Ⅶ. 白刃踏むべし ... 4



 ルパンの寝顔をずっと見ていたかったけれど、睡魔に襲われて、私は諦めてシャワーを浴び、ベッドに入った。横になった途端、重い疲労感が圧し掛かってきて、目を閉じる。
 疲れた。今日は良い日だったのかそうじゃないのか。とにかく色々なことが起こった。ルカと食事をして、    また、キスをされて。彼の深い闇の片鱗を見た気がした。激しい後悔と恐怖と不安。
 それが一変、ルパンが現れた。それだけでも信じられなかったのに    ルパンが私に、キスをした。
 あれは夢だったんだよと言われたら納得してしまいそうなくらい、未だに実感がない。でも、唇だけは、あのときの熱を覚えている。できることならずっと忘れたくない、……。
 それから、父さんを殺した犯人がルカだと知った。ルパンと真相を調べるためうちに帰って来た。カプリ島。ルパンとの約束、ピアノ、ルパンの寝顔……。たくさんたくさん、忘れられないようなことが重なった夜。
 目を開けたら、ルパンはいなくなっているかもしれない。ルパンはいつも、知らぬ間に私の前から去って行ってしまうから。
 本当は眠りたくない。朝が来てほしくない。でも、身体は言うことを聞かない。葛藤虚しく、私の意識は遠のいていった。




 薄目を開けると、あたりは明るくなっていた。まだ夢の中にいるかのような、ふわふわした頭で上半身を起こす。
 胸の中に甘さと切なさを残している夢の残骸を、拾い集めようとする。
 じゅっという何かが焼ける音と匂いがして、私は覚醒する。ガタガタという物音がキッチンのほうから聞こえ、私は恐る恐る寝室からようすを覗いた。
 なんだろう? 誰か、いる……?
 キッチンの様子を見て、びっくりした。黒いシャツの袖をまくり、ルパンが軽快にフライパンを動かしていた。

「ルパン……!」

 寝室から出て行くと、ルパンは振り向いた。

「おー、おはよー。何って、見てわかんない? 朝メシ作ってるんだよ。ちゃん、仕事だろ? ほらほら、着替えてらっしゃいな」

 ルパンは、まるで母親のような口調。私は、夢でも見ているような気分になった。
 ルパンは帰ってしまったと思った。それなのに、ここにいて、しかもなぜか、キッチンでご飯まで作っている。
 私は戸惑いを抱えたままバスルームに行き、顔を洗った。冷たい水の感触に、これは現実なんだ、と確認する。そして、着替えて、軽くメイクをして、髪を整える。
 とにかく。ルパンはここにいる。混乱は、しだいに嬉しさに変わっていった。
 リビングに戻ると、テーブルの上には料理が並べられていた。ベーコンの上に載った目玉焼き、レタスとトマトのサラダ、オニオンスープ、パンに、コーヒー。お皿はニ枚。
 「どうぞ」、とルパンに促され、向かいに座る。ルパンが食べはじめたので、私もスープに手をつけた。

「ルパンって、料理するんだね」
「まあな。わりとうまいんだぜ? ま、インスタントか外食のときのほうが多いけどな」
「おいしいよ、これ」
「だろー? 料理の腕も天才なのさ」

 にこっと笑うルパン。ありあわせのもので、あの手際の良さでさっと作ってしまうのだから、本人の言うこともあながち嘘ではないのだと思う。そういえば、カプリ島でもエミリオさんと一緒に料理をしていた。料理のうまい泥棒。なんだか可笑しい。でも、ルパンにとってはできないことのほうが珍しいのかもしれない。なんだか悔しいけど。

「あ、そうそう。もうすぐ予告状出す予定だ。んー、あとニ、三日後ってとこか」

 ルパンはフランスパンの上にベーコンエッグを載せて、ぺろりとたいらげてしまってから、言った。
 あとニ、三日。来週中にはルパンとお別れ、か……。けれども、昨日の小さな約束のおかげで、絶望的な寂しさには襲われなかった。でも、胸はちくりと痛い。今回は、今までで一番、ルパンと過ごした時間が長い。だからこそ、またしばらく会えなくなること、そして次に会えるのはいつかわからないことが、堪えた。
 暗い気分になってしまう前に、私はルパンに訊ねた。

