Ⅶ. 白刃踏むべし ... 2




「忘れさせてあげますよ。何もかも。その男のことも」

 ルカは私を半ば乱暴に引き寄せ、私の耳元で囁く。そうしたかと思うと、次の刹那に口づけてきた。この前とはちがう    荒々しくて、闇雲なキス。
 『忘れさせる』。私の何もかもを奪っていくかのような、そんな暴力的なものを感じた。

「っ……!」

 必死で抵抗してもがくけれど、無駄だった。むしろそのたびに、口づけはどんどん深まっていく。
     こわい。
 全身が震えた。ただのキスのはずなのに、目の前が真っ暗になっていく心地がする。好意を持っていない男性からのキス、ということでもいやなのに、ルカの口づけには、私を恐怖の底に叩き落とすような恐ろしさを感じた。ルカの闇の深さを見せつけられるかのような。
 ルカのことを見くびるのじゃなかった。やっぱり彼は、ふつうじゃない……。中途半端に近づいた私が悪かったんだ、……。
 こわい。
 このままどこまでも深く深く、落とされる、……。
 身体の力が抜けてゆく。抵抗する力も気力も失われてゆく。思考が遠のいてゆく。
 だれか、…………でもまわりはカップルだらけ……キスをしている恋人同士なんてたくさんいる……だれも気づかない……でも、私たちは恋人じゃないのに……。

 ごん、と鈍い音を、ぼんやりとしはじめた頭の片隅で聞いた。けれども音だけでなく、振動も伝わってくる。少しだけ私の思考が蘇ってくる。私の身体に何かが当たったわけではないようだった。
 いまの、なに……?
 気がつくと、ルカは私を解放していた。私はよろめいて、背後の手すりに身体を倒れるようにもたれた。震えが止まらない。でも、思考はどんどん私の頭に戻ってゆく。なんだかわからないけれど、今のうちに体勢を立て直さなきゃ。逃げなきゃ。
 何が起きたんだろう。ルカを見ると、彼も呆然と足元に転がっているものを見つめていた。彼に当たったのだろう   黄色い、レモン。

「ったく。嫌がる女を強引に連れ込もうとするなんざ、有名ブランドのオーナーが聞いて呆れるな」

 うそ。
 私は耳を疑った。信じられない。まさか、そんな、どうして。
 この声は     私が心の底から聞きたかった声。
 薄暗い夜闇の中、姿を現したのはルパンだった。
 どうして、ここに。
 不覚にも涙が出そうになる。
      ルパン。声を出さずに、私は呟いた。

「おまえは……ルーピン?」

 ルカはルパンを睨みつける。そうだ、ルカの前ではルーピンと名乗っていたのだった。ルカはルパンの正体に気づいていないのだろうか。でも、今は仮面をつけていないから、ばれてしまうんじゃ、……。

「俺はあのとき“ノー”と言ったはずだけどな」

 ルパンは余裕のある笑みを浮かべている。ルカも「ふん」と鼻で笑ってみせる。

「そのわりには、彼女のことを放っておいているようだが?」
「四六時中一緒にいるわきゃないだろ」
「だが、彼女のほうから誘ってくれたのですよ」

 ルパンは、私を見る。私は何も、返せなかった。

「それにしたって、女はもっとやさーしく扱ってやらにゃあ」
「ほお。おまえは彼女に優しい、と?」
「ああ、もちろん」

 ルパンは変わらず笑みを湛えたまま、こちらに近づいてくる。そしてルカに挑発的な一瞥を投げ、私の前にやって来る。ルパンの手が私の背中に伸びる。そのまま引き寄せられて    ……
 次の瞬間の出来事に、私の意識は飛んだ。何が起きたのかまるで把握できなかった。いきなりルパンの顔が近づいてきたかと思うと    ルパンの唇が、重なった。咄嗟に目を閉じる。恥ずかしさとか嬉しさとか疑問とかを一切感じる余裕がなく、ただただ、呆然自失していた。
 ルカのものとはちがう。煙草のにおい。優しくて、少しだけ強引で、温かくて、甘いキス。
 その感触をきちんと確かめる前に、ルパンは私を離した。ほんの数秒の間だったと思う。でも、私にとっては永遠に忘れられない一瞬だった。
 なに、いまの。
 突然のことに頭がくらくらする。今の出来事を振り返る前に、目の前の状況が進んでいく。

