ルパンは『エリザベス一世』の絵を持って行ったようで、部屋に彼女の姿はなかった。今までずっと彼女と過ごしてきたから、いなくなってしまって、無性に孤独感を感じた。
 それに、昨晩と比べてしまうと、普段よりも静寂が重苦しい。ルパンの置いていった残り香があちこちにあるせいで。
 思えば、ひと月近いこの期間、ずっとエリザベス女王と一緒にいた。彼女と向き合っていた。彼女の色を取り戻したくって、ルパンの期待に応えたくって、必死で修復に取りかかっていた日々。少しだけ寝不足気味だけど、そんなことは気にもならないくらいに、充実した時間だった。
 その作業ももう終わってしまった。エリザベス女王がいて、ルパンがいて、次元と五エ門もいて。
 そんな濃密なひと月が終わろうとしている、……。

 

Ⅷ. 漆黒の闇に輝く青き

 

 感傷に浸っていてもきりがないので、早めに寝て早めに起きた。日曜日の朝。多くの人にとっては休日だけれど、私の働く美術館は開館しているので、私にとっては出勤日だった。でも、今日は仕事があって良かったと思った。胸の中の、幸福感の残骸や切なさを、紛らわせることができるから。
 時間があったので、私は朝食を作ってみようと思い立った。スクランブルエッグ、レタス、トマト、ハム、チーズをパンに挟んで、食べる。余った野菜とベーコンでスープを作り、コーヒーを淹れた。普段は前日の余りものや、バールで購入したパンを食べるのだけど、こうして家でのんびり朝ごはんを食べるのも悪くないなあ、と思う。でも、   物足りない。ひとりで食べる朝食は。ふたりの朝食の楽しさを知ってしまった今は。
 そう。知ってしまうともう、戻れない   

 片づけやメイクを済ませ、ベージュのジャケットを羽織り、腕時計を身につけ、家を出る。
 春の清々しい朝   のはずだった。アパートを出て少し歩いたところで、路面に漆黒に輝く高級車が目に停まった。高そうな車。こんなところで見かけるなんて、珍しい。ちらりと視線を送って通り過ぎようとしたところで、後部座席の窓ガラスが開いた。奥から顔を見せたのは、見知った顔。ルカ・ベルトリーニだった。
 私ははっと立ち止まった。ルカの鋭く光る瞳。走れ、逃げろ、と頭のどこかで聞こえた気がした。けれども、ルカの瞳の深さに見入られてしまい、反応するのに時間がかかってしまった。駆け出そうとしたときには、黒いスーツの男ふたりに囲まれていた。

「一緒に来ていただけますか」

 ぞっとするほど穏やかなルカの声と表情に、身震いする。私はやっとの思いで口を開く。声は震えていた。

   これから仕事なんです」
「あなたはもう働く必要はない」
「え、……どういうことですか?」
「私のもとで働いてもらう。なるべく手荒な真似はしたくないのでね。素直に来ていただけるとありがたいのですが」

 左右の男がわずかに私との距離を詰める。私にノーと言う選択肢はないようだった。男たちも、ルカも、目の奥でぎらぎらと研ぎ澄まされる色があった。無言の圧力のようなものをひしひしと感じた。背筋を冷ややかなものが流れる。心臓がばくばくと勢いよく動いている。
 どうしよう。大声を出したり、逃げようとしたりしたら、きっとこの男たちは手を上げるのだと思う。ぴりぴりとした殺気を肌で感じた。逃げ場はない。どうしようもない、……。

   わかりました」

 小さく、低く言って、私はルカに促されるまま後部席に乗った。車が発車すると、ガラスに曇りがかかり、外が見えなくなる。

「……どこへ?」
「私の屋敷のひとつ。しかし、あなたは場所を知る必要はない。外に出ることはないのだから」

 『外に出ることはない』。どういうこと……?
 とにかく、状況はかなり悪いほうに流れていっている。このままルカの言う屋敷に連れ込まれたのでは、おそらく逃げ道がゼロに近くなる。なんとかしないと。
 車は内側からロックをかけられている。バッグに役に立ちそうなものは? 今朝方確認した内容を思い返す。財布、化粧道具、本、ペットボトルの水、ハンカチ……。駄目だ、何もない。ああ、携帯電話を持っていればよかった。普段必要がないものだから買わずにいたのだけど、とりあえずでも契約しておけばよかった。
 誰か私の不在に気がついてくれそうな人は? 頭を思い巡らせる。美術館のスタッフ。出社しない私を心配して、警察に連絡してくれないだろうか。でも、下手をすると、こいつは警察を丸め込める。かつてニューヨークで父さんを殺したときのように。
 それなら、ルパンが   ルパンが気がついてくれれば。
 でも、どうやってルパンに伝えるの? それに今は、盗みの準備で手一杯かもしれない。
 ああ、そうか。もしかしたら、これから行くところはベルトリーニのミラノ本社かもしれない。そうしたら、ルパンがきっと、盗みに来る、……。
 私が不安と格闘しているのを尻目に、ルカは携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけた。