「『青の結晶』と『アルノ川の春』は、どこにあるの?『アルノ川』はミラノにあるって、ルカは言っていたけど」
「ああ、そうそう」
「来月、ベルトリーニのギャラリーがオープンするって言ってた。そこ?」
   ああ」

 ルパンは食べる手を休めずに、続ける。

「ベルトリーニのやつ、相当用心深いのよ。人もコンピュータも、警備に抜かりねえ」
「……大丈夫?」
「俺様を誰だと思ってんのよ」
「料理のできる泥棒」
「“料理もできちゃう”天下の大泥棒」

 私は笑った。ルパンも笑う。
 でも、本当に大丈夫なのだろうか。ルパンは、過去にターゲットを盗めなかったことはない、と自称していたけれど。今回は、なんだか胸騒ぎがする。ルカの、ルパンを睨みつけるあの目が、頭にこびりついて離れない。ルカのことだから、ルパンの正体は調べているだろう。それでも、ルパンならやってくれるだろうな、という漠然とした信頼感もあった。ルパンにはそういうところがある。はじめから。人を信じさせずにはいられないような、不思議な魅力。

「ところで、ちゃんがいつもつけてる時計   

 ルパンはコーヒーを左手に、右手の人差し指で、私の左腕を指す。

「うん」
「ドイツの老舗メーカーの、だな。いい値段するだろ? 男からのプレゼント?」
「ああ、これ。   父さんから、ね。就職祝いに」

 世界中を飛び回っていた父さん。私は、おじいちゃんと日本で過ごすことも多かったけれど、長い休みのときは父さんのもとに行ったり、父さんのそばで暮らしたりすることもあった。大学を卒業して、職場に馴染めなくて悶々と過ごしていたところに、父さんに呼ばれた。長年の夢だったギャラリーを、ニューヨークにオープンさせた父さん。私もギャラリーを手伝った。けれども、私はニューヨークの美術館で採用が決まった。以前から憧れていた場所だった。本当は、しばらく父さんのギャラリーを手伝うつもりだったけれど、父さんの薦めもあって、ギャラリーの手伝いを辞め、美術館で働きはじめた。
 それからしばらくして   父さんは、殺されてしまった。就職祝いのこの腕時計が、まさか父さんの形見になってしまうなんて、夢にも思わなかった。

「なるほどー。ちょーいと見せてくれっかな?」

 ルパンは人懐っこい笑みを浮かべる。

「いいけど……ただの腕時計だよ」

 私は腕時計を外して、ルパンが伸ばしてきた手の上に載せた。ピンクゴールドのブレスレットで、やや長方形のケース。文字盤も薄いピンクで、時刻を示すローマ数字と針はシルバー。いたってふつうの腕時計なのに。どうしてルパンは見たがるんだろう?
 私の少し戸惑ったようすを感じ取ったのか、ルパンは時計を眺めながら言った。

「じつは俺、時計にはちーとばかしうるさくってな」

 私は時計にはあまり明るくないけれど、たしかにルパンが身につけている腕時計は高価なものだと窺える。ジャケットやネクタイや靴や、ルパンは身につけるものにはこだわっているようだった。たぶん、いずれも相当にいいものだ。

「ふーん……比較的新しいタイプでファッション寄り……」

 そんなことぶつぶつ言いながら、ルパンは私の時計をひっくり返して触っている。そんなに熱心に見て、時計好きは他人の時計が気になるのだろうか。

「あ、もうすぐ七時半だぜ? 仕事は大丈夫なのか?」
「そうだ! もう行かなきゃ」
「俺が片づけとくから、は準備して来いよ」

 一瞬迷ったけれど、ルパンの好意に甘えて「ありがとう」と言って洗面所に向かった。歯を磨き、きちんとメイクをし、髪も整える。寝室に戻って、バッグの中身を確認し、ジャケットを羽織る。
 もっとルパンと一緒にいたい。仕事なんてなかったら良かったのに、なんて思ってしまう。ルパンと朝の時間を過ごせるなんて、こんな貴重な機会、もう二度とないかもしれない。私の部屋の空間にいるルパンをもっと見ていたかった。後ろ髪ひかれる思いで、バッグを肩にかけ、リビングに向かった。
 ルパンはお皿を重ねているところだった。私に気がついて、手を止めてこちらに来る。

