Ⅶ. 白刃踏むべし ... 3
帰宅して明かりを点けるなり、私はどっと身体が重くなるのを感じた。居心地の良い自室に戻ってきたという安心感もあるし、無事に戻ってこられたという安堵感もあった。今日は色々なことがありすぎて、まだ頭が混乱している。
なにより、私の横には、ルパンがいる。そのことが私を少しだけ緊張させる。気を緩めると、先ほどのワンシーンが思い出されて動けなくなってしまいそうで、こわい。
私はルパンをソファに案内して、父さんのコレクションの写真が収まるファイルを取り出した。ルパンはジャケットを脱ぎ、黒いシャツの袖をまくっている。ルパンにファイルを渡すと、すぐに食い入るようにぱらぱらとめくりはじめた。私はその間にスカートをパンツに履き替え、コーヒーを淹れた。
「うーん……これといってねえなぁ……“価値のありすぎる美術品”なんてのは……」
ルパンは難しい顔をして、右足を左足の上に組む。私はテーブルの上にカップをふたつ置き、隣に座った。
「この中で一番価値がありそうなもんは、の言う通り『ニコラ・フラメルの書』だ」
「でも、あれは、私が持ってる……東京の金庫に。ルパンがロンドンの財閥から盗んだものだし……まさか、その財閥がベルトリーニとグルだった?」
「うーん、どうだろうな。そいつも調べてみるか……」
ルパンは何度もファイルのページをめくる。その手が突然止まって、目を凝らすようにひとつのページを見つめていた。
「こりゃなんだ?『ジャンヌ・ダルクの首飾り』……?」
ルパンの指差した写真に、私も視線を移す。それは、金で作られた首飾りだった。複雑で美しい模様が施してある。中央には大きな琥珀。その左右には、鮮やかな赤い珊瑚がひとつずつ取り付けられている。
「ああ、そう。フランスの職人が、ジャンヌ・ダルクをイメージして作ったらしいけど……たしか十八世紀頃だったかな」
「ジャンヌ・ダルク?」
ルパンはファイルを顔に引き寄せ、じっと見つめた。ルパンが何も言わず唸っているので、私は続ける。
「それ、私もよく知らないの。気がついたら父さんのギャラリーに展示されていて。どういう経緯で手にいれたのかとか、詳しく聞けなくて……たしか、知り合いから譲り受けたとか、買い取ったとか言ってた気がするけど」
そうだった。この首飾りを手に入れて、それほど長い時が経たないうちに
ルパンはファイルから『ジャンヌ・ダルクの首飾り』の写真を抜き取り、繁々と見つめた。やがて、口を開く。低い声で言った。
「これは
「えっ……あの、北欧神話の?」
「ああ、そうさ。『ブリージンガメン』
「そんなものがあったなんて……知らなかった」
「無理もないさ。表舞台には出ず、裏を渡り歩いてきたしろもんだからな。こいつがどうにかして親父さんの手に行き、それを知ったベルトリーニが譲るように交渉。しかし、決裂
「そ、んな」
こんな、こんなたかが首飾りで、父さんは殺されたというの?
この首飾りを父さんが手にいれた経緯や、その後の父さんのようすをなんとかして思い出そうとする。でも、記憶が霞んでしまっていた。
当時、私は何をしていた? 三年前、……。そうだ。憧れのニューヨークの美術館で働けることになって、意気揚々としていた。それまで手伝っていたギャラリーの運営は、父さんに任せきりにして。美術館に慣れることに精いっぱいで、父さんとあまり話をしていなかった。
でも、そうだ。たしか、一度だけ。黒いスーツの男が、ギャラリーで父さんと話していたような気がする。そのとき、父さんの顔は険しかった。そのスーツの男が、まさかベルトリーニに関係する男だった?
