気がつくと、花畑のなかにいた。色とりどりの鮮やかな花たちが風に揺れている。見渡しても見渡しても同じ光景。花々が咲き乱れる小高い丘が続いていた。空の色は灰色がかった薄い黄色。雲はひとつもない。
ここはいったい、どこ? 私は、いつからここに? どうしてこんなところにいるんだっけ?
直前の私の行動を思い返してみても、靄がかかったように詳細を思い出せない。どうやってここに来たのかも、いつからここにいるのかも、何もかもぼんやりと薄い膜に覆われてしまっていた。
でも、そんなことはどうでもいいように思えてくる。
私は、自分の身体を見渡した。手も足もきちんとついている。顔に触れてみる。頭に触れてみる。紛れもない私の身体。でも、どこか変だった。ちがう。何かがちがう、……。
はっとした。下を向くと、胸のところにぽっかりと穴が開いている。指がニ、三本入りそうなくらい。一瞬、卒倒してしまいそうになったけれど、なぜだかすぐに受け入れることができた。
ああ、穴、開いちゃったか。そんな楽観的な感覚。痛みはまったくないし、血も出ていない。恐る恐る背中に触れてみると、そちらも穴が開いている。貫通しているようだった。
それで、おぼろげに思い出した。私は、胸に強い衝撃を受けたんだった。でも、どうして……?
私は、胸に穴が開いてしまっているから
まあ、いいか。少し歩いてみよう。
ここは天国なのかなぁ。私、死んでしまっているのかな。花畑なんて典型的な天国のイメージだもの。
たしかに身も心も軽かった。心配事も悩み事もぜんぶ吹き飛んでしまったかのよう。死んでいようが問題ない。そんな気分。
歩いても歩いても、花しかなかった。ここにはあらゆる色がある。
赤、青、水色、白、緑、紫、ピンク、ベージュ、オレンジ……。そして空の黄色と灰色。花々の間からは、地面の黒と茶色が薄らと見えている。すべての色がある。花たちが風に吹かれてゆっくりと揺れている。
私は立ち止まった。私の身体は風を感じていない。でも、花は揺れている。
あらゆる色の花たち……ちがう……あらゆる色なんかじゃない。
何かが足りない。大切な、とても大切ななにかが。大事な色が、ない。
それならここは、天国なんかじゃない
Ⅸ. イエローイングレー
ゆっくりと視界が開ける。古い天井。知らない天井がある。
あれ……?
頭がくらくらした。つい先ほどまで深い夢に入り込んでいたような心地がする。はっきりと脳裏に焼きついている、あのカラフルな光景が、目の奥に蘇る。。
けれども、そことは違って、この場所には色がない。灰色の天井。
ただ、身体の感覚ははっきりしていた。全身に重力が圧し掛かっているような重苦しさを感じるし、胸のあたりがずきずきと鈍く痛む。おかげで生きているんだなあ、と感じることができた。先ほどの夢のなかよりも、頭も視界もクリアだった。
「あ、大丈夫ですか?」
人懐っこそうな笑みを浮かべた男性が、私の顔を覗きこんでくる。年齢は二十代か三十代。少年のような幼さもあるし、落ち着いた大人の雰囲気もある。彼のおかげで、私の視界に色が戻った。薄暗い部屋のなかで、彼の赤茶色の髪がランプに照らされている。
「あの……ここは……? 私は……?」
私がか細い声で訊ねると、男性は眼鏡の奥でにこりと笑った。
「ご心配なさらず。一応、医者……もと・医者です、僕たち。今、もうひとりを呼んで来ますね」
彼はそう言って、部屋を出て行く。私は身体を動かそうとしてみるけれど、まったく動かなかった。全身がだるすぎる。手足が鉛のように重い。胸の痛みのせいでうまく力が入らない。かろうじて、顔をわずかに動かすことはできた。
男性はすぐにもうひとりを連れて戻って来た。もうひとりの人も男性だった。その男性が口を開く。
「どうだ、気分は」
「え……と……だるいです……すごく」
お腹に力が入らず、うまく声が出せなかった。男性は「そうだろうな」と答える。厳格そうな顔と声。ブラウンの髪に少し白髪が混じっているけれど、声は若々しい響きがある。四十代くらい、だろうか。
「胸のあたりも……けっこうずきずきします」
「ああ。だが、命の心配はない。後遺症もないだろう。しばらくはそのだるさと痛みには苦労するだろうがな。当たりどころが良かったよ、まったく」
“命の危険”、“後遺症”
「あの……私……どうしたんでしたっけ……?」
まだ思考が追いつかない。私が訊ねると、年上の男性は顔をしかめた。
「覚えていないのか? 撃たれたんだぞ、銃で」
「撃たれた、……」
途端に、目の前にスローモーションの映像が蘇ってくる。撃たれたときの衝撃。胸の痛み。血の気が引いていく心地。
そうだ、思い出した。私は撃たれたんだ
私の頭のなかに、それまでの記憶が激しい勢いで流れ込んでくる。私を撃ったルカ。崩れ落ちていく彼の姿。叩きつけ、砕け散ったカメオ。青の輝き
