Ⅷ. 漆黒の闇に輝く青き光 ... 2




 途中、ヘリコプターに乗り換え、再び車に乗った。どれくらい時間が経ったかわからないころ、ようやく目的地に到着した。車でも上空でも始終窓に目隠しをされていたので、ここがどこなのかまったく検討がつかない。時間間隔も麻痺してしまっている。まだ空は明るいから、極端に遠くに来たわけではないのだと思う。
 ただ、なんとなく、南イタリアではないような気がした。空気の感じが、違う。カプリ島に行ったときに味わった、南イタリアの温かな空気とは違う。それならば、ここは北イタリア? ヴェネツィアやトリノに近いのだろうか。

     カプリ島。思い返してしまって、どうしようもない懐かしさが込み上げてくる。あのころがだいぶ前のことのように感じる。ずいぶん果てしない場所に来てしまったような気分だった。

 目の前に佇むのは、大きな屋敷。パーティー会場だったフィレンツェ郊外の豪邸とは異なり、深い森のなかにある。白塗りの壁のニ階建ての建物。
 ルカはどこかに行ってしまい、私は黒いスーツの男ひとりに連れられて歩いた。男、ひとり。
 今ならなんとか逃げ出せるかもしれない。そう考えて男のようすを伺うけれど、隙がなかった。男の顔は冷酷な無表情で覆われている。私が逃げ出そうものなら、躊躇なく拳を振り上げそうな、そんな雰囲気。
 だめだ、なにもできない、……。
 男は階段を上がり、屋敷の奥のほうと思われるひとつの部屋に私を押し込んだ。

「大人しくしていろ。そうすれば危害は加えない」

 誘拐犯の常套句のような台詞を乱暴に吐いて、男は立ち去って行った。当然ながらドアには鍵がかかっていて、私の力で押してもまるで開く気配がない。
 扉からは出入りできないと諦めて、私は部屋を見回した。私の1LDKのアパート一室がすっぽり入ってしまいそうな広さ。窓がふたつ。けれども、取っ手や持ち手の類は一切ついておらず、ガラスも分厚い。試しに叩いてみると、ゴンゴン、と鈍い音がするだけだった。近くにある椅子を叩きつけても、無駄だろう。
 その他には、クイーンサイズのベッド、ドレッサー、棚がふたつ、ワードローブがひとつ。脱走に役立ちそうなものは何もない。
 体のいい監獄だ、と唇を噛む。

 私はバッグの中身をドレッサーの上にぶちまけ、何か使えそうなものがないか探った。でも、何もない。先ほど思い返した通り。財布、化粧ポーチ、本。強いて言うならば、ヘアピン。これでドアの鍵を開けられないか、鍵穴に差し込んでみたけれど、当然ながら開錠される気配はない。
 ルパンだったら、こんなの“朝飯前”なんだろうな、……。

 絶望感が漂いはじめた気だるい身体を引きずって、私はベッドに腰掛ける。
 どうしよう。どうすればいい。もう、なすすべがない。

     ルパン。次元、五エ門。今頃はベルトリーニのミラノギャラリーにいるのだろうか。そこに『青の結晶』も何もないことに、驚いているだろうか。おびただしい警備の数とルカは言っていたけれど、どれほどなのだろう。ルパンたちは、無事だろうか。
 ううん、ルパンたちならきっと大丈夫。天下の大泥棒って、本人が言うんだもの。
 ルパン    いつか、私に気づいてここに来てくれるかな。いつか、……。
 でも、ルカのあの目。ルパンが気がついて来てくれるころには、私はどうなっているだろう。ぞくり、と全身が寒気に震える。

 だめだ。今すぐ逃げ出さないと。ルカは、手加減なんてしない。何をされるかわからない。何か考えないと。私は立ち上がって、うろうろと考え込む。何か、何か、何か良い方法は。
 窓の外を見てみる。暗く重い雲が空を覆っていた。周りには深く茂った森しかない。でも、なんとかこの屋敷を逃げ出せたら、この森が身を隠してくれるかもしれない。
 まずは、どうにかしてこの屋敷を出なきゃ。もう一度、窓ガラスを強く叩いてみる。でもやはり、まったく微動だにしない。鍵穴らしきものもない。押しても引いても動きそうにない。

 やっぱりドアから出るしかない……? 私はヘアピンを握りしめ、もう一度鍵開けにチャレンジしようとドアに向かった。
 そのとき、扉が開く。やって来たのは   ルカだった。漆黒のスーツ。いつもの通りネクタイは結んでいない。

「逃げ出そうなどと考えないほうがいい。さっきも言ったが、女性に手荒な真似はしたくないのでね」

 ルカはそう優雅に言いながら、ジャケットを脱ぎ、ドレッサーの椅子にかける。そして、私のほうにゆっくりと近づいてくる。私は渾身の力を足に込めて、ルカを通り過ぎドアの前に駆け寄る。ドアノブを必死で回すも、ガチャガチャと乾いた音が響き渡るだけだった。
 逃げないと、はやく、いそいで    
 私の努力虚しく、後ろにルカの気配。かと思うと抱きすくめられた。身動きが取れない。