どうしてそのことを忘れていたんだろう。ああ、どうして、父さんときちんと話をしなかったんだろう。「大丈夫?」と訊いたとき、父さんは笑って、「大丈夫だよ」と答えたんだ。大丈夫なんかじゃ、なかったのに、……。
「親父さんは、誰からこれを譲り受けたんだ?」
「え……っと……。わからない……知り合いだとは言っていた気がするけど」
ああ、全然思い出せない。悔しい。私は唇を噛み、『ブリージンガメン』の写真を見つめた。
「親父さん、 これを『ブリージンガメン』だと知ってたのか?」
「どうだろう……たぶん、知らなかったんじゃないかな。ルパンの話だと、表沙汰にはされていないものなんでしょう? 父さんは、美術品には詳しかったけど、裏社会とは関わりはなかった……はず。ずっと美術一本で生きてきた人だから」
「そうか。そうなると、誰かが『ジャンヌ・ダルクの首飾り』と偽って、親父さんに渡したのか。それとも……そもそも、これは『ブリージンガメン』としてじゃなく、『ジャンヌ・ダルクの首飾り』として出回ってたのか……?」
「ルパンはよくわかったね。これが『ブリージンガメン』だって」
それまで写真を見つめていたルパンは、顔を上げて私を見た。にひひ、といつもの笑い顔を浮かべる。
「まあね。じつは、俺も狙ってたんだ、『ブリージンガメン』。んでも見つからなくってなー。そりゃそうだよな。違う美術品として世に出回ってんだから」
「そうなると、ベルトリーニが『ブリージンガメン』を持ってる……? 『ブリージンガメン』の正体を知って?」
「ああ、この推理が当たってれば、そうだろうな。ベルナルドのほうは知らんが、ルカは強欲そうだからな。あいつなら、『ブリージンガメン』の存在を知って、手に入れようとしてたとしてもおかしくねぇ」
『欲しいものは必ず手に入れる』。そう言っていたルカの冷笑が頭を過り、身震いした。ルパンは頭を冷やしただろうと言っていたけれど、簡単に引き下がるだろうか。
「これでターゲットがもうひとつ増えたな。『アルノ川』『青の結晶』。んでもって、『ブリージンガメン』。どうせなら全部頂いちまうか。『ブリージンガメン』、は欲しいか?」
「ううん……私は……いらない」
「即答だな。巨額の富が手に入るんだぜ?」
「いらないよ。そのせいで命を狙われるんじゃ、わりに合わないし……それに……これのせいで父さんが殺されたのだとしたら……持っていたくない」
私は苦笑する。お金なら、父さんやおじいちゃんの保険金や遺産のおかげでたくさんあった。でも、お金だけ持っていたって虚しい。
「そっか。じゃ、遠慮なく俺様が頂くとすっか。んでもまあ、実際に巨額の富ってやつが手に入るんだかは胡散臭いけどなー。不二子なら欲しがるだろうなぁ。目の色を変えそ」
また“不二子”。周りの温度がすっと下がるような心地がした。
「あっ、そうだ」
“不二子さん”の名前で思い出した。私は立ち上がって、寝室に行く。咄嗟に立ち上がってしまったけれど
本当にいいの? これを渡してしまっていいの?