「ルパンは……ルパンたちは? ベルトリーニは……どうなったんですか?」
声を出したいのに、うまく出せない。細々と、それでも精いっぱいの早口で訊ねた。しかめっ面の男性は、顔を横に振る。
「訊きたいのは俺たちも同じだ。まずは、すり合わせといこうか。俺はオスカーで、こっちはマルコだ」
マルコと言われた赤毛の男性は、軽く会釈をする。オスカーという年上の男性が、続けた。
「あんたは・。日本人。間違いないな?」
「はい……」
「服の中に入ってたあんたの財布を見た。そうだ、悪いが服は改めさせてもらったぞ。血まみれだったんでね」
そういえば、今はゆったりとした服に着替えられているようだった。私が着ていたのはスーツ、だったと思う。
「オスカー、後にしません? 怪我人ですよ」
マルコさんがオスカーさんをたしなめる。けれど、オスカーさんは首を横に振った。
「いや、少しなら大丈夫だろう。受け答えはできるようだしな。それに、なるべく早くに話しておきたい。単刀直入に訊く。あんた、ルパンとはどういう関係だ?」
「え? どういう、って……」
「あんたは、あいつらとは違う。一般人だ。そうだな? なのに、なぜこんなことに巻き込まれた?」
「なぜ……と言われても。説明すると、長くなります……」
「簡潔に話せ」
「オスカー」
冷たく言い放つオスカーさんを、マルコさんが呼び止める。けれども、オスカーさんは引きさがりそうになかったので、私はかいつまんで説明することにした。私自身、言葉にすることで、今の状況や記憶をはっきりさせておきたかった。
まず、父さんが殺され、美術品が奪われたことを話した。そして、偶然出会ったルパンが、奪われた絵を盗んでくれたこと。それからニ年ほどの付き合いがあること。今回も父さんの絵を盗んでくれることになったこと。ターゲットは、ベルトリーニということ。そして、ベルトリーニの屋敷に連れ込まれたところを、ルパンたちが助けてくれたこと。美術品を盗んで逃げようとしたところを、撃たれたこと。
話していくうちに、オスカーさんの表情が険しくなっていく。
「ベルトリーニのことは、新聞にだいたい書いてあった。その事件にあんたが絡んでいたとはな。わかってるのか? あいつらはマフィアと繋がりがあったんだ。そのマフィアやベルトリーニの残党が、あんたを狙うかもしれないんだぞ。とんだところに足を突っ込んだもんだ」
オスカーさんは容赦ない口調だった。
「そもそも、あいつらと関わったのが運のつきだな」
「あいつら……?」
「ルパンたちだよ。もうあいつらと関わるのはやめろ」
「そういえば、ルパンたちは?」
そうだ。オスカーさんの忠告など頭に入らず、私は慌てて訊いた。あれから、ルパンたちはどうしたのだろう。
「あんたを置いてどこかへ行ったよ。いずれ戻るとは言っていた」
そうか、よかった。捕まらなかったんだ。ルパンたちならきっと逃げ切れる。
安堵したのも束の間、オスカーさんは遠慮のない言いようを続けた。
「だが、いつまでもルパンがあんたの傍にいて守ってくれるわけじゃない。それはわかっているだろう? あんた、どうするんだ? ひとりでベルトリーニの残党から逃げ切れるのか?」
私ははっとした。そう。ルパンも言っていた。ルカがマフィアや殺し屋と手を組んでいた、と。私たちを囲んだ、銃を持っていた男たちも、そういう連中なのかもしれない。ルカのコレクションを奪ったルパンたちを、ルカのバックにいたやつらが見過ごすだろうか。それに……そうだ。次元がルカを撃ったんだ
ぞっとした。一生追われて生きることになる……? かといって、オスカーさんの言う通り、ルパンたちの傍にずっとついているわけにもいかない。私なんて、完璧に足手まといだ。
そう、私はルパンたちとは“ちがう”、……。
私が背筋を凍らせていると、オスカーさんが言った。
「だが、俺ならあんたを隠してやることができる」
オスカーさんは、わずかに語調を穏やかにする。恐怖の底に沈みそうになった私に、そっと手を差し伸べてくれるかのように。
「俺たちなら、あんたを“死んだことにできる”」
「え、……?」
「書類をでっちあげて、あんたの死亡証明書を書く。そして、新しく適当な戸籍を用意する。ベルトリーニの追手がいたとしても、撒ける」
思いがけない提案に、絶句する。“死んだことにできる”……突拍子のないことに、開いた口が塞がらなかった。
「ただし、それには今まで親しかった者との決別が必要だ。あんた、家族や恋人は?」
「え……いません」
「いない?」
「父は先ほど言ったように亡くなっていますし、母も私が幼いときに。唯一の家族だった祖父も、もう……。親類は、……縁を切られていますし……」
「それなら、大きな問題はなさそうだな」