「今のは、俺以外の男の誘いに乗った罰」

 ルパンは私を見て、にやりと笑う。
 私は、ぼんやりとルパンを見つめる一方で、ルカからの視線を感じた。けれども、ルカに顔を向ける余裕が、ない。私は完全に放心状態になってしまって、何もできなかった。

「そうですか、わかりました」

 ルカは苦々しく笑い、言った。

「ただ、私は、欲したものは必ず手に入れる主義でね」

 ルカは、低く言い放つ。ルパンが答えた。

「あいにく俺も、自分のものを奪われるのが大嫌いなんだよ」

 ルカはルパンの言葉を鼻で一蹴して、足早に去って行った。
 まだ夢心地だった私は、彼の背をぼんやりと見つめていた。

 


「気をつけろって言ったろ?」

 ルパンの声にはっとする。ルパンを見上げると、胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけるところだった。真っ赤な炎。揺らめき立ち上る灰色の煙が闇に溶けて行く。
 私は夢心地でその光景を眺めていた。本当に夢かもしれない。さっきまではルカの恐怖に怯えていたというのに、この甘酸っぱくてぼんやりとした気持ちはなんだろう。頭の中がごちゃごちゃ。胸がざわざわする。
 ルパンがここにいる。どうしてここにいるの? どうして助けてくれたの?
 どうして   キスを、したの?
 唇だけが異様に熱を持っていた。近づいてくるルパンの顔、温かな感触。ほんの一瞬のできごとだったけれど、リアルに思い返すことができた。顔が熱くなってくる。
 でも、ルパンは何事もなかったかのように煙草を吸っている。あまりにルパンが平然としているので、あれは私の妄想だったのかも、とさえ思えてくる。それとも、ルパンにとってはキスなんて些細な挨拶程度のものなのかもしれない。
 あのときのダンスと同じように、私ひとり舞い上がっているだけかもしれない。
 私は少しずつ、現実を取り戻してくる。

「どうして……ここに?」

 ようやくそれだけ訊ねた。ルパンは変わらず煙草を吸いながら、答える。

「んー? 通りすがり」
「通りすがり、って」

 そんな偶然があるだろうか。問い詰めたかったけれど、私が訊ねる前に、ルパンは屈んで足元に落ちていたレモンを拾い上げた。

「それ……?」
「五エ門のやつがカプリ島から持ってきたんだ。車ん中にわんさか入っててな。ここで煙草を吸ってたら、嫌がるちゃんに迫る男が見えるじゃありませんか。んで、こいつをひゅっと投げたわけだ。見事命中。ま、これであいつも頭を冷やしただろ」

 ルパンはぽんぽんとレモンを宙に投げながら言った。
 またルカにキスされているところを見られた。それは穴があったら入りたいくらいに嫌だけれど、でも    本当に、良かった。ルパンが来てくれて。そうじゃなかったら、今頃どうなっていただろう……。
 あのときに感じた恐怖の片鱗が蘇ってきて、身震いした。私は素直にルパンに感謝した。

「それはどうも……ありがとう」
「お? “嫌がってた”ってとこに、否定しないんだな。あいつに惚れてるんじゃなかったのか?」
「そんなこと一言も言ってないよ」
「じゃあ、なんであいつに近づいたりした?」

 ルパンは石造りの手すりにもたれて、煙草を足元に捨て顔を私のほうに向けた。私はルパンに踏みつけられた吸い殻を見つめて、黙ってしまった。ルパンの声音は、きつくはないけれど、重かった。ごまかしは、きかない。

「親父さんの件で、何か聞き出そうとした   か?」

 呆気なく言い当てられ、言葉に詰まる。ルパンは探るような目で私を見た。視線を落としたかったけれど、そらしても無駄だと思った。

「……なにか……手がかりでも……少しでも掴めればと思って」
「あいつの好意   “らしきもん”を利用して? 色仕掛けでもしようと思ったのか?」
「そんなつもりは、……」