でも、ルパンが何か絵を盗んで、それがまた修復の必要があったら。私に依頼してくれるかもしれない。万が一にもそんなことがあれば。
だって
。 私はそっと唇に触れる。
ルパンはほんとうにずるい。私のことは女として見てないくせに、優しくしたり、ピンチに現れてくれたり
ずるいよ。だから諦めがつかないんだよ。だから、……どんどん好きになってしまうんだよ。
私は小さくため息を吐いた。これ以上ルパンを待たせてしまっては、変に思われる。私は一切の思考と感情を断ち切って、額を両手で掴んだ。私の肩幅ほどの絵を、慎重にリビングへ持っていくと、ルパンが「おっ」と言って立ち上がった。
「一応、できたよ」
ソファの裏側に絵を立てかけ、布を取る。
「わーお! こりゃあ素晴らしい」
ルパンは屈んで、『エリザベス一世』をしみじみと見つめた。
「ほーお、すごいな……。修復前の絵は知らねえが、これなら不二子も納得だろうよ。ありがとな」
「ん」
私は曖昧に笑う。ルパンが誉めてくれているのは嬉しいけれど、不二子さんの名前と、“これを渡したらさよなら”という不安が駆け巡って、心から笑みを浮かべられなかった。
「しっかし、見事じゃねえか。不自然さがまったくないな。ちゃん、プロの修復師になれるんじゃないの?」
「なれないよ。これは、そんなに状態が酷くなかっただけ。たまにならこういう作業もいいけど、仕事にするにはしんどいなぁ」
修復の作業はとても楽しかったけれど、同時に精神がかなり疲れるので、これをなりわいにするのは難しいと思った。
「私はもっと、動いているほうがいいかな」
「へえ。美術館のガイドか? それとも、考古学者?」
ルパンは屈んだまま私を見上げ、にっと笑う。私も自然に笑みを返すことができた。ルパンの笑った顔は、あたりをぱっと明るく照らす。
「ガイドもいいけどね……考古学者も、憧れるなあ。遺跡を発掘して、調べて、世の中に発表する、……」
「なればいいだろ?」
「
今回の『アルノ川の春』を最後にするなら。今までのように、父さんの美術品の情報や行方を探すために、美術館や博物館を転々とする必要はなくなる。もちろん、美術館の仕事は嫌々やっていたわけではないけれど、考古学により惹かれてしまうのは事実。既存の美術品を案内する仕事も素敵だけど、私自身の手で、新たな美術品や歴史を解き明かすことができたら、楽しいだろうな。考古学を詳しく学ぶために、大学に行き直したり、発掘チームにアプローチしたりするのも、良いかも……。
こういう気持ちになれるなんて、父さんやおじいちゃんが死んでしまった当初は、思いもよらなかった。父さんのコレクションを全部取り返さないと気が済まない、というくらいに、憤りや悲しみに満ちていた。でも今、は、『アルノ川の春』を最後にしても良いかも、と思えている。他の美術品は、お金を貯めて、いずれ取り戻せたらいいかな……。
それに。先ほどルパンが言っていたように、これ以上ルパンに父さんのコレクションを盗んでもらっていたら、私に捜査の目が向かないとも限らない。
私の足で歩んでいかなければならないときは、いまなのかも
私はじっとエリザベス一世の絵を見つめた。色を取り戻した彼女。柔らかな表情に浮かぶ強い瞳。
私は、絵じゃない。色なら自分で取り戻していかなきゃ。いつまでも誰かの修復を待っていたんじゃ、だめなんだ。
「
「さっきの話?」
「うん。父さんの美術品をこれ以上盗むと、私に足がつくかもっていう話」
「ああ」
絵を眺めるのをやめて、ルパンは立ち上がる。私の正面にルパンが立つ。
私はそっと息を吸って、吐く息に声を載せた
「『アルノ川の春』で
なんとか声を震わせずに言えた。けれど、ルパンの顔は見られない。私は、ぼんやりとルパンのイエローのタイを見つめていた。
ルパンにこれで最後にしようと言われるのは辛い。けれども、自分の言葉で“最後”というのも胸が痛んだ。本当にこれでおわりになってしまうのかな。
ルパンは少しの間、何も言わなかった。どんな顔をしているんだろう。気になるけれど、顔を上げられない。
しんと静まる空気。ああ、音楽でもかけておけば良かったな。
「
ルパンはそっと口を開いた。私は首を横に振る。少しだけ目線を上げた。ルパンの口元が見える。
「ううん……お金に余裕ができたら、いつか買い戻すかもしれない。でも、ルパンに四つ盗んでもらって、私が一つ買い戻して