「ほら、時計。ありがとな。いいもんだよ、それ」
「ああ、うん、ありがと」

 ルパンが渡してくれた腕時計を右手にはめる。

「じゃ、いってらっしゃい。後は俺がやっとくから」
「え? いや、でも、……鍵、どうするの?」
「ちゃんと閉めてくって」
「……どうやって?」
「鍵なんて開けるのも閉めるのも朝飯前さ」

 そういえば。この前、一緒に食事をした帰りに、私が寝てしまったとき。ルパンは私を部屋まで送ってくれたのだった。そのときも、鍵はきちんと閉めていたはず。ルパンはそれを開けて入ったということ? そうだ、私が東京にいたときもそうだった。勝手に私の部屋に入って、『フォロ・ロマーノ』を置いて行ったんだ。

   プライバシー侵害だよね。それって」
「んじゃ、合鍵でもくれるのかなー?」

 ルパンがにやっと笑うので、つい心臓が大きく動いてしまう。また、こういう冗談言って。

「合鍵を渡したって、勝手に開けて勝手に入るんでしょ、どうせ」
「そりゃまあ、必要があれば」

 時計をちらっとみると、もう八時近くになっていた。
 まずい、遅れちゃう。でもルパンともっと一緒にいたい、……。でも行かなきゃ……。
 迷いを振り切って、私は言った。

   じゃあ……行くね。朝ごはんと後片付け、ありがとう」
「いんや。こっちこそ勝手にごちそうさま」

 ルパンは玄関まで見送りに来てくれた。
    なんだか、これって。

「『エリザベス一世』……持って行ってね」
「ああ、サンキュー」

 次に会えるのは、ルパンがベルトリーニに盗みに入ったあとかな。それとも、これが最後……? それは、訊けなかった。答えを聞くのが怖い。

「いってらっしゃーい」
「うん……行って……きます」

 私はドアを開け、そっと閉めた。ルパンの笑顔と手を振る姿が完全に閉ざされる。
 アパートを出て、部屋を見上げると、ルパンの姿が見えたのにはちょっと驚いた。投げキスなんてしてる。おどけたキス。愛なんてこもってないのだろうけど、なんだか微笑ましくて、可笑しくて笑ってしまった。私はルパンに手を振って応えてから、早足で急いだ。名残惜しさを精いっぱいに感じながら。

 

    なんだかこれって同棲しているみたい。
 私は一日中、昨夜からの出来事が頭から離れなかった。何度も何度もリフレインさせる。ルパンと再会してからのことを。
 なんだったんだろう。この一連のこと。
 ルパンは私のことをどう思ってるんだろう。何度もその考えが頭を過る。たぶん、嫌われてはいないのだと思う。でも、女として好いてくれているのかというと   ちがう。たぶん、ルパンが好きな女性とふたりきりで部屋にいるのなら、口説くとか手を出すとか、何かしら行動に移していたと思う。でも、何もなかった。なーんにも。むしろ朝ごはんを作ってくれたり、見送ってくれたり、妹とかただの女友だちとか、そういうふうな目線なのかな。それとも、ただの知り合い程度なのかな。
 今までに幾度も考えてきたことだけれど、ルパンとこんなに接近してしまって、深く考えずにはいられなかった。
 伸ばした手が届きそうで、でも、届かない。

 仕事を終えて帰路につく。路地からアパートを見上げたとき、部屋に明かりが灯っていないことに気がついて、心が周りの闇と同化したような気分になった。すっと胸の中から光が消えていく。わかっていはいたけれど、暗然としてしまった。部屋のドアにはきちんと鍵がかかっていた。開けると、暗い部屋の中から微かに煙草の匂いが鼻をくすぐってくる。胸が潰れそうな切なさが私を締めつける。
 明かりは点けずに、思い切りその匂いを吸い込む。今度は大きな息とともに吐き出すと、闇が一段と濃くなったような気がした。

 

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(15.9.9)
アニメでエプロン姿のルパンを見て以来、ルパンの料理のシーンはぜひ入れたかったんです。