 ルパンのたしなめるような口調に反論しようとして、口を噤む。色仕掛けなんて私には無理だとわかっていたけれど、結果的に見ると、それに近い。精いっぱい着飾って、相手が食事に誘って来たのをいいことにそれを利用して。そして、相手の底の深さを知って、恐怖に怯えた。自業自得、……。

「不二子じゃあるまいし。には無理だって。似合わねぇよ」

 かっと頭に血が昇るのを感じた。“不二子”という言葉がルパンの口から出てくるのは、いつもつらい。でも、今はもっと胸に堪えた。美しくて強くてルパンに近い不二子さん。彼女と私は、まるで違う。それはわかりきっているのだけど、せめて私も、少しでもルパンに近づきたかった。
 それもすらも無理なのだと、ルパンに言われているような気がしてしまった。

「わかってるよ、それくらい」

 語気を強めて返す私に、ルパンも同じ調子で言った。

「俺が“たまたま”通りかかったから良かったようなもんを。そうじゃなかったらどうしてたんだ?」
「それは、……」

 はじめてかもしれない。こんなふうに、ルパンに強い口調で詰め寄られるのは。私は今までの勢いを失くして、口を閉ざしてしまった。
 ルパンは、呆れてるのだと思う。あのときのパーティーで、ルカに寄り添われて懲りたはずだったのに。しかも、そのときもルパンに助けてもらっている。
 私はルパンから視線を外し、身体をフィレンツェの街に向けた。ひんやりとした手すりをぎゅっと掴む。
 本当に、私はどうしようと思っていたんだろう。はじめは、“なんとかなる”と思っていた。ルカの澄み切ったブルーの瞳の奥には、黒い翳りがあるのには気がついていたのに。たぶん、突っ走っていたのだと思う。ルパンの力を借りずに何かを成し遂げたかった、と。でも、結局、こうしてまたルパンに助けられてしまった。

「……私……ルパンに頼ってばかりだったから……私ひとりで何とかしたくて」
「うーむ」

 俯いて呟く私の横に、ルパンも並んだ。ふたりでフィレンツェの街を眺める格好になる。

   悪かったよ、言い過ぎた。ベルトリーニのパーティーに誘ったのは俺だしなぁ」

 ルパンの口調はいつもの調子に戻りつつあった。私に呆れているわけではない、のかな。

「俺はただ、自分の仕事がおもしろくなるんで、親父さんの遺品も盗んでるだけだ。俺もに依頼してるもんがあるしな。等価交換ってやつだろ? がそんなに気を病むこたぁねえって」
「……うん」

 そう、ルパンの一番の望みは“退屈しないこと”“おもしろくなること”。父さんや私のためじゃない。私も   結構苦労して   絵の修復をしてあげているのだし。でも。

「でも……私ひとりじゃどうにもできなかったから。ルパンの理由はどうあれ、ルパンたちのおかで父さんの美術品を手にいれることができた   今回のものを入れると、四つも」
「四つ、ね」

 ルパンは呟いて、少しの間沈黙する。

「話は変わるけどな、そのことで言おうと思ってたんだ。。まだ親父さんの美術品、取り戻したいか?」

 さっと全身の温度が下がる心地がした。ルパンの意図が、なんとなくわかってしまった。

「これ以上集めると、の足取りがつかないとも限らない」

 私もその懸念は持っていた。ルパンは私に関連性が見つからないよう   私のためかどうかは定かではないけど   父さんの美術品を盗むときは、他のものと同時に盗んでくれていた。でも、それも続けていけば、いつかは私に足がつく可能性もある。
 こういう話をいつかされるだろうなとは考えていた。それはすなわち、ルパンとの別れ。私は顔を歪めてしまわないように、必死で平然を装った。あたりが暗くて助かった。
 もしかしてルパンは、今回の『アルノ川の春』を最後にしようと思っているのかな。だから、最後の思い出に   ディナーやカプリ島に連れて行ってくれたのかな。そうか、そういうことか。
 最後の思い出。
 そう思ってしまうとやりきれなくて、目の前が真っ暗になる。でも、ルパンに父さんの美術品を盗んでもらうのは、そろそろ終わりにしたほうがいい。ばれてしまうかもという不安もあるし、これ以上この関係を続けていけば、私はどんどんルパンに依存してしまいそう。