「そちらの館長をお願いします   はい。の婚約者です。彼女は急遽帰国することになりまして。ええ、父親が“亡くなった”んです。申し訳ありませんが、そちらは今日かぎりで退職を」
「ちょっ、」

 ルカは美術館に電話しているとわかり、ルカに掴みかかる。受話器の奥から、聞き覚えのある声   館長の声がわずかに聞こえた。ルカは勝手にすらすらと会話を進めて、電話を私のほうに向ける。

「館長と最後の言葉を交わしたらどうかな?」
「最後、って……館長! 私、……」

 受話器に向かって声を上げようとすると、堅いものがお腹に押しつけられる感触がした。腹部を見ると、黒く光る拳銃が突きつけられていた。ルカを見上げると、彼はにこりと微笑む。
 口裏を合わせろ、ということ。私は唇を噛んだ。吐き気がする。

「……すみません。本当に……今まで良くしていただいてありがとうございました」
『父上のこと、残念だね……しかし、退職をしなくても。休職でもいいんだよ。しばらく待っているから』

 館長の優しい声が、緊迫しきっている私の全身に染みわたっていく。涙が滲みそうになる。退職に追い込まれた今、あの美術館をわりに気に入っていたことに気がついた。規模は大きくないけれど、スタッフは絵に愛着があって、来館者のリピーターも多かった。そこを、こんなかたちで辞めることになるだなんて。
 私が悄然としていると、ルカは無慈悲に拳銃を押しつけてきた。

「いえ、……きっと余裕がなくなると思うので……すみません……はい……ありがとうございました」

 今の私は、ルカの言いなりになるしかなかった。はじめて目の当たりにしたピストル。その堅さと冷たさに、思考が麻痺してしまう。
 私は電話の電源を切って、ルカに渡した。できることなら、ルカに殴りかかりたかった。でも、これから待ち受けることへの恐怖や不安で、動けなかった。

   どういうつもりですか」

 精いっぱい厳しい声を、視線を、ルカに投げかける。ルカはしれっと笑っていた。

「あとであのアパートの大家にも連絡を入れよう。これで、あなたの不在を不審に思う者はいなくなる」

 ルカは拳銃を胸ポケットにしまい、私に冷ややかな目線を落とす。

「あなたのこと、調べさせてもらった。まさか“あの”氏の娘だったとは」

 やはり、すぐに調べられてしまった。私はルカを睨み続ける。

「しかし、愚かだな、私に近づくなんて。父親は今頃、空の上で嘆いているだろう」

 こいつ   。私は拳を力の限りぎゅっと握りしめる。

「あなたが父さんを殺したんでしょう」
「いいえ、私じゃない。私はただ、氏の持つコレクションが欲しかっただけ。しかし、氏は頑なに拒むんでいたのでな、そのことを嘆いていたところ、“偶然”にも氏は亡くなってしまった」
「『ブリージンガメン』ですか」
「そこまで調べたのか? 単なる小娘と思っていたが   いや、バックにルパン三世がいるのなら、無理もないか」

 やはり、ルパンのことも知られているんだ。
 迂闊だった。本当に。ルカに近づいたこと、顔を見られたこと、名前を名乗ったこと。まさか、マフィアと繋がっていて、人殺しを平然とする男だったなんて、想像もできなかった。ルカは“しばらく懲りただろう”とルパンは言っていたけれど、こいつを甘く見るべきじゃなかったんだ。

「『ブリージンガメン』なんて……そんなもののために、父さんを殺したんですか」
「“私が”殺したのじゃないと言ったろう。しかし、あれは価値の高いものだよ。価値が“ありすぎる”。あなたの父親のような庶民が持つものではない」
「あれを持つ者は巨万の富を手に入れられる……? そんな真実か定かじゃないような迷信ごとを、本気で信じてるんですか」
「迷信ではない、事実だ。アメリカ大統領、石油王、大戦の指導者   『ブリージンガメン』を手にした者は皆、富と名声に恵まれているんだ」
「そんなものを、どうして父さんが……」
「友人に掴まされたらしいな。運よく『ブリージンガメン』を手に入れた男が、マフィアから追われる中、氏に託したらしい。氏はそれと知らず、友人の大切なものだと思い込んでいた。だから、私に譲らなかった。憐れだよ。その友人とやらは、危険なものと知っていながら『ブリージンガメン』を氏に渡したのだからな。友を疑って拒否していれば、あんなことにはならなかった」

 そんな。そんなの、……   父さん、……。

「恨むのであれは、氏の友人を恨むといい。もっとも、そんな男を信じた氏も氏だが」
「その、父の友人はどうしたんですか?」
「さあ? あれ以来彼の名を聞かないな」

 まさか、殺したの? その問いは、恐ろしくて訊けなかった。この人は   こいつの住む世界の人間は、躊躇いなく人の命を奪うことができるんだ。自分の利益のためなら。

「それにしても、あなたはルパン三世まで手懐けて、私に復讐でもするつもりだったのか?『ブリージンガメン』を奪い取りに来たのか?」

 私は答えず、ただ強い視線をルカに送った。ルカは可笑しそうにくすくすと笑っている。

「それとも、ルパンに手懐けられたのはあなたのほうだったか? ルパンの駒にさせられて、私を探ろうとした結果がこれか」
「ルパンはそんなことはしません。する必要もないもの」
「そうかな。あいつはあなたが思う以上に狡猾な男だよ」
「そんなこと、……」
「まあ、いずれにしても    ルーピン・トゥッレ。ふざけた名だ。仮面のせいではじめは気づかなかったが、先日顔を見せたときに、すぐわかったよ」