さらりと言うオスカーさん。私に家族がいないことが“大きな問題はない”、か。悪い人ではないのだろうけど、言葉に気を遣うとか、そういう配慮があまりない人らしい。少し怖い、とも思うけれど、不思議と悪い気持ちは湧いてこなかった。私を怒らせたり悲しませたりするために言っているのではなく、根本には私への気遣いがあるような気がした。実直な人のような気がする
それにしても、“死んだことにする”、なんて、現実味がまるでない。そんなことが本当に可能なのか。でも、オスカーさんは元医師なのだというから、その繋がりでできるのだろうか。
たしかに、オスカーさんの言うように、私がいなくなっても大きな問題はない。やり取りをしていた友人。美術館のスタッフ。私が死んだとわかったら悲しんでくれる、かもしれない。でも、家族や恋人ほど親しかったわけでもない。
かといって、戸籍を抹消するなんて大それたこと、抵抗がある。それに、もし政府や警察といったところにばれてしまったら、どうなるんだろう。
でも。ルカと手を組んでいた裏の人間に付け狙われる恐怖に怯えながら過ごすのは、どんなに身を切られる心地がするだろう。ルカと対峙したときの怖さが蘇ってくる。あんな思いをずっとするなんて、耐えられない。
「ゆっくり考えろと言いたいところだが、ルパンたちがいつやって来るかもわからん。もし“死ぬ気がある”なら、あいつらが来る前に始末をつけたい」
「え……? ルパンたちにも、私は死んだことにする、ということですか?」
「当たり前だ。あいつらとも縁を切ったほうがいい」
オスカーさんは冷ややかな目線を私に落とす。
「そ……んな。ルパンたちになら、べつに隠さなくても。黙っていてくれるんじゃ……?」
「そういう問題じゃない。あんた、今回自分がこんな目に遭ったのは、そもそもあいつらに関わったせいだろう?」
そんな。そんなふうに考えたことはなかった。ルパンたちの“せい”だなんて。だって、ルパンたちと出逢わなかったら、私の世界は暗いままだった。感謝こそしているけれど、恨んだことなんて一度もない。
私が黙り込んでいると、オスカーさんは続けた。手加減のない口調で。
「あんたとルパンじゃ、住む世界が違うんだよ」
住む世界がちがう。この言葉は、ぐさりと胸に突き刺さった。
「まっとうな世界を生きて行きたいなら、あいつらのことは忘れろ。それとも
私は閉口する。オスカーさんは続けた。
「あいつらといると刺激があって楽しい、か? ったく、一般人ってのはその手のパターンが多いんだよ。ちょっと非日常的なことに足を突っ込むと、興奮や心酔でのめり込む。そして、引き返せないところや死の間際まで来てから、しまったと後悔するんだよ。あんたは今回助かったからいいものの、懲りてないのか? だとしたら、愚かにもほどがある」
オスカーさんの言うことはいちいち私の胸を突いた。すべてその通りで、言い返せない。たしかに、私は浮かれていたかもしれない。ルパンが運んでくる非日常に。普通に暮らしていたのでは行かないような、雰囲気のあるバーやレストランに連れて行ってもらったり。車のない私が夜景のハイウェイをドライブできたり。息を呑むほど美しい景色を見せてもらったり。華やかなパーティーに出席したり。綺麗なドレスを着てダンスをしたり。
私は、ルパンに、というよりも、ルパンの見せてくれるもの珍しい世界のことが、好きだった……?
たしかに、そうかもしれない。それは否定できない。でも私は、“ルパンと一緒だったから”、幸せだった。
けれど、それは一時の幻想。儚い時間。ルパンと私は、歩く道が違う。根本的に。
好きになるべきじゃなかったんだ。最初から。
そう。解かっていたはずなのに……。
ルパンは女好きで、ひとつのところに留まらない人。でも、そもそもそれ以前に、ルパンは泥棒。私とは住む世界がまるでちがう。ルパンが気さくに私に接してくれているから、ついつい忘れてしまっていたけれど。
はじめから自制すれば良かったんだ。もっともっと強く。はじめから叶いっこないって解かっていたのに。どうして好きになってしまったんだろう。
でもきっと……結末がわかっていても、好きになってしまっていた、と思う。
出逢ってしまったのがいけなかった。
ルパンと出逢わなければ、こんな苦しみや悲しみは味わわずに済んだ。
でも、ルパンと出逢わなかったら
頬を熱いものが流れるのを感じた。止められなかった。腕が満足に動かせないので拭えなかった。そんな情けない自分に対しても、ますます涙が出てくる。
オスカーさんは私のようすを見て、眉を曇らせた。
「一時間だけ、時間をやる。一時間経ったら眠っていても叩き起こすからな」
オスカーさんは冷ややかに言い放って、部屋を出て行ってしまった。
top | back | next
(15.9.24)