   わかってる。だから……今回が最後なのだとしたら……なおさら自分の手で決着をつけたくて」
「ん? まさか、ベルトリーニが親父さんの敵だって知ってたのか?」
「え? どういうこと?」

 思いがけないルパンの言葉に、私はルパンを見上げて固まってしまった。ルパンは私の反応を見下ろして、しまった、という顔をしている。

「なーんだ。最後だとか自分の手でなんとかとか言うから、ルカのやつから真相を聞き出したのかと思ったのに」
「どういう……こと?」
「んー……いやさ、ここ数日で調べたのよ。今まで親父さんの美術品を持ってたのは、どっからか買いつけてたやつらだったろ? ところがベルトリーニは、直接親父さんから『アルノ川』を手に入れてたようだからな。なーんか臭うな、と」

 ルパンは再び煙草を取り出す。でも火はつけずに、それを手で弄びながら続けた。

「そう、やつは他と臭いが違った。で、裏の世界にちょいと探りを入れたらな、元殺し屋だとかマフィアだとか、そんな連中とベルトリーニが   ベルナルドじゃなく、ルカのほうが、繋がってることがわかった」
「まさか……」
「で、調べていったら、三年前、ニューヨークでの親父さんを殺した、っていう男を見つけた。そいつに問い質したんだよ。んで、ベルトリーニの名前が挙がった。ルカに依頼されてやったんだと」
「そ……んな」

 それじゃあ、私は父さんを殺した男とさっきまで会っていたというの? 何か関わりがあるかと思っていたけれど、まさか父さんを殺した当人、だったなんて。驚きの後から、怒りがふつふつと湧いてくる。

「どうして……ルカに殺されるような理由なんて、父さんには何も……」
「それは俺もわからねえ。親父さんを殺した男は、理由は聞かされてなかったようだな。個人的な恨みがあったのか? 親父さんのコレクションの中に、やつがどうしても欲しいものがあったのか」

 『他人の命を奪うほどの価値のある美術品は世の中にある』。そう言っていたルカの言葉が唐突に蘇ってくる。私ははっとした。

「そうかもしれない。父さんの持っていた美術品の中に、欲しいものがあったのだと思う。それで、たぶん、父さんが断ったから   殺して、奪った……。『人の命を奪うほどの価値がある美術品は世の中にある』、ルカはそう言ってた」
「なんだって?」

 ルパンは持っていた煙草を捨て、代わりに腕を組んで考え込む。

「あいつの財力や権力なら、警察や他のブローカーを丸め込むこともできる。その“価値ある美術品”欲するあまり、親父さんを殺した。しかし、自分の犯行とわからせないために、他のブローカーを巻き込んで、親父さんのコレクションを奪った。親父さんの噂をでっちあげて   そういうことか?」

 闇の世界と繋がっていたこと。欲しいもののためなら手段を選ばないこと。そういう黒い翳が、ルカの瞳に映っていたのだろうか。
 あいつが   父さんを。あいつに近づこうと、着飾ったり笑顔を作ったり、キスを許したりしていた自分のことが、許せなくなる。そのときは父さんの真相を聞き出そうとしていたとはいえ。まさか根幹で絡んでいたのがあいつだったなんて。

「しかし、やつは一体何が欲しかったんだ?」
「わからない。価値というなら、『ニコラ・フラメルの書』……でもあれはルパンが取り戻してくれた……他の美術品は、あくまで美術品としての価値だし……」
「親父さんのコレクションがわかればなぁ」
「わかるよ。写真をファイリングしてある」
「おっ、さーすが! よし、見せてくれ」

 急に展開が目まぐるしく動いていく。ルパンと私は、私のアパートに向かって歩き出した。

 

top | back | next
(15.9.4)