 ルカは得意気に口端を上げる。

「こそ泥がミラノのギャラリーを嗅ぎまわっていることには気づいていた。もしやと思っていたが、それがルパンだったとは。私は運がいい。痛快だ」

 運がいい? どういうこと?
 私の動揺が顔に出ていたのか、ルカはさらに笑みを広げた。そして、懐から一枚のカードを取り出し、私に差し出す。

『近日中にあなたのコレクションを頂きに参ります    ルパン三世』

 達筆な字。そして、コミカルなイラスト。ルパンの、予告状だ。

「昨日私のもとへ届いたよ。これが奴の出す最後の予告状だ」

「最後? どういう……」
「ミラノのギャラリーには、何もない。さもあそこにコレクションがあるように見せかけて、実際に存在するのは、膨大な数の警備とシステムだけだ。愉快だね。ルパン三世を逮捕。私は、その名声も評判も手に入れることができる」

 私はただただ呆然と『ルパン三世』の文字を見つめた。ルパンが盗みに入ろうとしているミラノのギャラリーには、何もない。代わりにルパンたちを待ち受けているのは、たくさんの警備。
 ルパンが、捕まる?
 ううん。次元も五エ門もきっといるのだろうから、あの三人なら、きっと大丈夫。大丈夫、……。
 ルカは、震える手で予告状を握りしめる私のもとから、カードを奪い取る。そして、びりびりに破り去り、車の窓を開け、紙くずを放った。それらは宙を舞い、桜吹雪のように風に吹かれ流れていく   
 私のもとから希望が消えていくような心地がした。

「あなたは私の屋敷に案内しよう」

 ルカは茫然自失する私を愉快そうに眺めながら、言った。

「そこには私のコレクションのすべてがある」

 はっとして目を細めると、ルカは軽やかな口調で続けた。

「あなたは、万に一つもルパンがミラノを抜け出せるようなことがあった際の保険にもなる」

 つまり、私を人質にするということ?
 そんな    最悪だ。私のせいでルパンが捕まるのだとしたら。そんなことになるくらいなら、……。
 ルカは、目を伏せる私に顔を近づる。息がかかるほどの距離。

「まあ、そういうことはないだろう。ミラノの警備は抜かりがないから。あなたを連れてきた理由は、主にふたつだ。ひとつは単純にあなたを手に入れたいと思ったこと。以前私が語ったのは真実だよ。あの夜のあなたは美しかった。金や欲望にまみれた舞踏会のなかで、あなたの美しさは独立していた。危うい美しさだ。余裕がなく、触れれば壊れそうなのに、眼差しは強い。そして話をしてみると聡明な女性だった    私に近づこうとしたのは愚かだったがね」

 ルカは私の顎をすくう。私は必至で抗ったけれど、彼の力の強さの前には無力だった。

「あなたの周りには、女性なんてごまんといるでしょうに」
「ああ。あなたよりも美しい女は掃いて捨てるほどいる。だから、第二の目的だ」

 ルカはさらに私の顔に近づいて、言った。彼のブルーの瞳が間近にあった。鼻先が触れ合う。

「あなたの強く美しい瞳が壊れるとどうなるか、見たいんだ」

 こわい。
 以前感じたよりももっともっと、深い恐怖が全身を駆け巡った。目の前が暗くなっていく。背筋に寒気が走る。
 一方のルカは、私の恐怖を見て満足そうな笑顔を浮かべている。

「それと、もうひとつ。私は後継者を望まれていてね。相応しい女性を何人か探しているんだ。そのひとりが、あなただ」

 ルカは私を解放する。震えが止まらなかった。後継者、って。

「東洋の聡明な女性。そして、私の優れた外見と頭脳   良い後継者が生まれると思わないか」

 ああ、最低だ。
 こいつは父さんを殺した男なのに。

 どうしてルカに近づいたんだろう。愚かだった、本当に。彼の闇の片鱗を見ていたのに。なんとかなると思っていた私が馬鹿だった。
 せめて、ルパンたちが捕まりませんように。ミラノから無事に逃げ出せますように。
 私は、……きっといつか、脱出できるチャンスはあるはず。神経を尖らせて、抜け出せる機会を伺う。今の私には、それしかできない。
 いざとなったら   このままルカに好きなようにされるくらいなら、撃たれたほうがましだ。
 そういうふうに考えるしか、自分を奮い立たせる方法が見つからない。
 そうでないと、絶望の底に落とされそうだった。

 

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(15.9.12)