭い刃のような光がある。それに気がついていたはずなのに。私なら聞き出せると思った? 私ならできると思った? ルパンの手を借りたくなかった? ルパンが私に振り向いてくれないから、意地になった?
思考が、まとまらない。
なぜだろう。この前ルカと会ったときとは違う、落ち着かない気持ち。割れてしまったガラスの破片のように、私の思考や感情が頭の中で散り散りになっていた。拾おうとしても拾い集められない。
「
低い声でルカが言った。料理はもう既にデザートに移っていた。今までの食事の味を全然覚えていない。
「どこか具合でも悪いですか?」
「あ、すみません……ぼうっとしてしまいました」
「今日のあなたは心ここにあらずですね」
「いえ、……」
否定しようと思ったけれど、言葉が見つからなかった。ルカに見破られて当然だ。
「……ごめんなさい」
「出ましょう」
ルカはそう言うなり立ち上がって、私の返答を待たずにウエイターを呼びつけ、会計を済ませてしまった。彼は「行こう」と短く言うと、店の外へ向かった。怒らせてしまったかもしれない。私も彼の後を追って外に出る。
「少し歩きましょうか」
私とルカは広場を通り抜け、フィレンツェが見渡せる場所まで歩いた。この前、次元と会ったのもこのあたりだった。そして
ミケランジェロ広場の展望スペース。春の暖かな夜、フィレンツェの夜景とロマンティックに過ごそうと、カップルの姿がいくつか見えた。
「フィレンツェの夜景は物足りなくはないですか?」
ルカはぼんやりと光に照らされるドゥオモを見つめながら訊ねた。
「いいえ……私は、好きです」
「そうか。正直なところ、私には少し物足りない」
『悪くねえ』
「ニューヨークや香港や発展した都市に比べたら、光が少ないですよね。ここは」
「そう。
過去に生きる街。たしかに、フィレンツェには歴史的な建物は山ほどあっても、ビルや都市型の建物はひとつもない。時間の歩みを止めてしまった街。
「私は、光が好きでね。幼いころ、忙しい両親はいつも家におらず、暗い部屋で過ごしていたせいかもしれない。常に光を求めている」
ルカは変わらずドゥオモを見ながら
「光……ファッション、芸術品、金、そして明るい家。私が望んで手に入らなかったものはない。ただひとつを除いてね」
ルカは私に視線を移す。月と街灯が彼を照らした。
「ひとつ?」
「そう。真の愛だよ。今まで私の金や地位や容姿を目当てに近づいてきた者は大勢いる。しかし、私の心を満たしてくれた女性はいなかった。ただひとり、あなた以外には」
男性にそんな台詞を言われて、動揺しない女性はいない、と思う。私も恥ずかしさで目を伏せた。
「私も
「きっかけは何でもいい。私も、はじめにあなたに近づいたのは、あなたが日本人だったからだ。真実を話すと、私は一度日本人の女性と付き合ってみたかった。イタリアでは、日本を舞台にしたある戯曲が有名でね。その影響で、日本人女性に神話的な魅力を感じる男も多い。実を言うと、私もそのことに興味があった。だが、私は、あなたと話しているうちに、あなたの憂いの表情や瞳の奥の強い光に惹かれた」
ルカの声音には徐々に熱がこもってくる。
「しかし、その瞳には私は映っていない。誰を見ているんです?」
どきりとして、私はルカを見上げた。真剣な眼差しが返ってくる。
「手に届かないとわかったら、ますますあなたを手に入れたくなった」
ルカは手を伸ばし、私の頬に触れようとする。私は咄嗟に一歩後ろに身を引いた。彼の手が宙を掴む。
「本気じゃ……ないでしょう、あなたも。あなたのような方が、私を目に留めるはずがない」
「私のような、とは?」
「ファッションブランドのオーナーで、階級も容姿も世間の注目も高いあなたが」
「それは関係がない。ルカ・ベルトリーニとして、個人としてあなたを好いているんだ」
「
「心外だな」
ルカは両手を広げ、傷ついたような表情をする。
もし。ルカが本気で私のことを気に入ってくれていて、父さんのことがなかったら。私はルカに好意を持っていただろうか。とびきりハンサムで、優しくて、愛を囁いてくれる男性。
沈みゆく夕日にオレンジ色に照らされた横顔。月の光で優しい色を放つ瞳。一緒に観た東京や横浜の鮮やかなネオン、真っ青な空と海、……。
ルパンの見せてくれる色のほうが、私は
そうか。私が落ち着かない気分でいたのは、ルパンとの想い出を上書きされたくなかった、というのもあったのかもしれない。ルパンと観た夕日や夜景。交わした会話、流れる空気。そんな淡い想い出のあるこの場所に、同じ時間に違う男性と来たから。だから、胸の奥がざわざわするのかもしれない。
ばかだなあ、私。
『手に入らないからこそいっそう手にいれたくなる』。それは、私のほうかもしれない。
「
かすれる声でやっと言って、広場のほうに足を踏み出そうとすると、手首を掴まれた。
「帰さない
強い力に驚いて振り向くと、ルカの瞳が月明かりに照らされ、鋭利な光を放っていた。
top | back | next
(15.8.29)