「言っただろう? 私は、手に入れたいと思ったものは逃したことがなくてね」

 耳元でそうそっと囁きかけられ、背筋が震えた。ルカは強い力で私の腕をつかみ、引っ張る。ジャケットは乱暴に脱がされ、床に放られる。頬に触れられたかと思いきや、ベッドの上に押し倒された。きしむベッド。ルカの不敵な笑み。遠い天井。
 ルカの瞳の奥は底なしに暗かった。夜の海のよう。以前は澄んだブルーの瞳をしているなと思っていたのに、こんな目をする人だなんて思わなかった。
     いやだ。こわい。
 こんなに恐怖を感じたのははじめてかもしれない……父さんもおじいちゃんも死んだときも、怖かった。ひとりになってしまったという怖さに震えたあの夜……ううん……そのときは、悲しみのほうが強かった。あのときは絶望的な悲しみの闇だった。
 今、私が連れ込まれようとしているのは、絶対的な恐怖の闇。それに呑まれてしまったら、私は、たぶん、……。
ルカは私の怯えを察したのか、笑みを深める。

「そう、その瞳が見たかった。あなたの強い目が恐怖に打ち震えるのを」

 精いっぱいルカを睨みつけようとしても、眼差しが震えているのが自分でもわかった。

「父を手にかけた男に抱かれるのはどんな気分だ?」

 やっぱりあんたが父さんを殺したんじゃない。憎しみが怖れを勝った途端、ルカは首筋に唇を当ててくる。温かく柔らかな感触が首を、鎖骨を伝う。
    やだ……。
 ただただ、身体中に力を入れてその感触に耐える。きもちがわるい。
 やがてルカの唇は私の唇に移動し、激しく吸われた。ルカの生温かい舌が侵入してくる。

「んっ……!」

 声を出してしまわないように、必死で抵抗する。
 力じゃ、とても敵わない。全身で抗っているのに、ルカは身じろぎもしない。空手とか護身術を習っていればよかった。もっと身体を鍛えておけばよかった。そんな仕様もない後悔が、瀬戸際に追い詰められた私の思考に入り込んでくる。
 ルカは、私が抗うたびにどんどん行為を深めてくる。あのときと同じ……ミケランジェロ広場のときと。でも、感じる怖さはあのときの比じゃない。あのときも恐怖の底を見たと思っていたけれど、もっともっと深さが測り知れなかった……。力が、入らなくなってくる……。
 それを見計らってか、ルカの右手が、それまで私の左手を抑えていた手が、私の胸を掴む。
 いやな感覚。
 解放された左手で抵抗しようとしても、無駄だった。力がまったく入らない。まるで私の無力をおもしろがるように、ルカは左手でゆっくりと私のシャツのボタンを外していく。時間をかけて、丁寧に。温かな手が肌に触れる。そしてそのまま、私の胸へ……ルカの唇は私の首筋から鎖骨に移り、舌を這わせている……ルカは右手を私のスカートの下に伸ばす……。

 いや、……。
 誰か、……。
 父さん    
 私、父さんを殺した男に、こんなことされるなんて。
 私    

 身体にまとわりつく温かい感触に、声を出さないように必死に食いしばる。それだけが唯一、私にできる抵抗だった。私はなんて無力なんだろう。
 いつも、ルパンが助けてくれた    

     ルパン、……。

 何度もその名前が頭の中を埋め尽くす。
 胸が苦しかった。目の前にいるのは憎い男。でも、思考の中には愛しい人の名前。
 私、もう、ルパンに会えない、……。

 何か大切なものが、私のなかからすり抜けていくような。私の心が粉々に砕け散ってしまいそうな、そんな予感がした。
 このままこわれてゆく   

 私、……なにもできないの……?
 ルカを振りほどくことも。父さんの美術品を手に入れることも。父さんの敵を討つことも。
 私にはなにもできない。
 くやしい。
 むしろ、そんな男に自由にされているなんて。

 いやだ。

 私は右手に渾身の力を込め、ルカの首筋に振り下ろした。けれども、あっさりとルカの左手に阻まれる。ルカはようやく行為を止め、私の顔の前で笑みを作った。余裕をありありと浮かべた笑み。

「こんなもので」

 私が握りしめていたヘアピンを奪い取り、宙に投げ捨てる。

「どうやら少々痛い目に遭いたいようだ」

 ルカはポケットから折り畳まれたナイフを取り出し、広げた。柄の部分には宝石が散りばめられている。刃は研ぎ澄まされていて、冷たい光を放っていた。その刃を、ルカは私の頬にそっと当てる。ひんやりとした感覚が頬を伝う。ルカはそれをすっと下に引いた。
 鋭い痛みが頬に走る。ルカの動作からして深い傷ではないのだろうけれど、切り裂かれたようなズキズキした痛みを感じた。私は目を閉じて必死に耐える。
 次にルカは、ナイフを私の首筋に当てた。同じように首に痛みが走る。かと思うと、ルカはナイフを折り畳み、私の首筋に舌を這わせた。