「そうか」
「ありがとう、ほんとうに」
なんだか最後の別れみたい。目頭が熱くなってきて、また目を伏せた。涙が出ないように、ルパンに会えなくなる辛さとか切なさとか寂しさとか、一切の感情をシャットアウトしようとした。
「んー、ま、俺もずいぶん楽しませてもらったよ。『ニコラ・フラメルの書』の謎解きやら、地下鉄に穴を開けたりやら」
ルパンは明るい声だった。私も彼に倣う。
「懐かしいね。ニ年前かぁ」
言ってしまって、後悔する。ニ年。どん底から至福まで味わった。長かったような、短かったような、……。
ルパンと知り合って、もうニ年になるんだ。ニ年も、かな。それとも、たったニ年、かな。
「あ、そうだ。こいつのお礼に何かプレゼントしよう。何がいい?」
ルパンに視線を向けると、ルパンはエリザベス一世の額縁を叩いた。
「え、そんな。いいよ、べつに。ご飯も奢ってくれたし……ドレスも」
「メシやドレスなんざ安いもんじゃないの。ダイヤとかは?」
「ダ、ダイヤー? 本当に、いいってば。むしろ、お礼をしなきゃならないのは私のほうでしょう? 父さんの絵を取り戻してくれたお礼」
「だから、あれは俺が好き好んでやってたからいーのよ。は、何が欲しい?」
ルパンとの時間。私が欲しいのは、これだけ。どんな宝石やアクセサリーよりも。
でも、本人を目の前にしてそう言えるはずもなく。私は首を傾げながら考えて考えて、ひとつ考えが浮かんだ。言っても良いものか迷ったけれど、どうせ最後になるかもしれないならと、口にする。
「……カプリ島」
「なんだって?」
「またいつか
ルパンはどことなくほっとした様子で、「なーんだ」、と言った。私がカプリ島ごと欲しい、という意味で言ったと捉えていたのかもしれない。
「いいよ、連れてってやる。お安い御用だ」
ルパンは気まぐれだから、叶えられるかわからない。けれど、嬉しかった。またルパンに会えるかもしれないという、ちょっとした希望。ルパンと会えるのは、これで最後じゃないかもしれない。切なさで押し潰されそうになっていた胸から、重石が取り除かれるような心地がした。
「そーだ。さっき礼をしたいって言ってたよな? ならピアノ弾いてくれよ」
ルパンは明るい調子で、親指で部屋の隅にあるアップライトピアノを指した。
「あと、酒も」
「ここはバーじゃないんですけどね」
「堅いこと言わなーい」
そう言って勝手にソファに座るルパン。私は顔をしかめてみせながらも、ワイングラスとボトルを持ってきて、ルパンの前に置く。
「だんだんレパートリーがなくなってきたんだけどな……」
「いいよ、なんでも」
軽い調子で言って、ルパンはグラスにワインを注ぎ、ひとりで飲みはじめる。
もう、勝手だなあ。
人前で、しかもルパンの前でピアノを弾くなんて、相変わらず気が引けるけれど。今は少し、弾きたいなと思いはじめていた。今のこの気持ちを、外に出してみたい。
ひとつだけ、ポピュラーソングで練習した曲があった。アメリカの女性バンド、The Banglesの『Eternal Flame』。私はそっと鍵盤に手をかけ、演奏をはじめる。
恋の気持ちを綴ったバラード。はじめて聴いたときに、可愛らしく美しいメロディーと歌詞に惹かれた。
私の胸の鼓動に あなたは気づいている?
あなたは 私と同じ気持ちでいるの?
それとも 私ひとりが夢見ているだけ?
雨の合間に 光が射すように
孤独だった私の人生に 光をくれた
あなたが現れて
私の心を 癒してくれた
この気持ち 失いたくないのよ
この気持ち、失いたくない。
もう少し、もう少しだけ。あなたを好きでいてもいいかな。
ルパン、……。
曲が終わって、ルパンが何も言わないので振り向くと、ソファの上で寝入っていた。
もう。ルパンが弾いてくれと言うから弾いたのに。
ルパンは疲れていたのか、ソファの上に横になって、口を開けて眠っている。思わず笑ってしまった。子どもみたい。
寝室からブランケットを取り出してきて、そっとかける。
「おやすみ」
ああ、好きな人にそう言えるのっていいなあ、……。
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The Banglesの『Eternal Flame』。歌詞は意訳です。
(15.9.5)