「っぅ……!」

 今度は声を出さずにはいられなかった。じわりと沁みこんでくる痛みと生温かさ。ルカは満足した様子でナイフをしまい、私のスカートのフックに手をかけた。
 こわい。
 恐怖という恐怖が私を羽交い絞めにした。
 このままこいつになすがままにされるなら、死んだほうがましかもしれない    。そんなふうにさえ、思えてくる。さっきのナイフでひと思いに刺せばいいのに。でも、きっと、ルカは私を殺さない。ずっとこんな恐怖を、私に与え続けるつもりだ。
 目の前が真っ暗になる。どんどん暗闇の底に落とされるよう。
 きっと私は、もう二度と、光を見られない    

「ルカ様! ルカ様!」

 そのとき、ドンドンと扉が勢いよく叩かれる音が聞こえた。ルカは気だるそうに行為を止め、音のほうを振り向いた。私は依然としてぼんやりと闇のなかに落ちて行く心地を味わっていた。

「なにごとだ?」

 ルカは極めて不快そうな、きつい声音で言った。

「申し訳ありません、ですが緊急でして……」

 男の声には逼迫したようすが感じられた。ルカは舌打ちしながら身体を上げる。

「大人しくしていろ。お楽しみの続きはまたあとだ」

 放心状態の私を見下ろして、ルカはジャケットを掴み取って去って行った。
 私は、しばらくその体勢のまま動けなかった。全身がどくんどくんと激しく脈を打っている。ひどく気分が悪かった。ルカが消えてからも、彼の残した恐怖が身体中に張りついて離れなかった。ルカが舌を這わせたところにねっとりとした熱がこもっている。シャワーを浴びたい……。
 今になって涙が溢れてくる。絶望の淵に叩き落とされそうになった恐怖。父さんの敵である男になすがままにされていた屈辱感。何もできなかった非力な自分への悔しさ。泣いてしまったら、ルカに屈するような気がしたけれど、止まらない。

「……っ……」

 なさけない。
 喉の奥から声が漏れる。全身の震えが収まるまで、私は絞り出すように涙を流した。

 しばらくは、何をする気力も起きてこなかった。もうどうにでもなればいいと思った。
 けれども、なんとなく目を移した腕時計に、「このままじゃだめだ」と思った。父さんがくれた腕時計。父さんを殺したあの男に、これ以上好きにされたくない。
 私は涙を拭いた。横になって天井を見つめたまま、ゆっくりと呼吸をする。すー、はー、すー、はー。長く吸って、長く吐いて。
  大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 私はまだ、大丈夫。
 乱れた呼吸を整えると、ようやく頭も身体も動くようになってくる。

 幸いルカは、いなくなった。この隙に何か考えないと。
 ルカは、緊急だと言って呼び出されていた。何があったのだろう。しばらく戻ってこないだろうか。
 とにかく、なんとかして、逃げないと。

 私は重い身体を起こし、震える足に鞭を打って立ち上がる。乱れた服装と髪を整えた。シャツのボタンを留め直そうとしたとき、ドレッサーの鏡が目に入る。頬と首筋にはじんわりと赤い線。血の流れた痕。そして、首や鎖骨には朱色の斑点。
 私はバッグのなかに入っていたペットボトルの水を開け、ハンカチを浸して傷と斑点を拭った。血痕は消えたけれど、傷痕と朱色の痕は消えない。唇もごしごしと強い力で拭く。でも、嫌な感覚は消え去らなかった。恐怖の膜も依然として私の全身を覆っていた。

 私は右手で傷のついていないほうの頬を思いっきりつねる。
 しっかりしなきゃ。逃げるんだ、逃げるんだ。もうルカの好きにはさせない。
 私は床に捨てられたジャケットを取り、羽織る。少しだけ身が引き締まる気がした。そして、シャツのボタンを留めた。傷は少し見えてしまうけれど、こうすれば忌々しい痕は見えない。  バッグの中身を改めてチェックする。財布、化粧道具、本、ハンカチ、水。私は少し考えてから、財布と化粧水のスプレーだけジャケットのポケットに入れた。財布は持って行くか迷ったけれど、私の身分がわかるものをここに置いていきたくはなかった。化粧水のスプレーは私の唯一の武器。あとのものは邪魔になるだけ。置いていこう。

 深く息を吸い、吐く。扉に近づいて耳を当てると、どこからともなくバタバタと足音や慌てる声が聞こえてきた。どうか、扉の外に誰かいますように。私はポケットの化粧水のスプレーを取り出し、握りしめた。
 大丈夫。やるしかない。前に進むしかない。そう必死ですがりつくように、言い聞かせた。

 

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(15.9.12)